論考

Thesis

誰のための政治か

10月は、政経塾への中間報告が義務付けられていることもあり、英国での活動を一旦切り上げて帰国している。
 久しぶりの日本だったが、中間発表会での発表に加え、今年から新しく始まった政経塾現役とOBが一同に会した松下政経塾湘南会議での発表、2回の体験入塾での発表と計4回もの発表を多くの人々の前で行う機会を得た。同世代のみならず、かなり年配の方々や学生など広い年齢層にわたる人々の意見を聞くことが出来た。体験入塾に参加された方々は非常に意識の高い方々が多く、体験入塾後にも幾つかのグループの人々と意見交換することになった。また、久しぶりの帰国ということで、8月に始めたサークル「東行会」の打ち合わせを兼ねて何人かの会員とも話す機会があり、久しぶりの多くの人達と議論した。もちろん久しぶりに出会った塾生との議論も有意義だった。

 多くの方々との議論の中で考えさせられたことは、タイトルの通り、「私は誰のために政治を行うか」ということだ。半期の総括も兼ねてここに記しておきたい。

まず政治理念は、客観的な社会科学であるべき

 よく、「私は恵まれない人達のために政治をします」、とか、「○○党は高齢者のための政治を考えます」というようなフレーズが言われる。今更言うまでもないことだと思うが、政治は基本的に全ての国民のために行われるべきだ。特定の誰かのために政治が行われることがあってはならない。かつては、労働者による政治(プロレタリアート)独裁によって現体制を否定し、別の体制を実現するという革命思想的政治理論も存在しえたが、冷戦構造崩壊後、現在の資本主義体制を否定する政治思想が生まれていない以上、現体制下で全ての人々が幸せになるためにはどうすべきか、という命題こそがあらゆる政治理念における共通基盤であらねばならない。欧州における福祉国家モデルも、経済との調和が絶対の条件と考えられるようになってきている。
 そういう意味で、政治理念とは、現在の資本主義体制とは何か、という客観的な社会科学であるべきだ。世界先進諸国でいわゆる政治の中道化といわれる現象が見られるが、結局のところ、これは全ての政治思想が、「経済・市場とは何か」という共通の命題を共有してきたがために起こっている現象だろう。所謂「第三の道」論も、「市場を否定する」ことも、「市場を盲目的に肯定しない」ことでもない「第三の道」と解釈される。

しかしながら、政治理念は同時に「行動の科学」でなければならない。

しかし、単なる自然科学的な「認識の科学」であれば、客観性は容易に保持されるが、政治理念は単なる観察の道具ではありえず、現実の諸問題を解決する「主体の科学」「行動の科学」である以上、「客観性の名のもとの無為」は肯定されえない。
 例えば、仮に自然科学的な知で我々が生物界を観察すれば、「食物連鎖」という自然の客観的法則が見える。我々が単なる観察者であれば、人間は、魚を食べ、その人間は更に強い肉食動物に食べられる、と客観的に語っていられる。しかし、我々がその肉食動物に食べられつつある現実の人間であったならどうか。我々の知は、その状況を如何に変革するかという方向で活かされるべきだ。我々は、「食べられるべき人間」という客観性を受け入れることはできない。「生きなければならない」という主観に基づく知は、食物連鎖という客観的知に挑戦する。ここで、「認識の科学」と「行動の科学」「主体のための科学」との間に緊張関係が生まれる。政治理念はまさに「行動の科学」「主体の科学」であり、客観性と、その客観性が前提とする現状を変革するための意志との緊張関係のもとに成立する、アンビバレントな知のあり方である。
 かのJ・M・ケインズの有名な言葉、「IN THE LONG RUN, WE ARE ALL DEAD」の言葉は、この政治的知の緊張を見事に表現する。客観的に肯定されうる現状況に対し、我々の主観はその改革を求める。しかしその主観もまた客観的であらねばならない。あらゆる政治理念は常にそんな緊張を内包する。そこにこそまた社会の発展の源泉があるのだろう。
 私は将来、国政にたずさわりたいと考えている。全ての日本国民のために政治をするつもりだ。しかし、私は同時に変革しなければならない。誰のために、何のために変革するのか?

現在の政策思想論争への懐疑

 選挙の度に論点が見えないと揶揄される我国の政治シーンだが、幾らかの論争は存在する。構造改革か、景気対策かという論争の名を借りただけの低次元な政争は論外として、一般的に見られるのは、我国にも、世界的な潮流となりつつある市場原理を導入すべきという構造改革論と、それとは別の道を模索すべきだというアンチ市場主義論に整理されると思う。しかし、それらを聞いていて常に疑問を感じるのは、それらは双方ともに市場というものを観念的に捉えて、それを善玉と捉えるか悪玉と捉えるか、という観念的な思想で全てを判断しようとしていることだ。
 個人的には、市場がうまく機能しているか否かは、市場毎に異なるわけで、全てを混同すること自体に問題があると思う。例えば、ミクロの個別産業の市場を考えた場合、日本程の経済力になれば、国内産業の保護といった視点はあまり重要でなく、基本的には市場の持つダイナミズムを肯定すべきだ。食糧安全保障的観点から考えると等一次産業には若干の問題があるが、2次・3次産業の分野においては積極的に世界の市場化の動きを促進こそすれ反対するべき立場ではない。しかし、マクロな経済政策、例えば、通貨・金融政策というマクロレベルで見ると、日本の経済基盤は極めて脆弱で、かつアジアの通貨危機等連発する世界の経済危機を見るに、安易な市場万能主義は危険だ。グローバリゼーション・市場主義の名の元に思考を停止すべきではなく、積極的な政治のリーダーシップにより我国経済の自立性を高めるべきだと考える。
 現在の政治論争は非常に安易な誤りを犯しているように見える。アジアの通貨危機を見て所謂「アンチ市場主義」が力をつけると、すぐにミクロのレベルにおける規制緩和や市場統合の動きにブレーキがかかる。もしくは、所謂マネーファンド悪玉論もしくは国際資本悪玉論のような大雑把な観念的議論ばかりが幅をきかせる。肝心の通貨政策や金融政策には議論が至らない。逆に、アジアの通貨危機は、急激な資本の自由化のせいだ、と安易な魔女狩り理論が横行し、通貨政策・金融政策の誤りを隠蔽する。ミクロレベルとマクロレベルも区別できない安易な観念論では、現実の諸問題を解決しうる政治理念にはなりえない。構造的に諸問題を把握して現実的な解決のストラテジーを描く、という構想力が今の日本には必要だと思う。

「日本らしさ」への懐疑

 現在の日本の改革を阻む勢力の理論は、いわゆる「アンチ市場主義」という所にその根拠を求めている。そして多くの場合、市場主義を、所謂弱肉強食をも肯定する「アングロサクソン・モデル」と強引にカテゴライズした上、自身の立場を、いわゆる「日本らしさ」の維持に置く。護送船団方式や終身雇用など、いわゆる「和の精神」に代表される日本人の集団性が強調された制度や慣行の維持を主張する。
 しかし、現実的にはそれらは単なる既得権益層の隠れ蓑になっているだけではないか。終身雇用という安定的雇用が、社員の会社へのロイヤリティを高め、生産性の向上につながるという理屈は理解できるが、現実的には、過去に蓄えた膨大な資産を食い潰しつつ、既得権益層たる中高年を保護し、諸問題を次世代へと先延ばししているだけではないのか。雇用の確保という名の元に、競争力のない企業に公共投資を投入し続けることは、将来膨大な財政赤字を補填する次世代から、現在の中高年という既得権益層への利益移転ではないのか。そして、本来雇用政策として取られるべき、雇用の流動化政策や技能研修制度、生涯教育制度等への投資を奪っているのではないか。膨大な財政赤字は、すぐに来る大インフレの中で、次世代に繰り越される前に全国民、特に年金生活者等に負担を強いるという形で解決されるという意見を聞くが、それこそ年金生活者という弱者への皺寄せ政策であって社会正義にもとる上、超インフレで弱体化する円は、国際経済に相当の悪影響を与え、日本経済の国際的な地盤沈下と為替切り下げ=近隣窮乏化政策によるアジアの分裂という事態を招き、世界に夢をはせる若者の道を阻むことになる。昨今勃発する少年犯罪に対し、最近私はシンパシーすら覚えている。無能な政治家を選び、現在の既得権益層を守ることで改革のチャンスを奪いつづける今の日本社会に、若者は絶望させられている。

 「護送船団方式」が本当に日本らしさなのだろうか。例えば、作家の邱永漢氏は、中国人との比較から日本人の特質を「職人気質」とする。職人は、自分の腕に自信と誇りを持って、独立して生計を営む。商売には疎いかもしれないが、良いものを作るのでお金には困らない。江戸っ子は「宵越しの金は持たない」と言われるが、それは何故かというと、夜が明けても、必ず自分の腕さえあれば仕事があってお金に困ることがないという誇りと自信があったからだ。「日本人らしさ」というと、すぐに集団思考・安定志向を思い浮かべてしまいがちな気がするが、独立心あるクラフトマンシップこそが、日本人の特質であるとも言えるのである。雇用の流動化や起業が日本人にあわないなどということはないはずだ。

 政府は、経済波及効果の少ない公共投資も、適当に「ケインズ理論」を持ち出して正当化している。しかし、ケインズは、決して社会主義者ではない。国家社会主義者の巣窟と化した自民党にケインズを語る資格はない。ケインズは自らを「自由主義者」と規定している。
 日本のケインズ経済学第一人者の伊東光晴氏は、ケインズの哲学を以下のように位置付けている。

~「彼の主張したものは経営者資本主義であるといっていいであろう。経済的効率、社会的公正、個人の自由、この三つこそ求めなければならない。そして社会的公正を最も強く主張したのは社会主義者である。これと経済的効率と個人の自由、この三つを鼎立させるとき、ケインズはイギリスの階級社会にかわるメリトクラシー(能力主義)の社会を夢想したと言っていい。
 能力ある人間が経営者として登場する。そこには経営者と労働者としての差異を、能力のあるなしということで識別できるとする、ケインズ特有のビジネスデモクラシーの考え方がある。~

今の日本の公共投資を見たとき、ケインズは何と言うであろうか。またアングロサクソンであるケインズのこの思想は、アングロサクソンのみならず、日本の「職人気質」の文化にも適合できるのではないか。「能力」を「技能」に置き換えれば、日本型クラフトマンシップ資本主義ができあがるのではないか。

では私は誰のために、何のために政治を志すか

先に、「政治理念は客観的社会科学でなければならない」と述べたが、それと同時に現実の政治は、「選択」である。「全ての国民のための政治」を大前提として心に刻みつつも、我々は行動しなければならず、多くの場合、政治的行動とは、「選択」だ。個別の政策、特に私のテーマである外交・通貨・通商政策に関してはまた別の形で具体的に論じていくので今回は、やや観念的になるかもしれないが総論的な話をしたい。

 我々の直面する時代の潮流は、大きく2つに分けられると認識している。
 1つは、国内問題、眼前に迫りつつある少子高齢化現象だ。この問題に関しては政経塾同期の畠中氏が研究しており、いつも議論している。畠中氏がいつも言うのは、常に少子高齢化問題は、高齢者の生活をどう守るかという視点ばかりが論じられるが、我々は、少子高齢化社会で生きる我々若者の立場こそを考えるべきということだ。
 国民皆保険もしくは税金による最低限での高齢者保護は必要だし、世代を超えて支えあうことにこそ、即時的な概念では位置付けようのない、歴史的概念としての国家の意義があると考える。過去を未来をつなぐ事こそ国家の役割のはずだ。しかし、それが安易な、若年層から高齢者への所得移転になってはならない。少子高齢化問題において、我々にとって高齢者のことを考えることが重要であるのと同じ位、我々の次世代のことを考えることは重要なはずだ。老人の世話ばかり考えて、子供やそのまた子供のことを考えられない家は潰れてしまう。
 急速な少子高齢化の第1段階で高齢者となる層は、比較的裕福な層であるわけで、本当の問題は、少子化により我国が活力を失うことにあるはずだ。特に国際的な経済基盤が弱いわが国の場合、人口の減少は深刻な問題となる。
 労働力という観点だけであれば、女性の社会進出の促進や、高齢者の社会参加で補うという考えもあろうが、市場の縮小と、今の日本の資本を支える高齢者層の資産が減少していく中で、資本不足が深刻な問題になるのは避けられないのではないか。国際化に関しては2つめの問題として上げるが、やはり外国人及び外資の受け入れを促進する方向を考えるべきではないか。このままでは日本は過疎の国になってしまう。多くの地方が過疎対策として雇用問題に取り組むが、雇用対策は一時的な気休めにしかならない。特に公共投資による雇用創出もしくは維持は、経済の社会主義化を招くだけで到底サステナブルなものではない。過疎を防ぐには、その場所を外部から見ても魅力的な場所にして、人やマネーを惹きつける場所にしなければならない。また現在潜在的にかなりのレベルにまで高まった来ている日本の雇用問題だが、長期的観点では少子化の中で逆に労働力不足の方が問題となろう。

 2つ目は国際化の問題だ。再三今まで主張してきたが日本は孤立している。これだけ世界から孤立しつつあるにも関わらず、日本らしさを強調して国際化を嫌うのは、変化を恐れる生活保守主義者的思考でしかないのではないか。我々が古き良き日本に住んでいたい、とワガママを言う前に、最低限、次の世代、もしくは次の次の世代の人々が、「極東で孤立しつつ、しかし旧来の日本的雰囲気を保った閉塞した国」か、もしくは「世界に開けた、アジアのセンターとしての希望に溢れる新しい日本」なのか、そのどちらかを選べる権利を残すことを考えるべきだ。かつての成功を生んだ世代(戦前生まれ世代)の蓄えを食いつぶしつつ、日本らしさという名の元で国際化の努力を回避しようとする生活保守主義者の安易な政治判断は国を滅ぼしかねない。我々は我国の自立・自律を高め、ポジティブに国際基盤の拡充に務めるべきだ。敗戦を引きずる隷属的・自虐的な外交姿勢を改め、国際社会における意志をもった大人の国家として、米国とのより高度なパートナーシップとアジアでのリーダーシップを求めるべきだ。米国と並ぶ超大国であるという現実を受け入れて、それに相応しい責任と品格ある行動が求められるはずだ。

 我々の世代が、我々とそして我々の子供たちの世代のために声を上げて行かなければ、生活保守主義の蔓延する日本の未来はない、と感じている。
 政経塾入塾以来、指導官から度々、「我々はあらゆる観念・イデオロギーに囚われてはならない」と教えを受けてきた。あらゆる観念・イデオロギーに対し常にリベラルでありつつ、自分の感性を磨きつづければ、自然と方向は定まってくると感じている。耳を澄ませば、一遍の小説にも、電車内の一高校生の表情にもメッセージが溢れている。過去の成功に安住する中で、我国は未来を失いつつある。この国には希望がない。頻発する17歳の犯罪は、未来を失いつつある我国へのレジスタンスと解すべきではないだろうか。

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鈴木烈の論考

Thesis

Retsu Suzuki

鈴木烈

第20期

鈴木 烈

すずき・れつ

東京都議(立川市)/立憲民主党

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