Thesis
先月、現在最も必要な構造改革は、「政治行政体制」の構造改革であり、それには、国民の意識改革が必要であると述べた。今月は、その内容に触れる。
政治とは、価値の再分配機構と定義される。簡単に言えば、税金を徴収して、その使い方を決めることが政治の最も重要な仕事だ。現在の日本の問題を考えると、よく指摘されることだが、財政破綻の問題を筆頭として、価値の再分配機能、つまり政治が停止していると認められることが多い。長期不況の問題にしても、機動的な金融・財政政策を採用できなかった(もしくはできない)点が指摘されているし、他にも、少子高齢化の問題にしても全ては、財政の問題に行き着く。そのような直接的な政治(=財政政策)の行き詰まりの問題に加え、私は、現在良く指摘される、産業構造の転換・高度化の問題にしても、その根本の要因の一つに、機能不全の政治の問題があると考える。簡単に言えば、一般会計分と地方分をあわせれば、日本の公共投資は、約50兆円と言われる。GDPの約1割を、公共投資の名のもとに、硬直的に古い産業に投資し続けているのが我が国の政治だ。そんなことを続ければ、古い産業がいつまでも保護され、本当に必要な新しい産業が育ちにくいのは自明の理だ。公共投資は、その過大な額から財政破綻の主要因になっている、という問題点に加え、日本の経済体質の新陳代謝を阻害しているという重要な問題点を抱えている。
そんな日本の公共投資の問題点は、大きく以下2点に集約できると考える。
まず、1点目は、その内容。OECD“Annual National Accounts”Vol2 1988-1998を出典とする、「社会資本の未来」(社会資本整備研究会編:日本経済新聞社)の資料によれば、日本及び欧州諸国の公共投資(一般政府)の事業別シェアを比較すると、我が国では、運輸、農林漁業、エネルギー関連といった経済サービスのウエイトが異常に高く、社会福祉、福祉、文化等のウェイトが異常に低いことがわかる。数値が出ていないグラフなので、ざっといた目分量で言えば、欧州各国の全公共投資にしめる経済サービスのシェアが約25%前後であるのに対し、日本のそれは、約60%を占める。よって、それ以外の、教育・文化レクリエーション・保健・社会福祉費のシェアが極めて低い。しかも、そのシェアの固定が常に問題とされながら、その構成は、70年代・80年代・90年代と過去30年間のグラフを並べてみてもさほど変化がないどころか、住宅・地域開発費が順調に拡大している中、教育費が確実に減少しているなど、悪化している気配さえある。政府が経済成長率やGDP(もしくはGNP)の数値に固執するあまり、経済波及効果の高いハード面に偏った政策を取っているのは明らかである。また、建設業者や農家を主な支持母体に抱える自民党の体質によることも明らかだ。
2点目は、その額の大きさである。公共投資の額の国際比較を行うと日本の特殊性が如実に明らかになる。この点は、「国内総生産」(GDP)に対する「一般政府固定資本形成」(おおざっぱに言えば、国と地方の公共投資を合計したもの)比率で見ることができる。下記◎参考1の通り、この比率は、日本が5~6%で推移しているのに対して、米国、英国、ドイツ等は、1~2%だ。日本の公共投資が如何に大きいかがわかる。
◎参考1 「一般政府総固定資本形成」の対「国民総生産」比
日本 5.6% (1999年) | 米国 1.9% (1997年) | 英国 1.8% (1994年) | ドイツ 2.0% (1997年) | フランス 2.8% (1997年) |
国民が安定した経済と生活水準の向上を享受するためには、国民によって生産された付加価値が適切に総投資と総消費(総消費は、国民の生活水準のバロメータとして位置付けられる。)に配分される必要がある。国民総支出のかなりの部分を政府支出が占め、その政府支出は、公共投資(ハード)と政府消費(ソフト)によって形成される。前出のOECDの資料によれば、政府支出における公共投資の比率を国際比較すると、おおよそ、欧州の国が、この約40年代の間、20%強から、10%弱へと減少、米国が10%前後で横ばいであるのに対し、日本は、30%強から40%強へと、世界の潮流に逆行しているのみならず、その絶対的な比率が圧倒的に高いことがわかる。また逆に、今度は、国内支出における総消費の比率を見ても、欧米各国が80%前後で推移しているのに対し、日本は70%前後で推移しており、我が国の公共投資の比率は欧米諸国と比べて極めて高く、国内総支出に占める総消費の割合は欧米に比べて極めて低い、ということがわかる。投資比率が高いことは、相対的に高い経済成長を供給面から可能にする。戦後我が国が高度経済成長を実現したのは、国民がその高い投資比率を容認したことにあると言われるが、現在に至っては、先に指摘したように、公共投資の配分が、極めて硬直的でオールドエコノミーの保護に集中し、産業の新陳代謝を阻害している上、80年代以降国内の需給ギャップの問題が顕在化し、円高から、安易に需給ギャップの問題を輸出で誤魔化す、という手段も行き詰まってきており、我が国の多額の公共投資が経済成長につながらなくなってきている。加えて、投資先行のため、消費が抑制され、国民生活の向上が進まず、ふんだりけったりの結果になっている。 何故、こんな国民にとって踏んだりけったりの事態になってしまったのか。原因は、やはり政治にある。既得権益層に支配された我が国の政治は、常に全ての国民の生活水準の向上より、既得権益層に利益を還流しやすいうわべの経済成長や公共事業という名の利益供与を優先してきた。
しかし、今回、選挙を経験してみて強く感じていることは、問題は、既得権益層による利益誘導政治にあるのではない。現状の利益誘導政治など、投票率が、わずか10%上がるだけで簡単に粉砕されてしまう。問題は、既得権益層による利益誘導政治を、棄権、もしくは政治的無関心、もしくは、政治的な無知・無思慮から是認している国民意識にあると思う。
いつまでも自民党を象徴とする日本の戦後体制の上での惰眠を志向する国民意識。戦後経済体制下作られた、高貯蓄・高投資の経済を、日本人の美徳・特質と履き違え、政府による投資の内容もチェックせず、ただただ政治的な無関心をきどる政治的無関心層。自分たちの足元である国民生活の向上を志向せず、生活の向上を求めるという当たり前の政治的視点を、「清貧の思想」的な、単なる政治的怠惰・思考停止から放棄してきた私達日本人の意識の問題にあるのではないか。GDPの2%にも及ぶ補正予算・景気対策を打って、経済成長率を2%向上させても、何の意味もないということすら、誰も指摘していない。
日本人は、搾取されている。しかし、日本人は、それで良いのだと政治的無関心を決め込んでいる。当たり前かもしれないが、日本の政治が変わるためには、国民一人一人が、自立的に、自分達の生活の向上を政治に求める、という当たり前の視点が必要なのではないか。
(出所)「平成13年度 財政関係資料集」
Thesis
Retsu Suzuki
第20期
すずき・れつ
東京都議(立川市)/立憲民主党