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2022年6月

塾生レポート

これからの教育を考える 〜友愛民育成のための二つの教育〜
水上裕貴/松下政経塾第42期生

 

 本稿では、教育基本法から我が国が考える教育の目的を抽出し、そこには国民教育と市民教育という二つの教育方針があることをみる。ただし、その目的の中にはこの二つの教育だけでは捉えきれない要素がある。ゆえに国はその捉えきれない要素としての第三の教育を企図していると考えられる。そしてこれこそが「友愛民教育」としてこれからの教育を考える上で非常に重要となってくるということを主張したい。さらにその教育方法としては、自然的な「SNSにおけるインフルエンサーの発信の受容としての受動的教育」、人工的な「哲学カフェにおける対話の場への参加としての能動的教育」の二つの方向性が考えられることを示そうと思う。
 これらの詳述に入る前に言葉の意味を確認しておくこととする。まず最初に第一の国民教育について。国民教育とは、貧富の差をなくし平等な世の中を実現させるための画一的で全体主義的な教育を指す。産業革命によって子供が親の所有物ではなく社会資本として考えられるようになり、人間が取り替え可能な人材として扱われるようになる。
 そのために教育の必要性が表れてきた。それがこの国民教育である。ここから教育を捉えるならば、教育とは、鋳型にはめ、角を取り、社会の都合の良いように作りあげることである。これが本来的な教育の意味であるといえよう。そこから次第に自由と競争の概念が重視されて、個が尊重されるようになってきた。第二の市民教育の登場である。市民教育とは、それぞれの個性を伸ばしそれをもって競い合いを促す教育である。このような教育の役割についての二つの分類は一般的である。ただしこの教育も近年の社会情勢的に立ち行かなくなってきた。第三の教育が必要な時である。私はこの教育を「友愛民教育」と名づけようと思う。その理由や内実については後述することとする。
 ではここで、日本における教育方針について考えていくために教育基本法を参照しよう。第1条(教育の目的)では教育はこのように定義されている。

 「教育は、人格の完成をめざし、平和的な国家及び社会の形成者として、真理と正義を愛し、個人の価値をたつとび、勤労と責任を重んじ、自主的精神に充ちた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。」

 この文章で言わんとする教育の目的は二点。「人格の完成」と「国民の育成」である。一つずつ見ていこう。
 まずは前者の「人格の完成」について。昭和22年文部省訓令「教育基本法制定の要旨」によると人格の完成とは、「個人の価値と尊厳との認識に基づき、人間の具えるあらゆる能力を、できる限り、しかも調和的に発展せしめること」とされる。すなわちここで言われる教育とは、個人に重きを置いているという点で「市民教育」だと言える。
 次に後者の「国民の育成」について。先に引用した文章によると国が考える理想的国民とは以下の四つの徳目を有する人物だと言えよう。

 1. 真理と正義を愛する
 2. 個人の価値をたつとぶ
 3. 勤労と責任を重んじる
 4. 自主的精神に充ちる

 これらを教育方針として分類するならば、2と4は市民教育として括れるであろう。なぜなら個人の価値ないしは自主的精神とは個性を伸ばすことと同義であるからである。また、3は国民教育としての要素を持つと言えよう。なぜなら勤労は日本国憲法第27条1項にて「すべて国民は、勤労の権利を有し、義務を負う」と義務の規定がなされている通り、国のために行わねばならない行為だとされ、その行為を促す教育だからである。
 では、1は何か。これこそが国民教育でも市民教育でもない、次世代型の第三の教育を促すものであると私は考える。それが言うなれば「友愛民教育」である。友愛(フィリア)とは古代ギリシャの哲学者アリストテレスの『ニコマコス倫理学』における概念であり、互いに相手がより善くなること、幸福になることを願う愛のことである。
 いま、この「友愛」が非常に重要な概念となりつつあるように思われる。社会情勢を見てみると、競争や所有、独占から、共生や分配、持続といった価値転換が起きている。これは、石油や天然ガス等の資源の枯渇、または経済の停滞からきているものだと考えられる。あるいは脱恋愛や脱家族、脱組織といった若者の価値観の変化が起きていることによる。一人を独占したり、一つの場を占拠することよりも、緩く多く広い関係性を維持することを重要視する。これはすなわち友愛の精神に他ならない。
 したがって、今後の教育としてはこのような社会情勢を鑑み、共存として互いの幸せを考慮する「友愛民教育」こそが必要ではなかろうか。
 だがしかし、ここで一つ注意が必要である。それは、この「友愛民教育」を含めこれからの教育を形作ってゆくのは政治だけではないという点である。国民教育は、国が先導して制度を作り学校教育として民はその通りに成ってゆくといった構造のため、政治家が形成者であった。市民教育も大方は国の制度の元、民は作られていく。
 ただし、それだけでは不完全である。学校という狭く同質的なコミュニティ内において個性を伸ばすのには限界がある。したがって、芸能人やプロスポーツ選手等の有名人が時代のアイコンとしてその存在自体が教育的役割を果たしていたと言える。そしてその媒体としてのマスコミがその役割を担っていたのである。すなわち、教育の形成者は、政治家のみならず、有名人とマスコミであるともいえる。
 では、友愛民教育はどうであろうか。既存の学校制度における教育的役割はこれまで以上に希薄となり、その役割は今までとは全く異なったものとなっていくことだろう。
 ひとつは、インフルエンサーと呼ばれる個人での情報発信力をもった存在。これは市民教育における有名人とマスコミの役割の延長線上にある存在だと考えられる。今の子供たちがYouTubeやInstagram等のSNSから大半の情報を得て、影響を受け、生活している現状を鑑みるところの発信者であるインフルエンサーが教育的役割を果たしており、今後さらにこの力は大きくなっていくことであろう。
 これが自然的な教育的役割の移行である。この教育の特徴は、基本的は動画を視聴したり投稿を確認するといったものなので受動的にならざるを得ないということである。
 これに加え、もう一つ重要になってくる新しい教育の姿がある。それが哲学カフェ等の地域コミュニティにおける対話の場への参加である。哲学カフェとは、既存のカフェや飲食店、会議室などを場として哲学的な対話を行う草の根の公開討論会ことであるが、このような営みが教育的観点からしてもとても重要になってくると思われる。
 なぜなら、友愛民を形成するのには、年齢も背景も性格も価値観も、可能であれば人種も全く異なった者同士が対話を通し、互いを理解していく経験が必要だからである。したがって、同質的な場となってしまっている既存の学校教育よりも、地域コミュニティとしての哲学カフェでの対話の場参加がもたらす教育的効果の方が圧倒的に大きいものになると考えられる。
 ではなぜ哲学なのか。それは、哲学的テーマには他のテーマにはない特別な性質があるからです。その性質とは、答えが一様に定まらないため自由度が非常に高いことです。例えば科学的テーマでは答えが明確に決まってしまうため対話の自由度が低くなってしまいます。したがって必然的に知識が多い人が発言権が強くなってしまいます。
 一方で哲学的テーマであれば、見方が変わると答えも変わるということが多いため自由度が高く対話を展開していくことができます。したがって難しい知識も特別な技術もいらない。ゆえに立場上下がなく窓口広く様々な背景を持つ人たちが参加できます。そしてそこから公共性が成立し、友愛を学んでいくこととなるのです。
 ただし、この哲学カフェとしての教育は、上記のインフルエンサーのように自然的に移行していくものではない。現状、知名度は低く、実際に行われている現場も非常に少ないからである。したがって、この哲学カフェにおける対話の場の確保としての教育は、今後切り拓いていかなければいけない人工的な教育的役割の移行であるといえる。この教育の特徴は、自身で場に参加し、対話に入っていくというものなので能動的な営みとなるということである。
 このように、これからの教育で最も重要なのは、「友愛民教育」であると私は考えている。そしてその方法としては、受動的な、「インフルエンサーの発信の受容」と、能動的な、「哲学カフェでの対話の場参加」の二つが考えられるが、これから求められる能力としては後者が重要であろう。この教育によって現在の教育現場におけるテーマである「主体的で対話的で深い学び」が実現されていくことを期待したい。

2022年6月 執筆
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