論考

Thesis

ただ生きるのではなく、善く生きる。そして佳く生きる。 ―「哲学すること」による理想社会の実現―

目次

序章
第一章 「哲学すること」による効用と「価値」の六類型
第二章 社会課題と四つの悪しき主義を持つという現代病
第三章 理想社会へ至るための三つの方略
第四章 「ただ生きるではなく善く生きる。そして佳く生きる。」社会の実現
終章
参考文献

序章

 11年前の夏、突如母が倒れた。それまで元気だった母が意識不明の重体で病院に運ばれた。見舞いに行き、声をかける。ベッドに横たわっている母は時折反応を見せる。言葉ともならないうめき声のような音をあげる。しかし意識はない。そんな母の姿を見るのがとてつもなく辛かった。当時、高校三年生だった私はその現実を受け止めることができなかった。
 その半年後、母は奇跡的に意識を取り戻した。私は、元気でいつも通りの母が帰ってくると思っていた。しかし、脳に障害が残ってしまった母は、まるで別人のようであった。私が昔から知っていた母はそこにはいなかった。続く介護の日々のなか、「いっその事、母の命がそこで尽きてしまっていた方が、楽だったかもしれない……」とさえ考えてしまった。そればかりでなく、「こんな罰を下されるようなことを母は、そして私はしただろうか。いったい、我々家族はどんな悪いことをしたのか。あまりにも理不尽で残酷ではないか。神などいたらどれほど悪い奴だろうか――」次々と、そのような想いが去来した。高校生の私にとって、そうした想いを言葉にすること自体があまりにも苦しいため、言語化して考えることさえできないまま、鉛を呑んだような心を引きずり、どんよりとした日々を過ごしていた。
 そこから母は少しずつ回復した。現在でも母は元気に暮らしている。
しかし、周りから見ると行動が特異に思われる程度には障害が残っているし、かつての母と同じ程度に回復したとは、とてもではないが言えない。母が倒れてから10年もの歳月が経ち、私は28歳となった。時折、昔の母と今の母との間の隔たりを感じてしまう時があり、いまだに心に折り合いをつけることはできていない。
 振り返ってみるならば、10代の私は今で言う「ヤングケアラー」であったのだと思う。「ヤングケアラー」とは、「本来大人が担うと想定されている家事や家族の世話などを日常的におこなっているこどものこと[1]」であり、当時の私はまさしくその当事者であった。放課後、すぐに見舞いに行く必要があったことから部活動をしばらく休むことになり、孤独さを感じるようになってしまったことや、教師にも友人にも相談することができず一人で抱え込んでしまっていたことなど、多くの体験は、まさに「ヤングケアラー」の特徴に該当する。
 先にも書いたように、私はいまだに心に折り合いをつけることはできていない。しかし当時に比べ、現在では、その事実を正面から受けとめ、納得して生きることができている。そうなることができたのは、単なる時間の経過によるものだけではなく、三つの要因が大きかったと私は考えている。
一つ目の要因は、経済的困窮による、就学機会の制限がなかったことである。私の場合は、恵まれたことに高校時代に労働をする必要がなかったため、勉強時間を確保することができ、自身の志望する大学へ進学することができた。進路面で負担を感じることがなかったことは大きい要因であったと考えられる。
二つ目は、父や祖父母、伯叔従父母が介護を一手に引き受けてくれ、また私を精神的に助けてくれたことである。私が通常の高校生活を送ることができるように、介護の負担をなるべく減らそうと手分けして母の介護を肩代わりしてくれたり、私を気遣って温かい声をかけ続けてくれたりした。それらが私のメンタルヘルスケアの役割を果たしてくれていたのだと思われる。
そして三つ目は、「哲学すること」と出会ったことである。私は、大学一年生の時に「哲学」という科目を知り、そこから哲学書を読み、多くの哲学者の思想を学んだり、講義や読書会に参加し、哲学的問いについて熟慮したりするようになった。思えば、「哲学」を学ぶことによって、直接的に母の件を乗り越える方法を得たわけでもなければ、明確に何かが分かったということでもない。しかし、「哲学」からの学びを通じて得た「何も分からないこともあるということが分かった」という帰結は私の苦しみを大いに和らげた。さらに、多数の視点や価値観を知ることができ、世界が広がったことによって、病気後の母を受け入れることができるようにもなった。そのように「哲学すること」によって、私は救われたのである。
 今日の日本社会では、「ヤングケアラー」の増加が社会問題となっている。それゆえに、実態調査や問題解決に向けた研究も進んでいる。そこでは、私が先に述べた要因である経済面やメンタルヘルスケアに関してはよく言及されている。しかし、「哲学すること」に焦点を当てた研究は見たことがない。また、私は「哲学すること」は、「ヤングケアラー」だけに限らず、もっと広い範囲の精神的困窮者及びその予備軍を救う手立てとなる大きな力があるのではないかと考えている。したがって本稿では、この「哲学すること」をテーマに、「哲学すること」がもつ、今日の日本社会が抱える諸問題に対しての意義とこれらからの日本のビジョンについて、私なりの考えを提示することとする。

第一章 「哲学すること」による効用と「価値」の六類型

序章でも書いた通り、私は「哲学すること」によって救われた。哲学という言葉は多くの意味を持つので一様に定義することは困難であるが、ここでは、「価値を問い直すこと」という意味合いで用いることとする。その意味での「哲学すること」によって、大学生時代の私は、「何も分からないこともあるということが分かった」という帰結を得た。これは換言すると、「人間が扱える事象とはごくごく僅かであり、人生の中で、誰にでも自身ではどうすることもできないような困難がいきなり訪れるものである。」ということが分かったのである。これは20世紀の哲学者であるカール・ヤスパースの「限界状況(Grenzsituation)[2]」とも近い考え方であり、この考え方を得たことにより、私は、「困難が起こるということは特異なことではなく、我々が日常だと思っている事象も簡単に崩壊し得るのだ」と思考するようになった。この思考を得たおかげで、母の件に対する苦しみが少しだけ和らいだのである。
それと同時に、「哲学すること」は私の中での価値の転換をも起こしてくれた。それまで私は、経済的・社会的地位が高いこと、社会的生産性が高いことが人間としての価値であると考えていた。さらには、論理的・合理的なことが何よりも重要で価値あるものだと思い込んでいた。しかし、こうした考えのもとで、脳に障害を抱えてしまった。母は、社会的立場が低くなってしまったと無意識のうちに判断してしまっていたのだ。当時は自分では気付かなかったが、こうした無意識の考えが私の苦しみの大きな原因であったと思う。しかし私は、「哲学すること」によって、人間が持つ価値は一様ではなく、実は自身が感じる価値はもっと広範にわたるということが分かったのである。社会的地位や生産性とは全く異なることにも価値はあるのだと考えるようになった。そう考えることによって母をあるがままに受けとめることができるようになったのである。すなわち「全ての存在は中立であり、そして世界は解釈である。」と理解するようになったのだ。
このように、「哲学すること」の意義とは、一つには、価値の相対化による精神的救済と言えるのではないかと私は考える。
ところで、「価値」とは、個人が何を望み、重要だと思うかという判断を下す際の基準である。その価値について、ドイツの心理学者であり、哲学者でもあるエドゥアルト・シュプランガーは、著書『生の諸形式(Lebensformen)』にて、文化に対する人間の関わり方を考察した上で、人間が文化的価値を置く領域を六つに分類した。それが「理論(The Theoretical)」「経済(The Economic)」「審美(The Aesthetic)」「宗教(The Religious)」「社会(The Social)」「権力(The Political)」である。シュプランガーによれば、「理論」は論理的な理解から追求される真理に、「経済」は経済的な損得や財力の高さに、「審美」は感情を通じた美的な型や調和に、「宗教」は信仰からなる道徳性や神秘性に、「社会」は奉仕活用や福祉等の他者に役立つ行為や協調性に、「権力」は競争を重んじ、権力を掌握することによる社会的地位に価値を持つとされる。
そしてこの六分類に沿って、現代の日本社会に対する私の考察を述べておきたい。現在の日本では「理論」「経済」「権力」への志向が強くなっており、「審美」「宗教」「社会」の価値が低く評価されてしまっているのではないか。そしてそのために、次章で述べる社会課題が引き起こされているのではないだろうか。

第二章 社会課題と四つの悪しき主義を持つという現代病

 今日、日本社会が抱える大きな社会課題の一つは、精神疾患を有する患者数の増加あるいは無自覚な精神的困窮者の存在である。
精神疾患を有する患者数については、厚生労働省が示す資料[3]によれば、外来患者数が平成14年の223.9万人から平成29年には389.1万人へ、165.2万人が増加している。その中でも最も割合の高い疾病は「躁鬱を含む気分(感情)障害」である。平成14年は68.5万人であるのに対し、平成29年には124.6万人と、約1.8倍もの増加が見られる。
 無自覚な精神的困窮者としては、例えば、私が経験した「ヤングケアラー」もその多くが何らかの精神的困窮を抱えていると言われている。令和二年に実施された株式会社日本総合研究所の調査研究、及び令和三年に実施された三菱UFJリサーチ・コンサルティングの調査研究では、小学六年生6.5%、中学二年生5.7%、全日制高校二年生4.1%が、世話をしている家族が「いる」と回答している。その中で、小学六年生の事例を取り上げると、父母の世話をしながらも父母が世話を必要とする理由について「わからない」との回答が3割程度であったこと、平日1日あたり7時間以上世話を行っていても、その3割超が「特に大変さは感じていない」と回答していること等から、家族の置かれた状況を十分に理解できていなかったり、家族の世話をすることが当たり前になり、その大変さを十分に自覚できていなかったりする可能性があるとのことであった。また、中高生の事例においても、「子ども自体がヤングケアラーだと気づいていない場合も多くある」と考察されており、ケア自体が生活の中に溶け込み、精神的困窮が無自覚のうちに進んでいるということもある。
 その他にも、精神的困窮からくる大きな問題としては、自殺率が高いこと[4]、若者の自己肯定感が低いこと[5]、他者への寛容さが低いこと[6]、他者への関心が低いこと[7]、インターネット上での誹謗中傷の書き込み数が増大していること[8]などが挙げられる。
これらの精神的困窮の原因は何か。それは、モノやカネをより多く所有して便利で快適な生活を営む物質的生のみを追求し、「本当によい生き方は何か」といった、より豊かで多様な生のあり方の価値や意義の追求を怠ったためではなかろうか。そして、日本社会は、資本第一、物質中心、効率優先、競争重視などにとらわれてしまったのではないかと考察する。すなわち、先ほどのシュプランガーの価値分類における「理論」「経済」「権力」のみが社会的に重視されてきた結果ではなかろうか。私見によれば、その結果、今日の日本社会では、悪しき「リアリズム」「エゴイズム」「ニヒリズム」「ペシミズム」という四つの現代病が蔓延ってしまっている。
悪しき「リアリズム」とは、現実追従主義のことである。ただ、あり得そうなこと、現実に即したことのみを最重要視し、理想的な考え方を排斥する立場である。悪しき「リアリズム」のもとでは、徹底的に無駄を排除し、役に立つ技術や方法しか評価されないとされる。また、この考えのもとでは、全てを道具として扱い、目的遂行のために手段を問わない結果重視の態度が重視され。そのため、失敗が許されない土壌ができてしまった。
 悪しき「エゴイズム」とは、利己主義のことである。言い換えれば、自己の利益のみを重視し、他者の不利益や損害を全く考慮しない立場であり、この考えのもと。自分の思いのままに、自分勝手に生きるのが良いと考えるという風潮が蔓延ってしまった。
 悪しき「ニヒリズム」とは、虚無主義のことである。これは、全ての事象の根底に虚無を見出し、なにものも真には存在することはなく、また認識もできないとする立場を意味する。この結果、現代人の気分の根底には、人生に意味はなく、信じられるものも価値のあるものも何もないという考えが蔓延ってしまった。
 悪しき「ペシミズム」とは、厭世主義のことである。これは、この世は悪と悲惨に満ちており、生きている限り人はこれを根絶することはできないとする立場である。悪しき「ペシミズム」により、現代人の多くは、人生は失うものばかりで苦しいことしかないため、生きるに値しないと考えるに至ってしまった。
 これらが、私が問題視している現代病である。これを解決するためには、「社会」「審美」「宗教」を尊重する風土の醸成が必要であると考える。

第三章 理想社会へ至るための三つの方略

前章における課題解決のために、私が有効であると考えられる方略は三つある。それは、「友愛民教育の促進」「贈与世界の実践」「価値観対話の浸透」である。一つずつ見ていくこととする。
一つ目は「友愛民教育の促進」である。「友愛(philia)」とは古代ギリシャの哲学者、アリストテレスの『ニコマコス倫理学(Ēthika Nikomacheia)』における概念であり、互いに相手がより善くなること、幸福になることを願う愛のことである。昨今、この「友愛」が非常に重要な概念となりつつあるように思われる。社会情勢を見てみると、競争や所有、独占から、共生や分配、持続といった価値転換が起きている。これは、石油や天然ガス等の資源の枯渇、または経済の停滞からきているものだと考えられる。あるいは脱恋愛や脱家族、脱組織といった若者の価値観の変化が起きていることも、そうした価値転換の事例の一つであると思われる。こうした価値転換に共通しているのは、一人で物を独占したり、場を占拠したりすることよりも、緩く多く広い関係性を維持することを重要視する態度であり、これはすなわち「友愛」の精神に他ならない。したがって、今後の教育としてはこのような社会情勢を鑑み、共存として互いの幸せを考慮する「友愛民教育」こそが必要であると私は考える[9]。というのも、この教育が「社会」の価値を高めてくれると考えられるからである。
 二つ目は「贈与世界の実践」である。贈与世界とは、一つ目でみた「友愛」が促進された世界と近いものであるが、これはgive & takeではなく、giveのみの世界のことである[10]。行動経済学でいうところの、市場規範ではなく社会規範に沿って生きる世界とも言えよう。贈与が中心的役割を果たすこの世界では、見返りを求めることをしない。そのため、現在の資本主義競争社会における価値[11]が価値として機能しなくなる。その代わりとして、人や物をどれだけ手段ではなく目的として扱っているか、どれだけ相手の幸福に寄り添えているかに価値の重点が置かれる。したがって、この実践が「友愛民教育」同様、「社会」の価値を高めてくれると考えられる。
三つ目は「価値観対話の浸透」である。価値観対話とは、多様な人々との主観的な対話を通し価値観を共有することで、自身の持つ価値を見つめ直すことである。その方法として私が提示したいものが二つある。
一つは「哲学カフェ文化(Café philosophique)」だ。哲学カフェとは、既存のカフェや会議室などにて飲み物片手に気楽に哲学的な対話を行う文化である。フランスの哲学者マルク・ソーテが1992年にパリのバスティーユ広場にある「カフェ・デ・ファール(Café des Phares)」というカフェにて行ったのがその発祥だと言われる。哲学カフェでの対話には、通常の対話にはない特徴がいくつかある。大きな特徴は以下の三つであろう。一つ目は、緩やかなルールが存在すること。それぞれの哲学カフェにてルールの数や内容は異なるが、経験に基づいた自分の言葉で話すこと、発言者の話を最後まで聞くこと、対等な立場で参加すること、発言内容を否定しないことなどは大方どの哲学カフェにおいても定められている。二つ目は、前提条件がないこと。基本的な哲学カフェにおいては、年齢制限もなければ、性別の差異も社会的立場も関係ない。哲学者等の言葉の引用が極力禁止され、自身の経験によって語ることのみが求められるため、専門的な知識が必要ない。話す内容のみが重要であるため、対話のスキルも語彙力の高さもさほどいらない。三つ目は、プロセスを重視すること。哲学カフェでは必ずしも結論を出す必要はない。参加者による合意形成の必要もない。自身がそこから何を得て何を考えるかはその人それぞれに委ねられている。このような性質を持つ哲学カフェの文化が社会に浸透して行けば、対話を通して思考が整理され、自身の持つ価値を見つめ直すことができると考えられる。ゆえにテーマ選定によって「審美」及び「宗教」の価値について考え、その価値を高めることもできるというわけである。
もう一つは「対話型アート鑑賞(Dialogical Appreciation)」だ。対話型アート鑑賞[12]とは、その名の通り「対話」を重視した新しいアートの鑑賞方法である。それは自身がアートの鑑賞を通し感じたことを発信し、その共有を行うことを指す。自分はどうしてあの作品を観て良いと思ったのか。この作品にはどうして興味を持てなかったのか。他人はどのようにして作品を観ているのか。など、対話を通して、自身の趣味嗜好や快不快、こだわりなどの自身の主観的側面を理解することができる。そうすることでそれまで自分が気付かなかった価値や発想、視点に気付き、世界が広がることとなる。作品を観て自由に語り合うことで、自身の価値を相対化することができるというわけである。美を追求するというアートの性質上、「審美」の価値の涵養にも繋がると考えられる。あるいは、宗教画等を用いて「宗教」価値の知るきっかけになるとも考えられる。

第四章 「ただ生きるではなく善く生きる。そして佳く生きる。」社会の実現

 これまで検討してきた課題が解決された理想社会、私が目指す社会とは何か。幾許か抽象的なものではあるが本章にて提示することとする。私の掲げる国家のビジョンは以下の通りである。

「ただ生きるではなく善く生きる[13]。そして佳く生きる。」社会の実現

 この言葉には二つの意味がある。一つはただ生きる生ではいけない、人間の生には当為がある、という意味。もう一つは当為としての生とは、善く生きることと佳く生きることの二つある、前者は類としての人間として、後者は個としての人間として、そしてこの当為の生を生きることが幸福に繋がる、という意味である。それぞれの生についてひとつずつ見ていこう。
 「ただ生きる」とは、常識や文化、偏見にしたがって盲目的に生きること。哲学することもなく、何の疑問も持たずに思考停止状態で生きること。すなわち社会の価値観で生きることである。この生のまま立ち止まってしまってはいけないと私は考える。
 ただ生きる生の代わりとなる、目指すべき生は二つある。ひとつが、「善く生きる」生。善く生きるとは、文字通り善にしたがって生きること。すなわち道徳的価値観で生きることである。そしてこの生は、類としての人間の理想的生き方である。したがって時代や国籍、年齢を問わない普遍的なものである。
もうひとつが、「佳く生きる」生である。「佳」という字の語源は「人」の象形に由来する人偏と、四本の横線を並行かつ均等に並べた象形文字である「圭」を合わせた会意文字である。意味は、美しいこと、すぐれていること、良いこととなる。したがって、佳く生きるとは、自分の本質に基づいて美しく、優れて、良く生きること。自身の価値観に基づいて生きることである。この生は、善く生きるとは反対に、個としての人間の理想的生き方である。
哲学することを通じて、善く生きるように、すなわち社会的価値を獲得し、自己を開いて公共性を高めてゆくこと。それと同時に、佳く生きるように、すなわち個人的価値を獲得し、自己を閉じてアイデンティティを確立してゆくこと。これら二つの生が促進されてゆく社会が私の考えるビジョンであり、社会課題の解決に向かってくれると確信している。そして、この生を体現する国民が一人でも増えることが、真の意味で豊かで強靭な日本を作ることとなるだろう。

終章

「我が日本、古より今に至るまで哲学なし。」

中江兆民の、著作『一年有半』における言葉である。この言葉が世に出たのは1901年。それから120年経った現在、果たして我が国に哲学はあると言えるだろうか。
 この問いには如何様の答え方も可能であろう。「哲学」という言葉をどう捉えるかで解は百八十度変わり得る。私はどう考えるか。哲学ありとは、文化として哲学が世間一般に根付いた状態を指すのではなかろうか。しかし、日本においては、哲学という言葉を耳にするとそれだけで難しそうだと身構えてしまう人が多い。哲学が日常と乖離している。そういうわけで、日本は未だ哲学なしである。しかしこれではいけない。哲学は何にも増して大切である。「哲学する」ことによって価値の問い直しを行う。そうすることで「ただ生きるではなく善く生きる。そして佳く生きる。」社会を実現する。これが我々の使命であると確信している。そうすることで兆民の言葉は以下のように紡がれるであろう。

 「されど自今哲学身近となり我が日本、哲学あり。」

参考文献

Aristoteles『ニコマコス倫理学』加藤信朗訳, 岩波書店, 1973年。

Kant, Immanuel『論理学・教育学』湯浅正彦・井上義彦・加藤泰史訳, 岩波書店, 2001年
―『人間学・教育学』三井善止訳, 玉川大学出版部, 1986年。

Platon『ソクラテスの弁明・クリトン』久保勉訳, 岩波書店, 1927年。

Spranger, Eduard『文化と性格の諸類型』伊勢田耀子訳, 明治図書出版, 1961年。

朝倉哲夫「「善く生きる力」の育成ということ:根本悪としての<ニヒリズム>と<エゴイズム>の生き方の克服のために」『横浜商大論集』31巻, 1998年, 1-30頁。

近内悠太『世界は贈与でできている』newspicksパブリッシング, 2020年。

中沢哲「カントにおける道徳教育方法論の思考法」『教育哲学研究』83号, 2001年,60-75頁。

廣松渉・子安宣邦・三島憲一・宮本久雄・佐々木力・野家啓一・末木文美士

『岩波哲学・思想事典』岩波書店, 1998年。

藤田正勝『日本哲学史』昭和堂, 2018年。

山口意友「『教育学講義』における「人間性」と「人格性」について」
『玉川大学教育学部紀要』第17号, 2017年, 81-99頁。

李艶「価値観の構成要素についての研究」『聖泉論叢』16号, 2008年, 31-39頁。

株式会社日本総合研究所. “ヤングケアラーの実態に関する調査研究”.
文部科学省. 2023-01-08.
https://www.jri.co.jp/page.jsp?Id=102439

共生社会の形成に向けたインクルーシブ教育システム構築のための特別支援教育の推進
(報告)概要
文部科学省. 2023-02-14.
https://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo3/044/attach/1321668.htm

タダの箱庭プロジェクト
HAKONIWA. 2023-2-13.
http://haconiwa.world

三菱UFJリサーチ&コンサルティング. “ヤングケアラーの実態に関する調査研究”.
文部科学省. 2023-01-08.
https://www.murc.jp/wp-content/uploads/2021/04/koukai_210412_7.pdf


[1] 厚生労働省ホームページ「ヤングケアラーについて」より抜粋

[2] ヤスパースのいう限界状況とは、現存在としての人間が、科学力などいかなる力を持ってしても逃れることのできない状況、すなわち人間を限界づける普遍的な状況を指す。我々の日常的現実を粉砕してしまうような状況、例えば死、苦、争、責、由来、偶然などがそれに当たる。

[3] 令和4年6月9日に行われた「第13回地域で安心して暮らせる精神保健医療福祉体制の実現に向けた検討会参考資料1」を参照。

[4] OECD43か国中7位、G7中1位(世界保険帰還資料2021年)より

[5] 「自分自身に満足している」アメリカ86.0%、イギリス83.1%、韓国71.5%、日本45.8%、「自分には長所がある」アメリカ93.1%、イギリス89.6%、韓国75.0%、日本68.9%(内閣府意識調査資料2013年)

[6] 世界幸福度ランキング156か国中148位(World Happiness Report 2022)

[7] 世界人助け指数114か国中114位(World Giving index 2021)

[8] 2010年から2019年で4倍(違法・有害情報相談センター)

[9] 同様の文脈にて私は「シティズンシップ教育」及び「インクルーシブ教育」の二つも重要な教育であると考えている。前者は、個人が社会の中で自立し、社会を支える一人であるという自覚を持つために、後者は、障がい者や様々なマイノリティの人と共に学ぶために必要であると考えられる。

[10] 贈与世界の実践例としては、For Goodアワード2022大賞を受賞した「タダの箱庭プロジェクト」が挙げられる。

[11] ここでいう価値とは、会社の時価総額や個人の年収など経済合理性に基づく利益の多寡のこと指す。この価値基準の下では、損得勘定による利益(≒資本)の最大化が目指される。そうなると数値としての序列が生じてしまうため、必然的に比較・競争の性質を帯びることとなり、人や物は利益を上げるという目的に対する手段として扱われてしまう。手段として扱われてしまうと、同等かもしくはそれ以上に利益を生み出せる他のものに代替可能となってしまい、存在理由が揺らぐ。そして何よりも周囲を信頼することができなくなってしまう。

[12] この鑑賞方法は、世界で最も有名な美術館の一つであるニューヨーク近代美術館(MoMA)が開発したものである。アートといえば、作者が誰で、どのような意図を持って描かれて、といったその作品の背景知識が最も重要視されてしまう。しかしアートの価値はそれだけではない。むしろ知識ではなく、それ以上のものを得ることができるのがアートの本質であるとの思いからこの対話型アート鑑賞は生まれた。

[13] プラトン『ソクラテスの弁明(Apologia Socratis)』においてソクラテスが説いた言葉。魂(Psyche)に知恵、勇気、節制、正義などの優れた性質、すなわち徳が備わるように心がけ、人として優れた魂を持って生きることが善く生きるという意味である。

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水上裕貴の論考

Thesis

Yuki Mizukami

水上裕貴

第42期生

水上 裕貴

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