論考

Thesis

時は満ち、神の国は近づいた
−哲学的な何か、あと科学万能教とか、観想とか−

目次

序章
第一章 生きづらや、あぁ生きづらや、生きづらや
第二章 「哲学」から哲学を解放する
第三章 詩と旅から捉える「観想」
第四章 「観想」「寛容」「感動」社会の実現
終章
参考文献

序章

 
 哲学が「万学の女王」の玉座を降り[1]、フリードリヒ・ニーチェが「神の死」を宣告し[2]、ルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタインが「語り得ぬものへの沈黙」を明示してから[3]というもの、その空位には頑として科学が居座り続けている。そして現在、「哲学の終焉」が各所で囁かれ、哲学の輪郭は、サルバドール・ダリの名作《記憶の固執》の掛け時計の如く、ドロドロと溶解してしまっている。
 理由は単純明快、「科学万能教」の台頭である。ここでいう科学とは、単純系の科学、すなわち要素還元主義的科学のことを指すわけであるが、その特徴は、観測可能性や再現可能性のみに目を向け、合理性や効率性、有用性を崇拝し、論理的整合性のあるもののみを是とする実学的発想を抱えるところにある。
 この宗教の台頭により、かの有名な格言、「哲学は神学の婢[4]」は、「哲学は科学の婢」と言い換えねばならない状況となっている。否、科学は最早哲学からの奉仕を必要とはしていない。哲学の方が一方的に科学へ縋りつかねば生きていけない状況と見るならば婢以下、「哲学は科学の奴隷」と綴った方が適切だろうか。科学によって、合理性という名の正義の元、哲学は迫害され、アンネ・フランクの如く迫害の手から逃れるために身を隠し、何とか生きながらえているのである。その結果、哲学は「分析哲学」「社会学」「心理学」などと姓を変え、ディアスポラの状態となってしまっている。
 あるいは、哲学との言葉が一般社会から乖離してしまっていることにも私は警鐘を鳴らしたい。「哲学」との言葉を耳にすると、ある者は難解なものであると身構え、ある者は高尚なものであると崇め奉る。またある人は無用の長物であると鼻で笑うかもしれない。いずれにしても、距離の遠い概念であるのが実状であろう。
 果たして、これらは正当な立場だろうか。答えは否である。哲学の価値とは、科学とは異なる側面にこそあると主張したい。そして、この齟齬と、哲学への軽視こそが、昨今の社会問題の一端を担っている気がしてならない。
 本稿では、この「哲学」を主軸に、現代社会の諸問題の考察と、その解決策並びに解決後の理想社会のあり方、さらには人間としての生き方との壮大な哲学的問いそのものに向き合うこととする。

第一章 生きづらや、あぁ生きづらや、生きづらや

 現代社会は生きやすいだろうか。精神疾患を有する患者数は増加の一途を辿り[5]、不登校・引きこもりの児童生徒の数も年々増え続けている[6]。さらに、自殺率が高いこと[7]、若者の自己肯定感が低いこと[8]、他者への寛容さが低いこと[9]、者への関心が低いこと[10]、インターネット上での誹謗中傷の書き込み数が増大していること[11]など、精神的困窮が進んでいる事例は枚挙に遑がない。このような実状を前にし、自他の双方を顧慮した上で、それでも尚、生きやすいと断言できる人は一体どれほど存在するだろうか。ほとんどいないのではないだろうか。
 では、一体何が原因で、かの状況に陥ってしまったのか。私は、序章に見た「科学万能教」崇拝こそが諸悪の根源であり、この崇拝による思考の変化が様々な弊害を生み出しているのではないかと睨んでいる。この崇拝による思考の変化としては以下のようにまとめられよう。
 第一に、観測不可能物及び再現不可能物への畏敬の念の喪失である。言語化能力や科学的合理性への過度な信頼により、目に見えないものや理解できないものを語ることへの侮蔑の風潮が生み出されている。その結果、文化や宗教等の居場所が急速に狭まっているように思われる。
 第二に、手段と目的との価値転倒及び価値一元化の潮流である。手段である筈の情報や金銭が、本来目的である筈の本質探究よりも重宝されるようになり、本質探究の場は殆ど無くなっている。また、最近、コスパ・タイパなる言葉をよく耳にするようになった。それぞれ「コストパフォーマンス」「タイムパフォーマンス」の略であるが、切り抜き動画や映画やドラマの倍速視聴、アニメの考察動画視聴のみでの理解、サビから始まる楽曲のヒット、書籍の要約サービス、などの流行がこれにあたる。これらはまさに、非有用的、非効率的なものの切り捨てによる価値一元化への風潮に他ならない。
 第三に、過度なホワイト化による余白及び美の射程の縮小である。ホワイト化とは、見える、聞こえる等の外面的な清潔さを是とする価値観への移行を指す。潔癖志向とも言えるが、例えば、外見が汚い飲食店が流行らなくなっていることに始まり、フォトジェニックな場所や食べ物が人気になっていること、脱毛する人が急増し男女問わず美容を気遣うようになっていること、芸能人の不祥事が異常に叩かれること、芸人が人をイジることができなくなっていること、などがこれにあたる。これにより、無駄なものや汚いものが排除され、余白がなくなってきているように思える。あるいは、単純化により、繋がりや関係性が、さらにはそれらに付随する価値が喪失してしまっているように思われる。
 加えて、キレイなもののみが美しいものと捉えられるとの、美の射程が狭まっているようにも考えられる。美とは、本来キレイなもの、心地よいもの、上手いもの以上の意味を包含する概念である。これらはあくまで、型にはまり、時代に合った、単なる表面的で無感動なものを指す。対して、美しいとは、字の如く大きな羊を捧げている様を表し、そこには、まだ熱がある死体生々しさや、儀式の壮大な雰囲気、食料への感謝や高揚感、生贄に捧げてしまう悔しさ、生と死の境目からくる恐怖や畏怖などの抽象的・精神的意味が含まれる。すなわち、キレイという姿や形などの「見えているもの」だけでなく、有様や意味などの「見えていないもの」への感動こそが、美の概念の本質というわけである。芸術家・岡本太郎も『自分の中に毒を持て』にて「「醜悪美」という言葉も立派に存在する。ところが、「醜いきれいさ」なんてものはない。」と、「きれい」と「美」の概念を明確に区別している。
 このような思考の変化こそが弊害を生み出している、すなわち現代の生きづらさ、もといココロのスキマの広がりに関係しているのではないか、というのが私の主張である。この主張に対し、非常に近い感覚を持ち、問題を提起した表現者を二人紹介したい。
 一人は、『北の国から』の脚本家でも知られる倉本聰。彼は、豊かさと幸せの量はどこかで反比例している気がしてならないとの感覚を持っていた。その末、急ぎ過ぎ、過去とはすっかり変わってしまった地元東京を離れ、人間としての生き方を探るため、北海道は富良野へ移住した。その上で彼は、「便利になると人間が本来持っているはずの身体の中にあるエネルギー消費を恐れることとなってしまい、快適な環境に身を置くことができることが豊かさであると錯覚してしまうことに繋がる。そうではなく、エネルギーの能力に応じて、急ぐことを避け、身の丈に合った生活を身分相応に成し遂げることが大切である」と考えるに至った。そうして、自然の一部として、損得を考えずに真っ直ぐ生きることこそが人間の生であると結論づけたのである。『北の国から』『風のガーデン』と並び、彼の「富良野三部作」の一つである『優しい時間』のドラマの舞台となった喫茶店「森の時計」の店内に飾ってある倉本氏直筆の額の言葉が彼の思想を端的に表している。その言葉とは、「森の時計はゆっくり時を刻む」というものである。
 もう一人は、先にも触れた岡本太郎。彼は、1970年に開催された万博のため、大阪府吹田市に「太陽の塔」なる巨大で奇妙な塔を建造した。万博とは科学技術と資本主義の祭典であり、「進歩と調和」がテーマだ。しかし、この塔は真逆の意味を持って建てられたという。それは、「科学技術と資本主義一辺倒で豊かさを追い求めて上手くいく時代は、早晩終わりを告げる。本当に人間が生き生きと輝くにはどうすればいいか、根本から見直さなくてはいけなくなる。」という警告である。そのために、「生命力のダイナミズム」や「縄文という原始社会の尊厳」などの対極のテーマを設定した。そして、「無条件で生きる、絶対感で生きる」ことの重要性を説いた。その真意とはまさに、自身の内から湧き上がる潜在的エネルギーなる生命力を発現させ、己を生きるという完全なる主観性の尊重ではなかろうか。
 二人とも、科学的合理的世界観に疑問を持ち、人間の本来的自然的なエネルギーやテンポに焦点を当てている。その上で、自己を超越する世界とその力を想定している点こそが鍵ではないかと私は考える。倉本聰であれば、創作活動の際の、神が下りてくる瞬間の価値を尊重し、作品からくる感動によって行われる心の浄化の使命を抱いていた。岡本太郎であれば、正反合の思考[12]に割り切れないものを感じ、正反を保持しつつ合には至らないものの可能性を見出そうとし、抽象芸術の道を歩んでいた。これはすなわち、形而上[13]的なものの存在可能性の肯定であると考えられる。この思想が根底に流れていることが、上記の科学的合理的世界観への疑問に繋がっているのではないだろうか。次章では、二人の視点を踏まえつつ、私なりの「哲学」解釈から、問題解決への道を提示したい。

第二章  「哲学」から哲学を解放する

前章では、現代の生きづらさを分析した上で、倉本聰と岡本太郎との二人の英傑を頼りにその解決の道を探った。その結果、人間の本来的自然的エネルギー及びテンポに焦点を当て、自己を超越する世界とその力を想定することが鍵となるのではないかとの帰結を得た。本章では、それを踏まえ、私なりの解答を提示したい。それは、「哲学」から哲学を解放することである。これは、序章でみたような哲学における齟齬を認識し、哲学の真の価値を理解することにある。
 では、哲学の真の価値とは何だろうか。ひとつには、社会的常識的な「有用性」を越えているところにある。ドイツ観念論の祖である哲学者の巨匠イマヌエル・カントも『諸学部の争い』において、社会的有用性に奉仕する上級学部である神学・法学・医学に対して、あらゆる統制から自由で理性的な判断を下す「哲学」の重要性を訴えた。また、イエール大学哲学教授シェリー・ケーガンは『DEATH 「死」とは何か』にて「私は「哲学者」だ。それはつまり、私が現実をあまり知らないことを意味する。」と述べている。すなわち、哲学の価値とは、そもそも実学ではないところにあるのである。
 あるいは、複雑系を単純化せずそのままに捉えるところにもその価値が見受けられる。立命館大学教授の千葉雅也も『現代思想入門』にて、哲学を学ぶ意義に関して、世の中には単純化したら台無しになってしまうリアリティがあり、それを単純化せずに考えられるようになることだと述べている。
 さらに踏み込んで述べると、本来的な哲学とは、真理を捉えることをその宗とするが、形而下のみならず、形而上をも扱える営みであると言えよう。「語り得るもの」のみならず「語り得ぬもの」をも扱えるということ。すなわち、言語や事象の背後にある原像、物自体やクオリアをこそ対象とするものだということである。この哲学の特異な性質は、「概念」と「原理」を扱うとの特徴からくる。ただし、概念の性質上、言語使用の必然性が立ち現れる。したがってこれは、言語の背後を言語にて表現するとの自家撞着に陥っているとも捉えられよう。しかし、これは矛盾であるが矛盾ではない。というのは、ここでいう言語使用は通常のそれとは異なる。それは哲学の最大の特徴でもある、言葉に無理をさせることができるところにある。すなわち、言葉の射程を広げられる余地があるということである。そうすることで、常識的一般的な言葉遣いでは表現できないものをも表現可能な領域に踏み込むことができる。これは、通常の言葉の用法では表現できない抽象性の概念であり[14]、科学とは異なる仕方で到達する独特の理念的世界である。この言語の持つ射程が柔軟であるとの特徴こそが、原像をも扱える所以であり、これこそが哲学の最大の価値なのである。
 ソクラテス及びプラトンは、タレスから連綿と続いた合理的な自然説明から、「真・善・美」の人間としての生の問題へと哲学の核を移行したという意味でも、形而上的概念の価値の重要性を理解していたと言えよう。その後、イマヌエル・カント、ヴィルヘルム・ディルタイ、アルトゥル・ショーペンハウアー、マルティン・ハイデガー、ヴァルター・ベンヤミン、ジョルジュ・バタイユ等、いくつもの哲学者がその価値を共有してきた。イギリスの哲学者アルフレッド・ノース・ホワイトヘッドの『過程と実在』における有名な一文「西洋の哲学的伝統についての最も穏当な一般的基礎づけは、それがプラトンの一連の脚注からなっているというものである。」の意もプラトン哲学における形而上的価値を指しているものであると私は考える。そして、この形而上学的価値、すなわち原像把握の営みとは、「観想」ではないかというのが次の私の主張である。したがって次章では、この「観想」について詳しく見ていくこととする。

第三章 詩と旅から捉える「観想」

「観想」とは、「みる」を意味する古代ギリシア語のtheōreinに由来する言葉であるが、この概念は非常に捉え難い。ただし、この概念こそが本稿の根幹に関わるものとなるため、詳細な理解に向けて紙面を割いておくこととする。本章においては、「観想」を捉えるために、二つの営みを考察したい。
 観想に最も近い営みとしては、「詩」が第一に挙げられる[15]ドイツの詩人フリードリヒ・ヘルダーリンの詩にて、以下のようなものがある。
 「いさおしは多い。だが、人はこの地上において詩人として住んでいる。(Voll Verdienst, doch dichterisch wohnet Der Mensch auf dieser Erde.)[16]
 この詩は、相反する二つの生き方にて構成されている。それは、「いさおしの多い生」と「詩人としての生」である。いさおし(Verdienst)とは、「収入、利益、功績、功労」の意味である。したがって、「いさおしの多い生」とは、収入や利益、功績、功労の多い生となる。そして、この生は、労働や仕事とも捉えられる。そう解釈するならば、ドイツの哲学者ハンナ・アーレントのいう「活動的生(vita activa)」とも換言できよう。
 対する「詩人としての生」とは、「いさおしの多い生」と反対となるのであるから、収入や利益、功績、功労の少ない生、あるいはそれが無い生、すなわち世俗的なことに関心を抱かない生となる。したがって、アーレントの言葉を借りれば、「観想的生(vita contemplativa)」と言うことができる。
 では、ヘルダーリンは詩人の営みをどう捉えていたのか。彼は詩を、「存在それ自体と関わることのできる唯一の営みである」と考えていた。それは、人間のいさおしの届かない次元、すなわち、人間の自力を超えて存在をあるがままに捉えることのできる次元。有り体に言えば形而上的真理のことであろう。
 あるいは、詩は、他の営みとは一線を画する物であるとも考えられる。それは、詩が、言葉というものに最も純粋に関わる営みであるからである。人間の営みは言葉無くしては成り立たない。ゆえに、言葉は人間を人間たらしめているところのものであると言っても過言ではない。そんな人間活動において極めて重要な言葉が、最も根源的な姿において現れるところが詩の世界である。それは、詩が常識的な言語使用の範囲を超えて言葉を扱うという特徴からくる[17]。この特徴ゆえに、詩が難解であると捉えられ敬遠される所以であろうが、詩の営みにおいて初めて、言葉それ自体が純粋に人間に経験されるのである。そして、言葉それ自体が現れるということは、事象や事物、すなわち存在があるがままの姿として直接に現れることに他ならない。
 まとめると、ここでの観想の意は、「存在それ自体をあるがままに捉えよう(見よう)とすること」だと言える。
 観想に最も近い営みとしては、あるいは、「旅」がそれにあたる。哲学者・三木清は以下のように述べている。
 「しかるに旅は本質的に観想的である。旅において我々はつねに見る人である。平生の実践的生活から脱け出して純粋に観想的になり得るということが旅の特色である。[18]
 三木は旅を観想的だと考えた。そこで、三木の旅解釈について考察してゆきたい。三木の旅解釈は以下のようにまとめられる。
 一つは、旅の本質は「過程としての漂白を味わうこと」である。
「旅は過程である故に漂白である。出発点が旅であるのではない、ただ目的地に着くことをのみ問題にして、途中を味わうことができない者は、旅の真の面白さを知らぬものといわれるのである。日常の生活において我々はつねに主として到達点を、結果をのみ問題にしている、これが行動とか実践とかいうものの本性である。[19]

三木は真の旅の面白さは途中を味わうことだと言う。目的地に到着することも旅ではあるが、その途中の移動の内にこそ旅の本質が宿るというわけである。また、旅を「漂白」だとする点も興味深い。これは、自身では想定できないとの意味であろう。真っ白なキャンバスに自動筆記されてゆくが如く、自身では先が読めない。そのような、先が読めないからこそ襲いかかってくる経験にて心が揺れ動かされる感動体験こそが、旅の真髄だというわけである。
 もう一つは、旅の本質は「既知のものに驚異を感じること」である。

 「旅の利益は単に全く見たことのない物を初めて見ることにあるのでなく、−全く新しいといい得るものが世の中にあるであろうか−むしろ平素自明のもの、既知のもののように考えていたものに驚異を感じ、新たに見直すところにある。我々の日常の生活は行動的であって到達点或いは結果にのみ関心し、その他のもの、途中のもの、過程は、既知のものの如く前提されている。」

 旅は、初めて訪れる故に対象の真新しさに直面することが良さであると一般的には考えられる。しかし、三木はそうは考えない。世の中には全く新しいと言い得るものはない。そして、自明なものも、よくよく見てみると新たに明らかになるところがある。その事物や事象、存在は理解していた気になっていただけであり、実際は何も知らないのである。そのような「無知の知」に気付かせられ、更に見直してゆくところにこそ、旅の本質が宿っている、というわけである。
 この二つの点が、三木の考える旅の本質であり、「観想」の要素に他ならない。
 以上、「詩」と「旅」の二つの視点から「観想」について見てきたわけであるが、まとめると「観想」とは、
 ①存在それ自体をあるがままに捉えよう(見よう)とすること
 ②過程としての漂白を味わうこと
 ③既知のものに驚異を感じること
となる。
 観想を、以上のように総括すると、原像把握との点において、哲学との親和性が強く見て取れる。ただし、観想は何も哲学のみの特権ではないことを付言しておきたい。他には、宗教及び芸術がその役目を果たすことがある。斎藤信治は『哲学初歩』にて、原像把握には、哲学・宗教・芸術の三つが寄与することを記した。そこでは、それぞれの捉え方において差異が生じるとされる。哲学は先にも書いたように「概念」の形を取る。対して、宗教は「表象」の形を、そして芸術は「直観」の形を以ってして、物事や人生、世界のありのままを捉えるというわけである。
 とはいえ、私はこの三つの選択肢の中でもとりわけ、哲学が重要であると考えている。特に、導入としては哲学こそが相応しい。それは、原像を扱う上で、哲学のみが合理をも用いる唯一の選択肢だからである。宗教は表象理解のために一定の下準備が必要となる。また、芸術は直観にて把握するとの性質上、どうしてもセンスや運が必要となる。このようにこの二つは、合理との相性が悪い。その点、哲学は下準備もセンスも運も必要ない[20]。したがって哲学こそが入りとしては適当であり、原像把握への鍵を握るのではなかろうか。
 加えて主張したいことは、哲学、宗教、芸術いずれの形を以ってしても、観想の要素としての①のみならず、②及び③をも内包するということである。したがって、哲学及び宗教、芸術は、観想ということができるのである。次章では、この観想を元に考えられる理想社会について提示することとする。

第四章 「観想」「寛容」「感動」社会の実現

 それぞれの言葉の意味を見ていくこととする。
 「観想」とは、前章にて描き出した概念であるためここでの詳述は避けるが、一言で述べるならば、原像把握に努め、漂白を味わい、既知に驚異を感じることである。
 「寛容」は、一般的な定義としては、「自己の信条とは異なる他人の思想・信条や行動を許容し、また自己の思想や信条を外的な力を用いて強制しないこと[21]」「特定の宗教的信仰や政治的権威にそぐわなくとも、理性や良心または他宗教に基づく判断と実践の自由を認めること[22]」とされるが、これらを元にここでは、「無条件に自身や相手、事実を赦し受け入れること」と定義付けたい。それは、この寛容が積極的解釈を有しているところにある。すなわち有効範囲を、他人を援助するとの意味で用いる。ただしこれは、単なる容認という単純な言葉で置き換えることはできない。時には不干渉とも、あるいは価値の多様性を了承するとの意味での相対主義とも言い得る、絶妙な射程となる。容認と排除との単純な二項対立ではない意味においての寛容が、ここでいう寛容である。そして、その涵養は、習律に基づいた自律的自由によって為されるのが良いと考える。
 「感動」とは、ここでは、「郷愁や情緒、憧憬などの価値に触れ、魂が動揺し恍惚に至ること」と定義付けたい。これは、対象に畏敬の念を持ち、その壮大さから自身が対象に丸裸にされる。対象を前に素直で純粋となる。そのようにして、心や魂が揺れ動き、カタルシスが起こるのである。あるいは、主客の境界が曖昧となることとも言っても良いかもしれない。客体の価値に触れることで、主体の防衛への顧慮が解体される。この様態において主体は中心が客体に吸い込まれる、あるいは客体が中心を占有することとなる。そうして、主客と区別が付かなくなった状態がこれにあたるのである。これはプロティノスやエックハルトにおける神秘主義思想における法悦に近いものがあると言えよう。
 これらの概念をとことん追い求める社会、それこそが、かの有名なソクラテスの名言「ただ生きるのではなく、善く生きる」を体現した社会の姿であり、私なりの「生きるとは何か」への解答である。すなわち、観想的態度を常に意識し、どのような状況となれど寛容を貫き、感動で満ち溢れるよう企図する。これこそが、本来的な生であり、個人としても社会としても目指すべき姿ではなかろうか。

終章

昨夏、宮崎駿監督の新作長編映画が10年ぶりに公開された。その名も『君たちはどう生きるか』。1937年に書かれた吉野源三郎著の同名小説が原点であると言われているが、この作品において主人公のコペル君は「僕は、すべての人がおたがいによい友達であるような、そういう世の中が来なければいけないと思います。(中略)そして僕は、それに役立つような人間になりたいと思います。」と彼なりの解をノートに綴る。
 一方で、古代ギリシャの哲学者ソクラテスは、前章にて見たように「ただ生きるではなく善く生きる」ことの重要性を説いた。これは、魂に知恵、勇気、節制、正義などの優れた性質、すなわち徳が備わるように心がけ、人として優れた魂を持って生きること、である。そしてこの考え方では個人としての意味合いが強い。確かに、徳を備えるためには集団の一員として関係性や空気感を重んじる営みが必須になろう。だが、あくまで集団は手段として、個としての完成が目的であると読み取れる。したがって、コペル君の考えとは一線を画すものであると考えられる。
 しかし、この差異こそが重要ではないだろうか。生き方というものは、吟味なしに一元化されてはいけない。イドラに拐かされてはいけない。当為の生なぞ、他者に規定されてはいけないのである。私は前章にて、観想的態度を常に意識し、どのような状況となれど寛容を貫き、感動で満ち溢れるよう企図すること、これこそが本来的な生ではないかと結論付けた。この帰結に対しては、妥協も嘘も偽りもない。これが生の時間及び現場の制約を越え、「永遠の相の下に」世界や生き方を見た結果としての解だと信じている。しかし、あくまでこれは私自身の暫定的な回答である。これが、保守的な本質主義、安易な現実否定、排除的傾向を持つものとなってはいけない。そうであるならば、私がこれまで再三批判してきた、「科学万能教」と同様のものに成り下がってしまう。「哲学万能教」「観想万能教」となってしまってはいけない。私は単なる科学批判をしたいわけでもなければ、哲学及び観想称揚をしたいわけでもない。大切なことは、自身で考え、自身で解を組み上げ、自身で言葉を紡いでゆくこと、そしてどこまでいっても自身を批判的に見ることのできる謙虚な態度である。敢えて言うならば、このような自身による吟味・検討、それこそが唯一の当為の生なのである。
 ゆえに、生涯問わねばならない。常に、いついかなる時も問わねばならない。己に、他者に、世界に対し、こう問い続けてゆかねばならない。

 ――君たちはどう生きるか

参考文献

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Kant, Immanuel『論理学・教育学』湯浅正彦・井上義彦・加藤泰史訳, 岩波書店, 2001年
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隠岐さや香『文系と理系はなぜ分かれたのか』星海社,2018年。

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李艶「価値観の構成要素についての研究」『聖泉論叢』16号, 2008年, 31-39頁。


[1] カント『純粋理性批判』序論における有名な一文「かつては哲学(形而上学)が万学の女王と名付けられた時代があった。」からの言葉。

[2] ニーチェ『ツァラトゥストラかく語りき』における思想であり、近代化、産業化、科学化の世界観における宗教的、哲学的観念の滅亡を表す。

[3] ヴィトゲンシュタイン『論理哲学論考』内での考え方で、従来の哲学上の抽象的問いは論理の外にあるものであるため、論理では扱うことができないとする考え方。

[4] ペトルス・ダミアニが用いた言葉であり、中世におけるキリスト教神学に対する哲学(弁証学)の立場を端的に表したもの。哲学は主人に奉仕する侍女・婢のように神学に隷属するものでなければならないとした。

[5] 厚生労働省が示す、令和4年6月9日に行われた「第13回地域で安心して暮らせる精神保健医療福祉体制の実現に向けた検討会参考資料1」によれば、外来患者数が平成14年の223.9万人から平成29年には389.1万人へ、165.2万人が増加している。その中でも最も割合の高い疾病は「躁鬱を含む気分(感情)障害」である。平成14年は68.5万人であるのに対し、平成29年には124.6万人と、約1.8倍もの増加が見られる。

[6] 総務省の報道資料、令和5年7月21日提出の「不登校・ひきこもりのこども支援に関する政策評価<評価結果に基づく意見の通知>」によると、小中学校の不登校児童生徒数は9年連続で増加しており、令和3年度には約24.5万人と過去最多となっている。

[7] OECD43か国中7位、G7中1位(世界保険帰還資料2021年)より

[8] 「自分自身に満足している」アメリカ86.0%、イギリス83.1%、韓国71.5%、日本45.8%、「自分には長所がある」アメリカ93.1%、イギリス89.6%、韓国75.0%、日本68.9%(内閣府意識調査資料2013年)

[9]世界幸福度ランキング156か国中148位(World Happiness Report 2022)

[10] 世界人助け指数114か国中114位(World Giving index 2021)

[11] 2010年から2019年で4倍(違法・有害情報相談センター)

[12] ヘーゲルにより定式化された弁証法の中心概念である、定立・反定立・総合の意。ある判断である定立(正)と、これに矛盾する判断である反定立(反)とが、一段と高度な総合的判断(合)に統合される過程を指す。

[13] 感性的経験では知覚し得ないものを指す概念である。時空間を超越した、抽象的、普遍的、理念的なものであり、科学が対象とする形而下に対峙する。

[14] 宗教の特徴である「物語」をも哲学に包含され得ると考えられる。

[15] 詩(芸術)を観想と結びつける考え方は、ルネサンス以降の西欧世界の影響が大きいと考えられ、特にドイツ観念論においてその傾向が見られる。その代表格として名を挙げることができるのが、『超越論的観念論の体系』を記したシェリングである。あるいは、ハイデガー『芸術作品の根源』などにおいてもその特性が強く見られる。

[16]  F.ヘルダーリン・川村二郎訳,2002年,『ヘルダーリン詩集』,岩波書店

[17]  常識的言語使用の範囲を超え出るものは二つあるとされる。すなわち「哲学」と「文学」である。前者は概念的認識に関して、後者は一般的認識に対して適応されるとの違いがある。

[18]  三木清,1966年,『三木清全集①』,岩波書店

[19]  Ibid.

[20]  厳密に言うならば、哲学用語や原典購読の面ではセンスも運も下準備も必要となる可能性はある。しかし、本来的な哲学においてはその必要はない。

[21]  山折哲雄,1991年,『世界宗教大事典』,平凡社

[22]  大貫隆・名取四郎・宮本久雄・百瀬文晃,2002,『岩波キリスト教辞典』,岩波書店

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水上裕貴の論考

Thesis

Yuki Mizukami

水上裕貴

第42期生

水上 裕貴

みずかみ・ゆうき

Mission

哲学・宗教・芸術を通じた「観想・寛容・感動」社会の実現

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