Thesis
我思う。これまでの数多の時代にて、人々が時々の諸問題に逢着し苦心した軌跡に対し、人間とは、なんと崇高で奇怪で、叡智に富んだ存在であるのか、と。欲望の故に、愚劣で迂拙な大罪を犯し、退っ引きならない苦悩や危機を生み出しもしてきたが、その欲望のお陰で苦悩や危機を脱し、知恵や信仰を纏い、文化を形成してきたこともまた真であろう。「巨人の肩の上に立つ」よろしく、斯くの如き先達の積み重ねの元に我々が現在存在していることに尊崇の念を持つことは然もありなん。加えて、一見すると愚劣で迂拙であると判断される出来事、世間一般には忌避され蔑視される事象にも実は大きな意味があったのではないか、むしろ、無駄で無能で無意味だと捉えられるものにこそ高尚な価値があるのではないか、と真剣に惟る訳である。そして、かの蓄積の恩恵と美しさ、得も言われぬ神秘的魅力や希望、既存的価値解体の可能性を最も感じる分野が、私の中では「哲学」に他ならない。
しかし、哲学が「万学の女王」の玉座を降り[1]、ルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタインが「語り得ぬものへの沈黙」を明示してから[2]というもの、哲学の輪郭は、サルバドール・ダリの彼の有名な作品《記憶の固執》の掛け時計の如く、ドロドロと溶解してしまっており、「哲学の終焉」が各所で囁かれているのが現状である。その空位には頑として科学が居座り続けている訳であるが、その立場も最早安泰とは言えまい。科学も、単純系の科学、すなわち要素還元主義的科学としては巧く機能しなくなってきているのであろう。観測可能性や再現可能性のみに目を向け、合理性や効率性、有用性を尊重し、論理的整合性のあるものだけを是とする実学的発想を抱えているのみでは、渡ってゆけない世の中になっているのかも知れない。ヴィクトール・フランクルの言う通り、「還元主義とは人間貶下主義(Subhumanismus)」[3]なのかもしれない。その証拠に、精神疾患を有する患者数は増加の一途を辿り[4]、不登校・引きこもりの児童生徒の数も年々増え続けている[5]。更に、自殺率が高いこと[6]、若者の自己肯定感が低いこと[7]、他者への寛容さが低いこと[8]、他者への関心が低いこと[9]、インターネット上での誹謗中傷の書き込み数が増大していること[10]など、精神的困窮が進んでいる事例は枚挙に遑がない。何かがずれている。何か、生に対して肝心なことが抜け落ちているような、そんな直感を抱いている。
本著では、そんな直感に基づき、生に対して考察してゆく。過去の偉大な哲学者達の知恵を借りながら、実存的生について検討しよう、その上で既存の価値基準に疑問を投げかけよう、と考えている。ソクラテスの有名な一文「ただ生きるのではなく、よく生きる(eu zen)」を現代的に考察すると一体どのような解に行き着くのか。本著はそんな、壮大で曖昧模糊なテーマを扱った、取るに足らないポエティカルなエッセイである。
19世紀ドイツの大哲学者フリードリヒ・ニーチェ(Friedrich Nietzsche)は、生に対して根本的肯定の立場を取り、認識や意識、判断、論理など、一切の理論的なものに反対していた。ニーチェにとって世界観とは「世界解釈」であり、かの「永遠回帰(Die ewige Wiederkunft)」思想が、キリスト教に代わって人類を支配するものとなることを確信していた。永遠回帰とは、世界や人生の出来事が無限回繰り返されるとの仮説であり、これは時間が直線的ではなく、循環するものであるとの考えである。すなわち、現在、自分が経験している出来事は、後にも先にも同様に発生するというものである。この仮説の提唱を通じてニーチェは、我々が如何に生きるべきかを問うた。すなわち、この人生が無限に繰り返されようともそれを肯定し得るか、との問いの提示を行なった。この問いは、人生を最大限に肯定することの重要性を強調し、自己の行動や選択に対する責任を強く意識させるものである。歓喜も艱難も引っくるめた全経験に意味を持たせ、価値あるものとして捉えることに繋がる訳である。
また、ニーチェの有名な言葉として、「神は死んだ(Gott ist tot)」というものがある。これはキリスト教を主とした伝統宗教としての価値観が衰退し、現代社会においてその影響力が失われたことを象徴的に表現している言葉である。そして近い未来、神の死による道徳観をはじめとした価値観の相対化の進行と、ニヒリズム(Nihilismus)[11]的危機の発生が訪れるだろうと予測していた。故にニーチェは、生存が無意味、無価値となり、無として残されたこの現実世界にて、改めて生存の意味と価値を問うたのである。
さらにニーチェは、先に見た永遠回帰の思想を主体的に受け止めるとき、そこに運命愛が成立し、所謂ディオニュソス的なものを正当に判断出来るようになると主張する。ディオニュソス的なものとは、ギリシャ神話に登場する神ディオニュソスに由来する、ニーチェの初期著作『悲劇の誕生』にて中心的な役割を果たす概念である。特徴としては、主に三つ挙げられる。一つ目は、陶酔と狂気である。これは自己を超えた一体感を意味する。個別性や自己境界が溶け、自然や他者との融合を感じる状態である。二つ目は、破壊と創造である。既存の秩序や形態を破壊する一方で、新たな創造の可能性をもたらす。これは、生命の原初的なエネルギーの解放にも繋がる。三つ目は悲劇的世界観である。悲劇は、人生の苦しみや無常を直視しつつも、それを超えた生命の肯定をも含意している。悲劇的世界観とは、この悲劇の具現化や悲劇要素を背景とした状態を指す。
ここから、人間存在とは、理性や秩序だけでは捉えきれない、深淵なエネルギーや情熱、混沌が内在しているとニーチェは主張した。そして、生命力を解放し、人々がより詳らかに自己表現することの重要性について謳ったという訳である。
加えてニーチェの思想は、キリスト教的に言えば、霊にではなく肉に根を下ろしていると解釈出来る。すなわち、宗教的な理想に依存するのではなく、現実に基づき、人間の身体的な存在、欲望、感覚に沿って生きることを重視している。このように、精神を退け肉体を肯定する発想は、肉体のうちにこそ人間を強化する生の根源が宿っているとの考えからきている。そうした生の根源をニーチェは「権力への意志(Wille zur Macht)」として捉え、我々人間は、一人一人がこの意志の上昇過程に沿って、絶えず自己を超克しつつ、本来的自己へと立ち返らなければならないとした。権力への意志とは、全ての生命現象の背後に宿る根本的な衝動や本能である。単なる生存や自己保存を超えて、他者に影響を与えんとする欲望や意志とも言える。
そして、この自己超克を人類規模において捉えたとき、「超人(Übermensch)」思想に行き着く。超人とは、伝統的な価値観を超え、自らの権力への意志を持って新たな価値を創造する存在である。他者の支配や外部道徳に依拠せず、自身の内なる意志に従って生きる、ニーチェの思い描く人間典型である[12]。そして、超人の徳こそが、溢れるばかりの豊かさ故に、なんら物惜しみすることのない贈与の徳となるのである。
18世紀ドイツの大哲学者イマヌエル・カント(Immanuel Kant)は、伝統的形而上学への徹底的批判態度や義務論(Deontologie)における厳格性から、しばしば合理主義の大御所だと理解されることがあるが、それは大きな誤解である。カントもまた、ニーチェ同様、理論的なものの外に目を向け、尊重していた人物である。それを最も顕著に表しているものが、「美」と「崇高」概念の考察である。
「美(das Schöne)」とは、利害関心から解放された状態にて快楽を与えるものである。美を評価する際、その対象が我々に利益をもたらすか否か、あるいはそれに目的があるか否かは検討の俎上には載らない。すなわち美的判断とは、純粋に対象そのものから生じ、鑑賞者の感覚に訴えかけるものである。美的経験は、我々が何かを直感的に美しいと感じる際に生じる訳であるが、ここには理性的分析も論理的思考も必要としない。また、対象の有用性や目的から解放されているため、純粋で無関心の喜びを追求するものとなる。この特徴のために美は、感覚的充足を提示することが出来、その点こそが美の持つ独特の価値となるのである。ただし、この判断は、個々人の主観的感覚に基づいてはいるものの、同時に他者にも共有され得る特殊性をも兼ね備えている。すなわち、個人的な嗜好を超えて合意を期待出来るものでもあるということである。
「崇高(das Erhabene)」とは、我々の感覚に圧倒的な影響を与えるものである。恐怖や畏敬の念を伴うこともあり、それは理性が感性を超える時に生じる感覚故である。そして、その規模や力、無限性により、我々を圧倒させ、感動を去来させる。従って、崇高とは、経験を超え出た際に認識されるものである。ここから、経験を食み出た非論理的なものは、我々の内面に深淵な影響を与えるのだということがわかる。更に、崇高な経験を通じ我々は、理性の限界を感じつつも、その限界を超える可能性を認識し得る。ここでの価値とは、論理的理解を超えた感覚が、我々に理性の更なる力を自覚させるところにある。
このように、美と崇高は、純粋に感覚的なものであり、理性的分析を必要とするものではない。そして、これらの経験は、我々が論理では到達し得ない深淵な感動や満足感を与えるものであり、非論理的事象が如何に豊かな価値を有するかを示している。論理的説明や理由付けを超えたところに存在するものである故に、これらの経験は理性に依存しない、人間の感受性や直感の重要性を強調し、非論理的なものが人生や世界の理解においてどれほど重要な役割を果たすかを示している。更には、経験を通じ、人々は自己を超越し、人生に対する新たな視点や意味を発見することが出来る可能性をも示している。これは、非論理的な体験が、個人的成長や理解を促進する重要な要素であることを示唆しているのである。
加えてカントは、人間の認識は理性のみによって成立するものではなく、しかしそれにも関わらず我々は現象について確実な真理を認識し得ると考えた。すなわち、人間の認識は感性無くしては成立し得ないことを認めながらも、確実な認識が成立するのだと主張した訳である。この場合、感性という制限のために人間の認識は現象の世界にのみ限られ、物自体(Ding an sich)の世界には及ばないこととなるが、それ故に人間の認識を不確実であるとはしなかった。むしろ現象の世界は人間の主観形式によって成立せられるものであるのだから、ここに我々は確実な認識を持ち得ると考えたのである。従って、それまでの、デイヴィッド・ヒュームに代表される啓蒙時代の哲学一般としての前提[13]である、確実な認識はただ非感性的認識であるとの主張は、カントによって棄却されたのである。そしてここから、従来的には人間の中の有限的側面として考えられ、誤謬の源として軽視されていた感性なるものに積極的な価値が与えられたのだと解することが出来よう。これはすなわち、有限的側面を含んだ人間を有り体に肯定することに他ならない。
また、このような人間存在の肯定的態度解釈は、カントにおける実践哲学においても同様に提示され得る。中世においては、倫理観の中心は唯一神であり、その神を核として道徳が成立されていた。対して、カントの場合では、倫理観の中心は人間にとって事実普遍的な法則として存在する道徳律であり、神はこの道徳律からの要請という形にて成立しているに過ぎない。すなわち、善とは、神に合致するが故に善なのではなく、善なるが故に善、実存を前提とするが故に規定されるものとなった訳である。この考え方も、上記における認識考察の際と同様、人間存在の積極的肯定であり、価値付与の例と言えるだろう。
メタモダン哲学とは、ポストモダン以降の思想潮流を指す言葉である。モダニズム的な普遍性・合理性・抽象性と、ポストモダニズム的な相対性・懐疑性・主観性とを止揚せんとする特徴を有し、現代社会における複雑な問題に対する新たな対応方法の検討を行なっている。この思想には、前章までで見たニーチェ及びカントの思想が色濃く反映されつつも、それらを乗り越えようとする試みが為されている。本章では特に、メタモダン哲学における代表的な二人の論客の思想について見てゆくこととする。
一人目は、フランスの哲学者カンタン・メイヤスー(Quentin Meillassoux)である。メイヤスーは、現代社会もとい現代思想に新たな方向性を提示しようとしている。それが「相関主義(correlationism)の超克」である。相関主義とは、カント以降の哲学において影響力を保持する立場であり、我々は物自体を直接認識することは出来ず、常に意識と世界との相関を通してのみ世界を認識出来るとする考え方である。相関主義によれば、存在物は常に、知覚する主体である人間と、知覚される対象である世界との関わり合いの中でしか存在し得ないため、世界その自体が如何様であるかは、到底知り得ないとされる。そしてその結果、哲学は相対主義や主観主義に傾き、真理や実在に関する問題への扱いが困難となったという訳である。
それに対し、メイヤスーは、相関主義が、現実や実在に関する真理探究の可能性を閉ざしてきたと批判する。また、この認識論的閉塞性は、単に哲学のみならず、広く社会全体に影響を与え、倫理及び科学に対しての信頼を損なわせる危険性があるとする。従って、メイヤスーは、この相関主義を超克する必要性を訴えている。その方法は二つ。一つは、絶対的偶然性(contingence)の導入である。メイヤスーは、世界の根本的特性として絶対的偶然性を挙げている。これは、世界には必然的な法則や固定的な構造は存在せず、世は悉く偶然の帰結であるとの考え方である。宇宙や自然界の法則をも恒常的ではなく、常に変化する可能性を持つ。偶然性こそが唯一の普遍であり、これに基づき世界の実在を検討することが重要だという訳である。もう一つは、非事実的存在の思弁である。事実的存在とは、我々が認識する現実としての世界的事象及び存在物など、一定の法則や条件に基づいて存在するものを指す。例示するならば、自然法則に従って存在する物理的物体や生物学的存在などがこれに該当する。これらは、我々の認識と密接に結びつき、相関主義的枠組みの中で理解される。対して、非事実的存在とは、我々の認識や経験から独立存在し得るもの、すなわち我々が認識不可能、あるいは事実として存在を首肯できないが、それでも尚、存在可能性を保持するものである。これは、一つ目で見た絶対的偶然性と関連しており、あらゆる存在が偶然的に生じる可能性を有するとの視点に立つ。この偶然性の枠組みでは、何が存在するかは固定されておらず、あらゆる存在は絶えず変化し得る可能性に開かれているという訳である。
二人目は、韓国出身のドイツ哲学者ハン・ビョンチョル(Byung Chul Han)である。メイヤスーと同じ方向性ではあるが、より具体的に現代社会に関して考察を行っている。ビョンチョルは、現代社会を二つの視点にて考察している。
一つが「透明社会(Transparenzgesellschaft)」である。現代社会は透明性を過度に強調し、何もかもが詳らかとなることこそを是とする風潮にあるする。ビョンチョルによれば、透明性は本来、政治及び経済領域での腐敗防止のために求められてきたものであるが、これが昨今では様々な分野に拡大され、その結果、多くの問題を齎しているという。例示するならば、個人の自由侵害。透明性が過度に要求される社会では、個人が常に監視され、自己公開が強制されるため、内面的自由やプライバシーが失われる。このような社会では、個人が自発的に行動する余地が狭まり、外部の圧力や期待に従わざるを得なくなる。また、透明性の追求は、信頼の破壊にも繋がる。透明性は全情報の公開を求めるものであるが、信頼とは曖昧さや非公開が前提となるため、これらの両立は非常に困難を極める。更には、コミュニケーションの浅薄化にも繋がる恐れがある。透明性追求による大量の情報共有は、他者との交流や対話を表層的で一時的なものとするため、両者の深淵な理解を失わせる危険性を有すると共に、人間関係を損なわせる可能性をも孕んでいる。加えて、芸術及び文化への悪影響にも結びつく。芸術作品や文化表現には、しばしば解釈の余地や曖昧さが含まれる。しかし、透明性の強調は、余白要素の排除を促すため、作品は浅薄で平面的となってしまう訳である。
もう一つが「疲労社会(Müdigkeitsgesellschaft)」である。現代社会は過剰なポジティビティ及び生産性の強調により、精神的にも肉体的にも疲労を増大させているという。ビョンチョルによれば、社会において失敗や否定感情等のネガティブは排除され、成功追求や前向きであることなどのポジティブが絶対的価値を持ち、追求されている。この、「可能(できる)」「当為(すべき)」「向上(よりよく)」といった積極性や肯定性の価値観が、価値を持ち追求されるところまでは良いのだが、問題は、過剰になってしまっていることにある。この風潮が、個人に過剰な自己管理と自己実現を強制し、結果的に疲弊に繋がっているのである。そして、それは外部からの強制ではなく、あくまで自発的なものである。自身で自身の可能性に期待し、成功することを期待する訳であるが、その自己圧力や自己監視が重荷となり、精神的疲労や燃え尽き症候群を誘発する。そして、この可能性が、現代の新しい権力形態、暴力機能となってしまっている。
加えて、ビョンチョルは、生産性を至上の価値と見做すことにも警鐘を鳴らしている。人々は常に何かを達成し、価値を生み出すことを求められ、休息や無為の時間を不当に軽視する傾向にある。このような過剰な生産性への執着は、個人の自由を抑制し、結果的に、疲労の蓄積、精神の消耗、更には個人の創造性や幸福感を損なわせる危険性をも孕んでいる。
前章までで見てきた各々の思想を踏まえ、本章では、私なりの人間の理想的な生き方を提示したい。第一に私は、非人間的生を不当であると理解している。非人間的生とは「動物的生」「機械的生」「単一的生」「孤立的生」を指す。これら四つは生き方の特徴を表し、屢々重なる場合もあるが、何れも極端に走ると望ましからざる生を齎すものだと考えられる。
動物的生とは、主に生理的な欲求や本能に基づいた生である。すなわち、食事、睡眠、繁殖といった基本的な生命維持の活動に集中した生き方である。あるいは、現代社会においては、消費主義や過剰な物質主義、娯楽の追求が生活を支配している状況を指す。このような、生存を至上の価値とする生、すなわち自己保存や種の繁栄との目的に堕した生が、この動物的生である。
機械的生とは、生活や労働が機械のように規則的で自動化されたものとなり、自由や創造性が損なわれる生である。あるいは、個人の主体性が削がれ、単なる歯車として代替可能で、道具や手段として扱われる生を指す。更には、人間的な温かさや感情、共感といった要素が排除され、効率や生産性が最優先する冷たい合理的状況が、この機械的生である。
単一的生とは、特定の価値観や生き方に固執し、それ以外の可能性や視点を排除し、他者にもそれを強制する生である。すなわち、人生において、ある特定の活動のみを重視し、それ以外の関心事を軽視する、個別具体性から目を逸らす生き方である。また、社会的に規定された役割や責任、立場のみに縛られ他者や事象を判断してしまう生が、この単一的生である。
孤立的生とは、自由を第一義とし、他者を顧みず実存の私的所有を行う生である。すなわち、身体や行為、言語等の実存を全て自身のみのものであると認識し、個の力のみで生存してゆこうと考える生き方である。あるいは、他者との関係や共同体を持たず、社会的に疎外された生が、この孤立的生である。
これらの生は、齟齬をきたした生き方であるため忌避すべきだと考える。翻って、人間的で理想的な生を私は、「ごく狭隘な「人の間」を超え、有意味と無意味の間を行き来し、世界の豊かさを感じ、語り得ぬものに触発され新たな語りを語り出す生」だと定義している。
ごく狭隘な「人の間」を超えるとは、限られた人間関係や狭い社会的環境、固定された共同体といった形而下における具体的関係性のみならず、人と動物、人と神、人と事象といった形而上をも射程に含めて思惟し、自他の境界線を蕩けさせ、「人の間」なる概念を目一杯拡張させることを意味する。
有意味と無意味の間を行き来するとは、意味があると感じられる瞬間と、意味がないと感じられる瞬間の双方を受け入れ、互いを反転させてみること、双方の階調の狭間を泳ぎ渡ってみること、かき混ぜ合わせてみることを意味する。
世界の豊さを感じるとは、騒音に泡立ち騒めきつつも音楽的魅力をも含意している日常を噛み締めること、感情的色彩を常時意識することにより、自身の世界を立ち表せることを意味する。
語り得ぬものに触発され新たな語りを語り出すとは、言葉では表現しきれない感情や直感、神秘体験など、人間の理解を超えたものに心を開き、能動的に人生を解釈し意味を持たせてゆくことを意味する。
このような生こそが、理に合致した当為の生き方であるため志向すべきだと考える。
この世界は、剥き出し故に、残酷で複雑である。まるで煉獄である。そんな世界の中では、自分は全くもって、無力で無益で無意味で無価値であるのかも知れない。きっと、偶然や曖昧を背負わされ、中途半端や非合理に鞭打たれ、未練や後悔に磔にせられることだろう。ただし、そんな中でも、この世界に生まれたことを、理解は出来ずとも、納得はしたい。合理的であることとは異なる、確かさを持って生きてゆきたい。人生に意味がないなどと実存的空虚感に打ち拉がれずに、自身のみで完結する、力や利益や意味や価値を創造して生きてゆきたい。
そんなファジーでノイジーでアドホックな人生を、ゆったりまったり噛み締め味わう。人生を余すところなく重宝し、熟成させ、発酵させ、趣きを醸し嗜む。
これが私なりの「よく生きる(eu zen)」であり、「超人(Übermensch)」であり、「義務論(Deontologie)」なのである。
12年前の夏、突如母が倒れた。それまで元気だった母が意識不明の重体で病院に運ばれた。見舞いに行き、声をかける。ベッドに横たわっている母は時折反応を見せる。言葉ともならない呻き声のような音をあげる。意識はない。そんな母の姿を見るのがとてつもなく辛かった。当時、高校三年生だった私はその現実を受け止めることが出来なかった。
半年後、母は奇跡的に意識を取り戻した。私は、元気でいつも通りの母が帰ってくると思っていた。しかし、脳に障害が残ってしまった母は、まるで別人のようであった。私が昔から知っていた母はそこにはいなかった。続く介護の日々のなか、「いっその事、母の命がそこで尽きてしまっていた方が、楽だったかも知れない……」とさえ考えてしまった。そればかりでなく、「こんな罰を下されるようなことを母は、そして私はしただろうか。一体、我々家族はどんな悪さをしたのか。あまりにも理不尽で残酷ではないか。神など居たらどれほど悪い奴だろうか――」次々と、そのような想いが去来した。高校生の私にとって、そうした想いを言葉にすること自体があまりにも苦しく、向き合うことさえ出来ないまま、鉛を呑んだような心を引きずり、どんよりとした日々を過ごしていた。
そこから母は少しずつ回復した。現在でも母は元気に暮らしている。
しかし、周りから見ると行動が特異に思われる程度には障害が残っており、かつての母と同じ程度に回復したとは、とてもではないが言えない。母が倒れてから10年もの歳月が経ち、私は29歳となった。時折、昔の母と今の母との間の隔たりを感じてしまう時があり、未だに完全には心に折り合いをつけることは出来ていない。
思い返すと、当時の私は、「言語化できない想い」と「科学的説明では解決できない想い」の二つの想いを抱いていた。どこまで自身の感情を言葉にしようとしても、核心は全て零れ落ちてしまうように感じ、なんだか収まりが悪い。また、脳のこの部位の機能不全にて現在の状況になってしまったとの説明を受けたとて、ちっとも合点がいかない。この二つの想いを抱え続けていた。
私は、この二つの想いと一生涯向き合おうと決意している。母の存在意義を護るために、実存として生の意味を追求するために、そして何よりも、理解は出来なくとも納得せんがために。
――この決意が、新たな語りを語り出す呼び水とならんことを切に願う。
[1] カント『純粋理性批判』序論における有名な一文「かつては哲学(形而上学)が万学の女王と名付けられた時代があった。」からの言葉。
[2]ヴィトゲンシュタイン『論理哲学論考』内での考え方で、従来の哲学上の抽象的問いは論理の外にあるものであるため、論理では扱うことが出来ないとする考え方。
[3] フランクル『人間とは何か』における文章中より抜粋。
[4] 厚生労働省が示す、令和4年6月9日に行われた「第13回地域で安心して暮らせる精神保健医療福祉体制の実現に向けた検討会参考資料1」によれば、外来患者数が平成14年の223.9万人から平成29年には389.1万人へ、165.2万人が増加している。その中でも最も割合の高い疾病は「躁鬱を含む気分(感情)障害」である。平成14年は68.5万人であるのに対し、平成29年には124.6万人と、約1.8倍もの増加が見られる。
[5] 総務省の報道資料、令和5年7月21日提出の「不登校・ひきこもりのこども支援に関する政策評価<評価結果に基づく意見の通知>」によると、小中学校の不登校児童生徒数は9年連続で増加しており、令和3年度には約24.5万人と過去最多となっている。
[6] OECD43か国中7位、G7中1位(世界保険帰還資料2021年)より
[7] 「自分自身に満足している」アメリカ86.0%、イギリス83.1%、韓国71.5%、日本45.8%、「自分には長所がある」アメリカ93.1%、イギリス89.6%、韓国75.0%、日本68.9%(内閣府意識調査資料2013年)
[8] 世界幸福度ランキング156か国中148位(World Happiness Report 2022)
[9] 世界人助け指数114か国中114位(World Giving index 2021)
[10] 2010年から2019年で4倍(違法・有害情報相談センター)
[11] ニヒリズムとは、一般的には何も意味がない、あるいは全てが無意味であるとする哲学的立場である。特に人生の意味や目的の否定、価値観や道徳的基準の絶対的否定を強調する。ニーチェ的解釈としては、従来の最高価値がその価値を喪失することとの事象を含む。
[12] ただし、注意しなければならないことは、我々人間の生涯の課題を、本来的自己の達成に置く限り、人間の平等性が否定され得るということである。この不平等は、権力への意志の上昇と下降の二過程に応じて命令者と服従者との二方向に分かれる。前者は、超人の面影を残し、偉大で高貴で自由である人間典型に、後者は、超人とは真反対の、卑小で下賤で不自由な畜群となる。政治体制に目を移すと、民主主義や社会主義は人間の平等を説くものだと言える。そのため、ニーチェ的な解釈でいうと、これらの体制は実存的生に適っていないものなのである。
[13] カントの考え方は、ヒュームの主張のアンチテーゼとなっている。ヒュームは、人間の認識は理性のみによっては成立せず、それ故に決して確実な真理になど到達し得ないと考えていた。
Aristoteles『ニコマコス倫理学』加藤信朗訳, 岩波書店, 1973年。
―『弁論術』戸塚七郎訳,岩波書店,1992年。
ByungChul, Han『疲労社会』横山陸訳, 花伝社, 2021年。
―『透明社会』守博紀訳, 花伝社, 2021年。
Frankl, Viktor 『人間とは何か』山田邦男監訳, 春秋社, 2011年。
Hölderlin, Friedrich 『ヘルダーリン詩集』川村二郎訳, 岩波書店, 2002年。
Kant, Immanuel『論理学・教育学』湯浅正彦・井上義彦・加藤泰史訳, 岩波書店, 2001年。
―『人間学・教育学』三井善止訳, 玉川大学出版部, 1986年。
―『カント全集8』牧野英二訳, 岩波書店, 1999年。
―『カント全集18』角忍訳,岩波書店,2002年。
Nietzsche, Friedrich『ツァラトゥストラ』手塚富雄訳, 中央文庫, 2018年。
―『悲劇の誕生』西尾幹二訳, 中公クラシックス, 2004年。
―『運命愛・政治・芸術』原佑訳, 人文書院, 1967年。
Platon『ソクラテスの弁明・クリトン』久保勉訳, 岩波書店, 1927年。
Quentin Meillassoux『有限性の後で』千葉雅也他訳, 人文書院, 2016年。
Schaeffer, Francis『それでは如何に生きるべきか』稲垣久和訳,いのちのことば社,1979年。
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李艶「価値観の構成要素についての研究」『聖泉論叢』16号, 2008年, 31-39頁。
Thesis
Yuki Mizukami
第42期生
みずかみ・ゆうき
Mission
「ただ生きるのではなく、よく生きる社会」の実現