論考

Thesis

我が日本、古より今に至るまで哲学なし。されど自今哲学身近となり我が日本、哲学あり。

 「我が日本、古より今に至るまで哲学なし。」

 これは、日本を代表する思想家である中江兆民の、著作『一年有半』における言葉である。この言葉が世に出たのは1901年。それから120年経った現在、果たして我が国に哲学はあると言えるだろうか。

 日本における代表的な哲学者としては、まずは西田幾多郎の名が挙げられるだろう。京都学派の創始者で、西洋哲学と東洋思想、特に仏教思想及び儒教思想との融合を試みた学者である。その研究の成果として上梓された著書『善の研究』は日本初の哲学書としても有名である。

 あるいは和辻哲郎がそうである。彼は、倫理学者、文化史学者としてもよく知られている。比較文化論の大著『風土』における、気候・風土が文化および思想などの人間の精神構造を形成しているとの考察は、今もなお議論を呼んでいるところである。

 さらには九鬼周造が当てはまるかもしれない。『「いき」の構造』において彼が、日本人的な精神構造として「いき」という美意識を解明しようとしたことはあまりにも有名である。

 他にも、井上哲次郎や三木清など、自身の思想体系を世に打ち出した日本人哲学者は数多く存在する。ふむ、日本哲学が打ち立てられたと言えるかもしれない。いや、ちょっと待て。哲学者が数多く存在したことが、すなわち哲学ありということなのだろうか。否、そうではない。哲学ありとは、文化として哲学が世間一般に根付いた状態を指すのではなかろうか。

 日本においては、哲学という言葉を耳にするとそれだけで難しそうだと身構えてしまう人が多い。哲学が日常と乖離している。そういうわけで、日本は未だ哲学なしである。しかしこれではいけない。哲学は何にも増して大切である。なぜか。それは自殺率の高さやインターネット上での誹謗中傷の増加、他者への関心の低さ等の我が国が抱える社会問題はこの「哲学なし」が原因だからではないかと私は考えているからである。

 哲学なし、すなわち意味づけ・価値づけすることができていない現状があるからこそ、社会問題が起こってしまっているのではなかろうか。これが私の主張である。個人的価値づけができずに、アイデンティティの確立ができていない。ゆえに自分に自信が持てずに自殺に流れてしまっていたり、相手を攻撃することに走っていたりするのではないか。社会的価値づけができずに、公共性が高まらないから、他者への関心が持てないではないだろうか。すなわち、日本の社会問題の解決は、「哲学なし」をどう「哲学あり」に持っていくか、どう「哲学を身近に」していくことができるか、が最も重要なのである。

 ここで少し、哲学という言葉の意味について検討してみたい。

 哲学とは一体何を指す言葉なのだろうか。この言葉の説明は一筋縄ではいかない。それは非常に射程の広い単語であるからである。語源で考えるとphilosophy。ギリシャ語の「philo(愛する)」と「sophia(知)」に由来し、「知を愛する」という意味がある。これが本来的意味なため、射程が広い単語なのである。さらに哲学の世界では難しい言葉が多用される。これはひとつには、既存の言葉では説明することのできない範囲・領域を説明するために新しい単語を用いたり、全く異なる概念を当てはめたりしていることが原因だと考えられる。

 私なりの答えを提出するとするならば、私は哲学とは「問いにこだわり、本質をあらわにし、世界と人間について知ること」であると考えている。問いを立てるところからはじめる。次に、これを抜いたらそれではなくなるといった、そのものの一番重要な「核」の部分を取り出す。そうして、世界と人間について理解する。これが哲学をするということであるわけである。

 少し詳しく説明すると、まずは、「問いを立てる」ところからはじめること。「〜とは何か」これが最もよく使用される問いである。哲学を学ぶ利点のひとつとして視野が広がることが挙げられる。それはまさにこの「問いにこだわる」特徴が理由であろう。

 このように問いを何よりも大切にする、その理由は、「本質をあらわにすること」。これをしようとしているからである。「概念を再検討すること」とも言い換えられるだろうか。常識を疑い、何事も一から考えよう、これが哲学の正統な態度である。正解というものは、範囲や視点や環境によって変わり得る、ただしそれは正解がないということではない。そんな一見すると正解が人の数だけ多様にあるように思えるそんな中でも普遍的な解を探究する、それが哲学というものの性質のひとつである。解は問に依存する。したがって問いは答えよりも重要であると言えるのである。

 そして、そのように問い続けていくことで、新しい世界観や人間観が切り拓かれてゆくのである。つまり、世界と人間を知る、これこそが哲学の目的であるのだ。

 哲学するとは、問うことである。問うこととは、本質をあらわにすることである。本質をあらわにすることとは、世界と人間について知ることである。これが私の考える哲学だ。ただしこれは哲学の表向きの意味。裏向きの意味があるのではないか、そしてそれこそが実はより重要なのではないかと考えている。それは「意味や価値を問い直す、取り除く、与える」といった意味である。

 フランスの哲学者ジャン=ポール・サルトルが「実存が本質に先立つ」という言葉で語ったように、自身で自己や物事、大きくは世界に対して価値づけ・意味づけする。そうすることで価値観の強制から解放されて生きていくことができる。自分を納得させて生きていくことができるのではないかと思う。それこそが哲学の最大の効用ではないかと私は考えている。

 兆民の言葉が以下のように続く社会を作っていくことが今後の我々の使命なのだと確信している。「されど自今哲学身近となり我が日本、哲学あり」と。

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水上裕貴の論考

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Yuki Mizukami

水上裕貴

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