Thesis
「オマエ、足し算できるのか?」。それを語る憎悪に満ちた彼の眼が、鮮明に思い返される。「中卒で会社に入った上司に言われた。その時、ばかにされたくない、軽く見られたくない、人間になりたいって思った」
一人思い出すと、また一人、また一人と思い返してしまう。毎日父親から立ち上がれなくなるまで殴り続けられていた奴のこと。中学の時の過ちをいまだに咎められ、就職できない奴のこと。死に場を見つけに家出をした奴のこと。挙げればいとまがないが、それは皆、私が定時制高校に勤務していた時の生徒たちの話である。
大人たちに向ける憎悪のまなざし、警戒心、人間不信というのは言葉に言い表すことは難しい。対立もあった。逃げられることもあった。情熱を傾けても裏切られることもあった。でも、そんな彼らも夢や希望や全うに生きたいという気持ちがある。「人間になりたい」という思いがある。傍目から見れば、それは努力と呼べるほどのものではないのかもしれないが、昨日より今日、今日より明日と小さく歩み続けていく。
が、そんな努力すら「定時制って勉強しているんですか?」という何気ない一部の大人たちの一言で、人間らしく全うに生きようという努力が、一瞬にして踏みにじられてしまう。「人間が朽ち果てていく」という恐怖感に、私は生まれて初めてさらされることになった。
この「生き地獄」から這い上がるためにあがきもがいていた頃、ある人物の存在を知ることとなる。
久々に大阪の街を歩いた。ある意味で地方都市よりも昔の面影が残る街である。高層ビルと近代的な立体交差点が張り巡らされる街並みの一方で、公園では早朝から多くの人が集まりカラオケ大会。ブルーシートの壁の住人たち。猫が通る隙間もないくらい密集した住宅地。大阪の街とは色々な人が寄り集まってできた街なのである。生きる活力に満ち溢れていると言えよう。
しかしその一方で、多くの問題も抱え続けてきている。在日外国人問題、被差別部落問題、日雇い労働者問題など。そういった混在する街、大阪で松下幸之助は松下電器を創業し、発展させていった。ただの企業家として終わることなく、PHP活動などを通じて思想家・哲学家として活躍し、さらに有為な人材を世に輩出するために松下政経塾を設立する。その出発はゴチャゴチャした街の小さな町工場であった。
少し歴史を振り返る。大正7年、大開町(現:大阪市福島区)に工場兼住居の松下電気器具製作所を構えた。創業時には周辺には何もなく西野田と呼ばれ、まさに野と田んぼしかない地であったようだ。現在は下町の面影を残す住宅や商店などが建ち並んでいる。
ちょうどそのころ日本は好景気に沸いていた。大正3~7年、第一次世界大戦が勃発し、日本もこれに参戦し、産業は大きく飛躍している。戦前の大正2年と戦後大正7年を輸出入額で比較してみると5年間で3倍増。電灯の家庭普及率も30%台から50%台と増え1)、まさに破竹の勢いで成長していた。大阪は、産業で国内一番であった。工場やその他産業が参入し、市街地が周辺の田園にも及び始めた。労働者も地方から都市への流入が始まり、大正9年から10年間で人口が1.5倍増2)。膨張する様は大大阪(だいおおさか)と表現されていた。
しかし、その一方で問題も噴出していた。それは「貧民」3)である。貨幣経済が浸透する最中、「貧民」と呼ばれる人たちは労働力を売るという生業を受け入れざるを得ない社会環境にあった。賃金の搾取といったことも行われるなど、持つ者と持たざる者との階級差は著しくなっていった。市街周辺にはスラムが形成され、その劣悪な労働環境と住居環境が社会問題となり、政治的課題の一つとされていた4)。
創業当時の松下電器の事業は時代の追い風も受け、非常に順調そのものであった。そんな中、従業員の確保は「ずいぶん骨が折れた」5)と松下幸之助は後年、述べている。ちなみに大正7年12月には20人だったのが10年後の昭和3年には300人、20年後の昭和13年には4,668人と急増している6)。
好景気に沸く日本にあって労働力確保は松下電器のみならず、産業界全体の問題だったであろう。一介の町工場であった当時の松下電器に、学校を出た人材を確保することなど望むべくもない。おそらく先にあげた「貧民」からその労働力を補わなければならなかったということが想像される。
「当時の煉物の原料の製法というものは(前にも話した通り)各工場とも、秘密にしていた」7)とある。これは当時の世相をよく反映したものであったと考えられる。松下電工(株)元会長の故・丹羽正治氏が「金儲けが当たり前の時代で、あくどい商売が横行していた」8)と語っている通り、第一次大戦以降はそれまでと打って変わって商道徳が崩れ、拝金主義に陥ってしまっていたと思われる。従業員に至っても、日銭を稼ぐことが第一の目的であろうから、企業秘密でも入手しようものならその時点でそれを持ち去ってしまうということがあってもおかしくなかったのではないだろうか。
それは一言で言うならば人間扱いしない見方であろう。このような見方が人間不信の連鎖を生みだし、社会全体に混沌とした雰囲気をつくりだす。大阪の根深い地域問題の発祥が垣間見える。
ところが松下幸之助は創業間もないころに、その日に入った従業員にも練物の製法を教えている。それについて「製作するに当たっていろいろと意を用いなくてはならないし、経営上、策を得たものではない。よろしく開放して、便宜、だれでもその衝に当たらすべしと思った」9)と事もなげに述べている。
これがどれだけ従業員のやる気を引き起こしたことであろう。当時の感覚ならば従業員は使われるだけの立場のみならず、会社の物や情報、ノウハウなどを盗んでいく恐れのある連中であるという疑いのまなざしを受けていた人が多かったのではないだろうか。
「それは松下君危険だよ」10)と同業者から指摘されている様子は、当時の経営者の普通の感覚を反映しているものだと解される。
もう一例、引き合いに出すならば、「従業員がまだ10人も満たない時から…店のほうの決算については、従業員に毎月、公開していた」11)という点であろう。大正時代では珍しいことはもちろん、そんな丁寧な経営は現代の中小企業でもやっていないだろう。なぜこのような手段を取ったのだろうか? ここに松下幸之助の独自性が現れていると思う。考え抜いてそのようにしたのか、それとも単なる思いつきだったのか? それは今となっては確認する術はない。いずれにせよ、従業員を使用人として見たのではなく、心を持った一人の人間であるということを自覚し、認めていこうという真摯な姿勢が漲り、それが従業員の士気を高めていったのではないかと思うのである。
松下幸之助は少年時代、大阪船場で丁稚奉公をしている。
「船場の商店は信用を重んじ、また店員を訓練するのに一種独特の商売人としてのたたき込みをした。いわゆる筋金を入れたのである。(中略)その後の氏の商売、経営に対する考え方の形成に顕著な形で影響を及ぼしていると思われるものである。」12)
とあるように松下幸之助自身、徹底的に教育されてきている。
しかし、創業当時の従業員の多くはこのような厳しい訓練を受けてきておらず、むしろそういった規律を面倒がる人間がほとんどだったのではないかと思われる。そのような状態の従業員に対して、なぜ我々は働くのか? なぜこの商品を作るのか? 自分のためだけでなく、その商品を待ち望んでいる人々のため、ひいては社会のために働いているということを徹底的に意識づけながら、規律と秩序を身につけさせることに注力したのだろう。
のちに松下幸之助は次のように語っている。「人を信頼し、任せることが人を育て、事業を伸ばすことにつながった」13)。そして、松下電器の画期的な事業部制もこの行き方から生まれくべくして生まれたと述べている。
大阪府門真市に置かれている現在の松下電器の本社に訪れた時のことである。ちょうど朝のラッシュ時だった。相当な数の従業員が最寄の駅から降り、会社へ向かう。ところがその間、誰ひとりとしてくわえ煙草をしたり、道幅を広げて占領したりすることなく、交通ルールを守り、整然と歩いていた。活気に満ち溢れた大阪の街では、まず見られない光景である。このような統率のとれた行動は、一朝一夕にできるものではない。これこそまさに、松下幸之助が創業当時から取り組んできた従業員一人ひとりを信頼し、対話し、教育していった成果の表れではないだろうか。人づくりにこだわる松下電器の理念がこういった小さなところにも息づいている。
昭和7年5月5日、松下幸之助は従業員に向かって次のように述べた。
「・・・すなわち、実業人の使命は貧乏の克服である。社会全体を貧より救ってこれを富ましめるにある。・・・松下電器の真の使命は、生産に次ぐ生産により、物資をして無尽蔵たらしめ、もって楽土の建設を本旨とするのである」14)。
これを聞いた従業員は歓喜のあまり、壇上に駆け上がり所感を述べる希望者が殺到した。この日を命知とし、松下電器はこの日を創業日と定め、250年計画をもって社会の繁栄のために邁進し、信じられないような勢いで発展していくのである。
当時日本は、第一次世界大戦後の長期に及ぶ不景気の真っただ中にあった。貧困はなお一層激しさを増していた。従業員たちにとって「貧乏の克服」とはまさに生活上の絶対的克服課題だったに違いない。従業員本人のみならず親兄弟親戚、知人友人などは概して厳しい生活環境に置かれていたことと察する。
工場での日々の作業は決して楽ではない。今のように労働環境衛生や労働安全設備など整っていない。油にまみれ、傷をつくり、来る日も来る日も単調な作業の延長線には貧乏から脱出できるという未来が開かれているというメッセージは、それを述べた後、所感発表に移ったところ「われ先に壇上に上ろうとして押しかけ押しかけ列をなし、そのとどまるところを知らず」15)という熱狂に会場全体が包まれたという事実からうかがい知れる。
すばらしいのは従業員の生活実感に立っている松下幸之助の人間に対する洞察力ではなかろうか。従業員と違い、松下幸之助自身は数千人を雇用する「社長」である。借金のために家族が離散しなければならないという幼少期の体験があったにせよ、人間だれしも「喉もと過ぎれば熱さ忘れる」で、厳しい環境にあった人でも今が裕福だとそういったことをついつい忘れるものである。人を慮る気持ち、慈悲深さという松下幸之助の生きる姿勢を従業員一人ひとりが受け取り、その感謝の気持ちが産業振興に大きく寄与していった。
大阪の街は繁栄と貧困のるつぼであった。貧乏の克服というメッセージは大きなインパクトを与えたことだろう。
松下幸之助の経営を振り返ってみると、そこに生きた人間像がリアルに浮かび上がってくる。そこで働く従業員たちの姿、生活、思いなど、創業当時の彼らは、きっと私がいた定時制高校の生徒たちと同じような思いや悩みを抱いていたに違いない。
人間は弱いものである。つくづくそう思う。しかし、また一方でどんな環境にあっても希望を失わず突き進んでいけば、未来を開いていくという力強さを兼ね備えている存在でもある。
松下幸之助は成功した理由を尋ねられ「正直言うと、なぜこうなったのか、ほんとうのところのはなしはわしにも、ようわからんのや」16)と答え、運が良かったとしかいいようがないと述懐していたが、それだけではないことは想像に難くない。働くということはそれ自体、人間をつくり、育む場であると思う。学校とはまた違った観点で、人間が成長していく場なのである。松下幸之助は、きっとそれに気づいていたのであろう。
振り返ってみると、更生し、自立し、卒業することができた生徒の多くのきっかけが、仕事であった場合が多い。自信が学力に結びつき、人間関係を豊かにさせ、活力を与える。友人・恋人の支えもあっただろう。
世間は勝ち組だけで支えられているのではない。それに気づくことができたとき、憎悪に満ちた鋭い眼は、現実を直視し、未来を見つめる瞳に変わっていき、人間は新しく生まれ変わっていく。
1)『山川日本史総合図録』p105 山川出版
2)総務省統計局 http://www.stat.go.jp/data/jinsui/wagakuni/zuhyou/05k5-5.xls
3)『主体としての都市』p352 ジェフェリー・E・ヘインズ著 宮本健一監訳 勁草書房
4)『主体としての都市』p9 ジェフェリー・E・ヘインズ゙著 宮本健一監訳 勁草書房
5)『私の行き方考え方』p98 松下幸之助著 PHP文庫
6)『松下幸之助成功への軌跡』p198 佐藤悌二郎著 PHP研究所
7)『私の行き方考え方』p80 松下幸之助著 PHP文庫
8)『いま壁にぶち当たっている君に』p3~4 丹波正治著 波書房
9)『私の行き方考え方』p80 松下幸之助著 PHP文庫
10)『私の行き方考え方』p80 松下幸之助著 PHP文庫
11)『松下幸之助成功への軌跡』p251 佐藤悌二郎著 PHP研究所
12)『松下幸之助成功への軌跡』p97 佐藤悌二郎著 PHP研究所
13)『松下電器五十年の略史』p44~45
14)『私の行き方考え方』p295 松下幸之助著 PHP研究所
15)『私の行き方考え方』p301 松下幸之助著 PHP文庫
16) 『成功の法則-松下幸之助はなぜ成功したか』p259 江口克彦 PHP研究所
Thesis
Shoji Teraoka
第28期
てらおか・しょうじ
一般社団法人学而会 代表理事
Mission
教育