論考

Thesis

人間とは何か

高校教師として人づくりの現場に携わっていた。その経験を通して人間とは何か、について考えてみたい。

<臆病な人間観>

 「腫れ物に触る」という表現がある。私にとって初めて接する定時制の生徒たちはそういう感覚であった。言葉では言えないような深い傷を負っているのではないだろうか。非常にセンシティブな心理状態にあるのではないだろうか。たった一言の間違いが自殺に追い込んでしまうのではないだろうか。また、彼らを怒らせて、こちらに襲い掛かってくるのではないだろうか。常にそういう恐怖感というか不安感のようなものが付きまとっていた。これは私だけではなく、定時制の教員の多くは同じような感覚を持っていた。だから、できるだけ彼らは刺激を与えられることなく、中学校一年生レベルの勉強を4年間やり、卒業証書をもらう。4年前と学力はほとんど変わらない。結局、卒業生が全員、進路先がフリーターかニートだった。

 自分は一体何をしてきたのだろうか? 教育って何のためにあるのだろうか? 一年が終わったとき、根本的な問いにぶち当たった。同情的態度から一転し、彼らにきちんとした教育をしなければならないという気持ちに駆られていった。

<人間の本質とは>

 夜間定時制の場合、生徒は昼間、働いていることになっている。ところが最近の事情は少し異なる。経済的な事情よりもむしろ、学力が低すぎる場合。中学時代不登校や心身の問題を抱えているなどである。しかし、1年、2年と経るごとに働きだす。コンビニやレストラン、ガソリンスタンドや町工場。中にはホストやホステスとして働く者もいた。彼らは街を支える社会の形成者である。

 そんな彼らの働く姿を目にすると、学校の時の姿とまったく違う。とても活き活きとし、溌剌とした態度で接客している。だるそうに机にうつぶせになったり、ろくに返事や挨拶をしない学校での姿とはまるで別人のようである。それは一体なぜなのだろうか? 彼らにとって学校とは何なのだろうか?

 一つにはアルバイトの場合、お金がもらえる。学校はお金がもらえない。しかし、働く彼らにとってお金の大切さは身に沁みて分かっているはずである。意味なくお金を出して学校になんか来ないだろう・・・。彼らの姿を見るたびに疑問が膨らんできた。

 ある時ふと思った。人間というものはその場その場で個人の中に持っている、様々な側面の一部が現れてくるのではないか。例えば好きな人と一緒にいる時の自分と、嫌いな人と一緒にいる時の自分とは、同じ人間なのかと思ってしまうくらい別の態度を取ってしまうことはないだろうか。自分のことを分かってくれる上司の元で仕事する場合と、全然理解を示さずいつも頭ごなしに批判してくる上司の元では、その働き具合も大きく違ってくるということは身に覚えのあることでもある。つまり彼らにとって働くということは、自分が活かされる場所なのである。学校は必要だと思うから行っているだろうが、充実感や自分が活かされる場ではないと感じているのではないか。

<節目を>

 「学校を自分自身が高められ、活かされる場にする」

 私はこのように目標を立ててみた。改めて見てみると当たり前のことだ。だが、いざ実践するとなったとき、一体どこから手をつければいいのか非常に悩んだ。ところがその糸口が意外なところから出てきた。

 ある日、街で大きな事故があった。乗用車がT字路で曲がりきれず、追突。乗っていた5人が全員即死という大きな事故であった。「地元の祭りの日に起きた無謀な若者の運転」と翌日の新聞に掲載されていた。その葬儀には500人もの人が参列したという。その多くが、世間ではヤンキーだとか不良少年だとか言われている若者たちである。友達の友達という縁遠いものまで来ていた。そして私の学校の生徒も何人か休んで参列した。最初は、学校をサボる口実なのかと疑ってしまった。しかし彼らの言葉から、悲しい出来事に、参列し、手を合わせないと気が済まないという、湧き出てくるような思いを感じ取った。

 教師の言うことを聞かず、秩序や規則といったところから非常に縁遠い彼らにとっても人間の死という事実は大きい。そこでは、しきたりに従い、喪に服す。人生の終わりを見届けようとするその振る舞いに、何かしら人間の尊厳のようなものを感じた。

 そこで私は、学校の式典を重視してみてはと考えてみた。始業式、終業式、卒業式、入学式といった式典に、場にふさわしく正装をしてくるように指導し始めた。それまでの式典では、ヤンキーファッションやキティちゃん、工場の作業着だった。しかし、一人、二人と正装で出席する者が増えるにつれ、式典は厳粛な雰囲気に包まれるようになり、服装が変化するとともに私語がなくなり、居眠りするものやのけぞるように椅子に座るような者もいなくなってきた。不思議なものである。それが自然な姿なのであろう。

 はじめ、なか、終わりという人間の感情や生活のリズムに沿った時を大切にする。そういった機会を一つずつ体験していくことで、人生には節目があることに気がついていく。時間を守れ、とか、静にしろ! といったことではなく、我々の内に自然に流れている一つの側面をうまく合わせていくことが大切なように思いはじめた。

<環境を整える>

 節目をもう少し、日常的に取り入れてみることはできないだろうかと考えていた。そう考えていた時、ある人から「玄関だけはきれいにしておいた方がいい」という話を聞いた。なるほど、と思い、さっそくいつもよりも1時間早く出勤し、昇降口の掃除をし始めた。定時制の昇降口にある、上履きは不揃いというよりも、投げ捨てられているように置かれている。彼らが最初に学校に来た時、この様子を見て毎日薄暗く、ほこりまみれのこの場所で靴を履き替えるときの気持ちは一体どんな気持ちなのだろうか。溌剌とした仕事をする自分から、どんよりした嫌な自分に変わっていく。そんな風に思って毎日ここを使っているのかもしれない。そう思うと、私は取りつかれるように毎日そこの清掃をした。

 効果が出始めたのは新しい学年を迎えた半年後だった。とてもいい新入生を迎えたということもある。しかし、これまで廊下であった生徒が挨拶してくれるといことはなかった。ところが、それが当たり前のように交わされるようになり始めた。

 入学する生徒たちにとって、進学先は真新しいノートの1ページ目に記す人生の再スタートである。ポジティブにものを考えようとして、一歩行動を踏み出したときの受け入れられ方は思いのほか大切だと思う。どことなく清潔感があり、美しく整えられている環境に人は気付く。言葉以上に一手間掛けることのほうが、効果的ではないのだろうか。

 これを機に、生徒たちにも自分たちで学習環境を整えるということに心がけさせるよう、職員全体で協力してもらうことにした。机やロッカーの中、配布したプリントの整理。こういうことができていない生徒がほとんどであった。非常にめんどうなことであるが、少しずつ働きかけるようにした。できなければペナルティーを科すという方式ではなく、できなければきちんとやり直しをさせていく。そういう細かな作業は面倒臭いのを理由にやりたがらないだけだと思っていた。しかし、やろうとしない理由はそれだけではなかったようである。不器用で、視点が定まりにくく、集中力に乏しく、時間がかかってしまう。そんな簡単なことが高校生にもなってできないことが恥ずかしく、隠すために悪ぶっているだけではないだろうか。どうもその悪循環を小学校から繰り返してきてしまっているようであった。時間を取って一時間ずつ、毎回、学習環境を整えていくことを繰り返した。

 繰り返すという作業は単調である。非常に無意味なことのように思われる。しかし、靴箱や机の中、ロッカーは毎回、習慣的に繰り返さなければ必ず汚れてしまう。廊下や教室、昇降口も埃まみれになってしまう。それを繰り返し行うことで、はじめ、なか、終わりというリズムが生み出され、習慣化され、行動が日々の体調や感情に影響されにくくなっていく。

 その効果は、二つの面で現れた。一つはアルバイトの離職率の低下。繰り返しが習慣化されることは仕事の作業が安定してくる。二つ目は学習面の向上。準備する時間が短縮され、整理整頓されたノートで勉強することができる。授業を受ける。ノートを取る。それを使って勉強する。そこから問題が出されており、回答することができる。成績は上がっていく。という学習活動の一連の流れが体感され、繋がっていることに気が付き始める。

<リーダーの存在>

 もうひとつ、重要なものがある。それはリーダーの存在である。別の言い方をすると、集団の目になっている存在である。

 どうも、生徒たちの行動や判断基準は、正しいか正しくないかではなく、誰がそれを言ったのか? 誰がそれを許しているのか? という人間に依存する価値基準が非常に大きいようである。生徒側から見た先生のえこひいきもその逆に当たるのかもしれない。いずれにしても、リーダー的存在の者が一体、どう振る舞うのか、一挙手一投足を見ている。もしリーダーが教師の言うことを聞かなければ、誰もやろうとしない。しかし、リーダーが動けば全体が動き出す。またリーダーに対して教師がどう接しているかも注視されている。

 そのリーダーに四つのタイプがある。一つ目は、できる型。スポーツも勉強も、ルックスもそつなく、自信に充ち溢れ、彼において他にいないというタイプ。定時制ではあまりお目にかかれない。いてもすぐに学校を辞めてしまう。二つ目は、威嚇型。これはバックに暴走族やそれに類する仲間が付いているということをちらつかせて、集団を引き付けるタイプ。本物もいるし偽物もいる。後で面倒だから従わざるを得ない。三つ目は、優等生型。これは残念ながら集団の目にはならない。多くの教師や多くの上司たちがこのタイプを重用するが、組織が失敗する典型である。それは単純に使う側にとって都合がいいだけでそれ以上の何物でもない。このタイプの人間が選ばれていく度に、組織の志気は毎回下がっていく。四つ目が、友達型。どういうわけか、その人間と一緒にいると自分の居場所があり、自由に発言できる機会が得られ、場が明るくなる。注目度からすれば一番目立たない。友達が4~5人いても、その人間が抜けると盛り上がりに欠けてしまうというタイプである。

 私は、友人型に注目していた。そういうタイプは、突出した面はないが、全体のバランスがよく、意外と幅広い交友関係がある。

 そこで一つの実験をしてみた。体育のサッカーの授業の中で、技術的にうまい連中を集めたチームと友達型をリーダーとしたチームに分けてゲームに取り組ませたことがあった。ハンディとしてうまい方は人数を減らしておいた。うまいチームには自由練習させ、ゲームに備えさせる。友達型には、授業の前に作戦や練習について相談し、リーダーを中心に練習と作戦に取り組ませた。3ヶ月後、友達型リーダーのチームは力をつけ、10連敗後に初の1勝をもぎ取り、その後5連勝するに至った。リーダーはそのままで、半分くらいメンバーをチェンジしたが技術力の低い友達型リーダーのチームは勝ち続けた。その原因を分析してみると、うまいチームの場合、個人主義であり、パスをあまり出そうとしない。自分のイメージと違うプレーをしたり、失敗すると罵倒が飛び交う。だんだんと全体の動きが小さくなってしまっていった。ところが友達型は、そもそも技術力が違うので勝てばしめたもの。勝敗より、どう戦うかを全員で共有し、ミスをしても次の反省に活かすという具合であった。何人かはその短い時間の中でサッカーの動き方についてコツを掴んでうまくなった者もおり、対照的であった。

<人間とは何か>

 人間とは、可能性を秘めたとても素晴らしい存在の生き物である。それが私の実感である。見た目や現在の地位や経済力では測れないものが非常に大きい。その可能性を最大限に発揮するためには、適切な環境を整えていくことが非常に重要であるということである。それは難しい専門的な知識に基づいたものではない。人間の自然な姿や特性にあったやり方をするということだと思う。

 節目を大切にし、場を整え清め、よきリーダーを立てていく。

 塾主、松下幸之助は適材適所という言葉を使われ、すべての人間がうまく生かされていくことで能力が発揮され、社会全体が生成発展していくと述べられた。素直に見れば、難しくない。とらわれのない、素直な心で人間を見続け、活かされていく社会を私は築きあげたい。

Back

寺岡勝治の論考

Thesis

Shoji Teraoka

寺岡勝治

第28期

寺岡 勝治

てらおか・しょうじ

一般社団法人学而会 代表理事

Mission

教育

プロフィールを見る
松下政経塾とは
About
松下政経塾とは、松下幸之助が設立した、
未来のリーダーを育成する公益財団法人です。
View More
塾生募集
Application
松下政経塾は、志を持つ未来のリーダーに
広く門戸を開いています。
View More
門