論考

Thesis

勤労から垣間見える「人づくり」という思想

日本には「人づくり」という思想があった。勤労という場において、とりわけそれが大切にされてきた。そこに日本人が持つ固有の人間観が垣間見える。しかし、現在、それは大きく変化してきている。個々人の幸福追求と国家の礎を為す人づくりとはいかにあるべきか。教育現場での実体験から考察する。

 海外と日本との違いで顕著に表れるのが仕事に対する考え方ではないだろうか。以前、アメリカ人と日本人の性質について議論したことがあり、彼らに「なぜ日本人は残業が好きなのか? なぜもっと家族との時間を大切にしないのか?」と質問された。私が「家に帰りたくないからだろう」と答えると、妙に納得してくれた。確かにそういう面が無きにしもあらずである。非常に忙しいというのも現実である。だが、仕事そのものに誇りを持ち、没頭しているからという理由もまた一面にある。

 政経塾で生活を1年共にした海外インターン生も、仕事を「できるならばしたくないこと」の一つとして挙げ、「働きたくないから苦しい勉強をし、休みが多く、給料の高い割のいい仕事に就くのだ」と、こともなげに語っていた。それが向こうでは普通である。仕事そのものに人生の意義があり、仕事を通して人間性が養われていくなどという発想はない。みんなで協力すれば早く済むような会議室の机のセッティングなど、係でなければ一切手伝おうとはしなかった。逆に係の時にはきちんとやろうとするのだが、我々が手伝おうとする行為に対して理解できなかったようだ。

<働くことの意義>

 私は定時制高校に勤務していた。昼間働いて夜勉強というスタイルが一般的に理解されているところである。しかし、昼間職に就いている者は6割程度であり、正社員はわずか1、2名であった。他の者は何をしているかというと、求職中か何もしていない人である。中学校の頃、不登校だった人。長期間に及ぶ引きこもりだった人。精神疾患を抱えている人もいた。

 その時感じていたのは、総じて働いている人の方が学習意欲も高く、規則正しい生活習慣が身についており、言葉遣いや身なりについても場をわきまえるという常識を持っており、人間形成にいい影響をもたらしているということだった。また、学習意欲が低く、きちんとした生活習慣が身についていない引きこもり気味の生徒でも、就業をきっかけに自信がつき、人格形成に非常に好影響がもたらされた場面を何度も目にする機会があった。

 そうした中で、なぜ学校で学習とは全く関係のない掃除や様々な行事が教育活動に盛り込まれているか、私はだんだんと理解できるようになってきた。お金を稼ぐかどうかにかかわらず、体を動かして何かを為し、人と協力するということそのものが人をつくり、また何かが創造されていく営みであることを日本人は知っていたからなのだと感じた。そういった意味で、労働は人づくりにとてもいい場なのである。

<人間の成長と役割>

 労働という形態から人づくりの思想へ至るその過程を、さらに詳しく教育実践の中で観察、指導してきた。その結果、私なりに以下のことに思い至った。それは社会的役割に組み込まれ、期待されて生きていくことが、人間形成にとって非常に大きく影響するということである。つまり労働とは人々にとって、生活の糧を得るということのみならず、学習の基礎をなす体験学習の役割を担っているのである。

 例えば、スーパーのレジでも飲食店の給仕でもお金のために働く。自身の功利的行為にもかかわらず、一生懸命やることでお客さんから感謝される。そういうことを経験していくうちに、だんだんと自分が社会と繋がり、役割を果たしているという自覚が生まれてくるのである。この感覚が非常に大切である。

 しかし現在の子どもたちは、高校卒業時まで、こういった感覚から隔離されてしまっているというのが現状である。勉強はするが、一体何のために学んでいるのかさっぱりわからない、浮遊感にも似た心理状態が続いている。それが無気力や引きこもり、ニートなどの要因に繋がっていると思われる。

 かつて、農村部の地域社会が残っているところでは、子どもは単純作業をこなしたり、片づけをしたり、知らせを伝えたり、お祭りにおいて何かしら象徴的な役割を担っていた。大人になると、男衆は生産性の高いものや力が必要とされるもの、女性は食事の世話や下支えを行い、老人は重要な判断や知恵袋として位置づけられた。小さい頃から老若男女を問わず、それぞれの年齢や性別などで社会的役割が期待されており、また自分以外の他者が期待されている役割をも知ることができていた。社会が見通せていたのである。

 しかし現在のように、全ての人が法律を理解し、経済的に自立し、良識ある判断を持って行動しうるというパーフェクトな人間であることを期待されている状況では、却って個々人の社会的役割というのは、見通しにくくなっているのではないだろうか。パーフェクトな人間という社会的期待は、観念から生み出された虚像であり、現実には一人としていない。あまりにも生活実態から乖離しすぎているし、能力的な面から全ての人間に期待することは現実的に不可能である。

 そういった意味で仕事というものには、明示されるか否かはともかく、期待されている役割が必ず存在する。仕事をやり始めたことをきっかけに、他人から期待されているという自分の存在に多くの者ははじめて気付くのである。それは生きがいを超えた生の承認ともいえるくらいの大きな意義である。何かがそこで期待され、それをやりきることで結果がもたらされ、貢献できる。こういうことをかつて多くの日本人が経験的に知っており、伝承し続けてきたのだと私は感じる。

 この、日本人的特徴を持った労働は、民族のアイデンティティに関わる重要なポイントではなかろうか。つまり、日本人にとって労働とは、思想であり、幸福感であり、人生そのものである。しがたって、経済的観点から過度に流動化させたり、政治的観点から治安や集票目的に雇用安定政策を打つといったレベルで捉えられるべきものではないということを自覚する必要がある。日本人は働くという営みから、日々の糧を得てきたとともに、人づくりという思想をも育んできたのである。

<時代の転換期>

 しかし、ここにきてその思想は消え失せようとしている。なぜならば「時代」が変わったからである。この時代とは三つの側面がある。一つは若者側の勤労意識の低下。二つ目は企業側の労働・雇用に対する考え方の変化である。三つ目は、国・教育の方針の変化である。

 若者に勤労意識が乏しくなってきた。それは事実としてある。「働きたくない」という若者がフリーターという形で社会に浮遊していることが一時期注目されたことがあった。ニートという現象も相当広がりを見せている。一説によると、大卒の2割がそうだという。私が教員をやっていた頃、近隣の職業高校では卒業時1割が進路未定だった。ちなみに定時制高校では、私が勤めていた県下で調査した結果は4.1%だった。この結果をみると、職業の選択幅が広いと思われる層ほどニート率が高い。しがたって「働きたくない」という意思が反映されているように見受けられる。しかし、私の実感ではそうではない。高学歴の学生ほど、アルバイト経験が乏しかったり家庭での労働が免除されていたり、地域社会から隔離されていたりすることが多い。本来期待されていたはずの社会的役割を、勉強ができてしまったがゆえに免除され続けてしまった。つまり、本来形成されていくべきはずの社会性が育たず、社会に参画していくことで個人が生かされているという感覚が養われていないということが、この数字に表れていると考えられる。良かれと思ってやってきた親心の結果だとも言える。

 他方、企業側の労働者に対する見方が変わってきた。人を育てるという見方から、人を調達するという見方にである。調達するという扱い方は、特に低学歴者層に対して顕著である。低学歴の人たちは、派遣、非正規雇用といった形態に構造的に押し込められている。その構造とは、流動化させ、新規に雇い入れる方が、特定の人間を長期雇用するよりも労働賃金を抑えられるという経営者側の都合である。これは特定の企業の経営姿勢といた問題ではなく、80年代中頃に、国際競争力に耐えうる産業形態を形成するために経済界と政界が協力して移行させてきたものである。しかし、そこで働く労働者は悲惨で、時給数十円を上げるのに2、3年掛り、その頃に契約を打ち切られ、運よく別の仕事を得ることができたとしても、技能も経験も賃金も蓄積されることはない。勤労意欲なるものが醸成されない構造を時代が選択しているのである。

 このような構造改革の一端が教育政策である。80年代半ばから謳われだした「ゆとり教育」の狙いの一つには、自己選択型の二極化社会があった。頑張りたい者はがんばる。頑張りたくない者は頑張らなくてよし。その代わり、それなりの社会的結果を受け入れなさいというものである。教科書はパンフレットのように薄くなり、これまでのように学校に行ってちゃんと勉強すればわかるというような内容を義務教育は提供しなくなった。お金を払って補わなければ、これまでの水準を維持できなくなっている。今、塾をはじめとする教育産業は非常に盛んである。森永卓郎氏が唱えていた年収300万円の家庭は、現在いい方で、それ以下がざらである現状に鑑みると、より、格差が広がっていく。「平成の好景気」と呼ばれた全く実感の湧かない好景気は、彼らが本来取得するはずだった賃金が、企業や株主側に移譲されているというのがそのからくりであった。これは意図されたデザインだった。教育について言えば、学力低下は政策として自らの意志で低賃金労働階層を作り出すことができ、好景気に導くことができたという点において「成功」だったと言える。

 しかし、その成功は目先の経済的成功ではなかろうか。労働は日本人としての民族性、アイデンティティの中核をなすべきものであり、「時代」などという流行に左右されるべきものではないと私は考える。この方向での国づくりはやがて、国家を崩壊させてしまう危機に追いやってしまうのではないか。「人づくり」「物づくり」を社会のためにと唱えていた松下幸之助はじめとする、かつての日本人経営者たちの思想を今一度振り返るべき時に差し掛かっていると思う。

<人間観に基づいた国家の在り方>

 現在、期待されている人づくりとは「経済人」のことを指していると思われる。「経済人」は儲ければいい。明確である。しかしそれが社会的役割を担っているかどうかは全く関係ない。むしろ社会的役割などというまどろっこしいものを切り捨てて、金儲けに専念した方が得られる報酬が大きい。株式や金融商品の投機やレアメタル、エネルギー資源の売買など扱うものは何だってかまわない。巨額の富を掴んだ者が勝ちである。つまり、こういう人間がたくさんいることが国益にかなった理想的な国家の在り方であると考えられている。

 これは一見、素晴らしいことだが、社会全体として見た場合に、産業は経済的に割の合うものへと偏重し、社会的役割を担うべき必要なところに人材は不足し、社会そのものが機能停止してしまう。例えば近年、医師不足の問題があるが、不足しているのは医師ばかりではない。官僚や法律家、研究者といった高度な知識と技術を持った人材が、金融商品を扱う外資系企業に流出しているとのことである。理由は簡単で、その業界では30歳にもなれば1億円以上稼ぐものが多数輩出されており、メーカーの役員以上の報酬を得ることができるからである。自らの価値基準はすべてお金で測られているのである。だから、そこら中人がいなくなっているのである。

 しかし現在、経済人として生きることを是としてきた人づくり、国づくりがここにきて自己破綻しようとしている。社会に存在する職業はすべて社会的に必要である。報酬の大小に関わらず、誰かがその役割を担わなければならない。もっと言うならば、報酬がなくても家庭や地域活動などの仕事は社会全体を構成していく上でかけがえのないものなのである。我々が本当にやらなければならないのは、自らの幸福、利益を追求する経済人ではなく、社会的役割を自覚して生きる、「社会人」たる人間を創っていくことなのである。

 松下幸之助は戦前から社訓として「産業人たる使命」という社会的意義を唱え続けて経営をしてきた。これが日本人の生き方であり、繁栄の在り方の原点であり、そして人づくりの思想そのものなのである。

 「人づくり」が今後の日本の中心戦略であることは間違いない。異論はないだろう。しかし、その想定されている「人」が経済人なのか社会人なのか。経済的観点から、社会的観点というものに比重を移していくべきではなかろうか。そこからはじめて「お互い様」という心や「ありがたい」という感謝の気持ちが生み出されていく。役に立つ、貢献できる、感謝される、人と人とが繋がっていくという小さな実感を得ることが人をつくり、国をつくることに繋がっていく。

 勤労における人づくりという思想を今、打ち立てる必要がある。

<参考文献>

・『教育改革と新自由主義』 斎藤貴男 寺子屋新書 2004年
・『人間を考える』 松下幸之助 PHP文庫 1995年
・『実践経営哲学』 松下幸之助 PHP文庫 2001年

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寺岡勝治の論考

Thesis

Shoji Teraoka

寺岡勝治

第28期

寺岡 勝治

てらおか・しょうじ

一般社団法人学而会 代表理事

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