Thesis
今、自由が暴走している。戦後、日本に輸入されたこの概念は、瞬く間に浸透し、今や当然の権利だという風である。個人だけではない。政治経済という大きな体系が自由の毒牙にかかっている。自由をどう扱うべきか?普遍的な人類の権利としてこれをとどめ続けるべきなのか?
2005年の小泉純一郎元首相の「郵政解散」。結果は歴史的圧勝であった。しかし、この時の支持層は、低所得者の若者層だったと言われている。彼らは決して、その政治的政策によって利益を得ることができない。それどころか、小泉改革は彼らの生活基盤をも崩しかねないものであった。投票行動は、利害的動機からよく分からない空気みないたものに動かされる傾向になってきた。
経済も同様である。サブプライムローンに端を発した金融危機。実体の商取引の需給に関連しない過度な投機が行われた。その運用資産額は一国の国家財政をはるかに上回るほどの額に膨れ上がっており、まさにマネーゲームの様相を呈している。
本来ならば社会活動を安定化させ、不確定的要素をできるだけ取り除き、安心して生活し、安心して働ける環境を整えていくべき根幹であるはずの政治と経済に異変が起きている。敢えて言うならば、世界規模で暴走し始めている。
ここで考えてみたいのは、20世紀の反省は生かされているのか? ということである。20世紀初頭、世界の民主主義は、大衆化していった。近代資本主義により莫大な富を得たものと、そうでない貧困層の問題がマスメディアの発達などによって知らされたことによって、大衆の政治への参画へと繋がり、大衆の参政は富の再分配への要求の強まりでもあった。このような過度な国家への依存が、全体主義、世界大戦と導いてしまった。また、経済においても商取引が市場経済、貨幣経済と流動化を増し、投機へと駆り立てられ、実態経済にも食い込み、1929年の世界恐慌へと至った。こういった歴史的事実への反省を元に、それ以降の世界は、国家の独立、国際協調、計画経済、社会主義体制、規制、計画、管理、様々な協定、相互依存といった形で暴走する自由に箍をはめてきた。
ではなぜ21世紀の今日、「20世紀の反省」から逆行するような「自由の暴走」とも言うべき、民主主義の全体主義化や経済のマネーゲーム化を助長させるような動きがみられるのであろうか? この問いに対して私は、次のように考察を進めてみたい。まず、新自由主義とは一体何か? 次に、政治経済における自由は今後、どのような方向に進んでいこうとしているのか? そして、自由はこれまでのように希求され続けるべきなのか? そして最後に、日本の本来的な在り方について。
新自由主義とは、経済学者ハイエクの自由論を下敷きにした思想である。80年代の英国サッチャーや、米国レーガン。そして日本では中曽根康弘といった政治リーダーたちによって実現化されていった。これらはいずれも約20年前の取り組みだが、基本的には現在もこれに基づいた改革が進行中である。「官から民へ」という小泉純一郎元首相のフレーズが、その思想をイメージとしてとらえやすい言葉として我々にはなじみがある。国営企業の民営化やPFI、指定管理者制度など、行政改革と言われているものの全てがこれに基づいている。経済においても金融ビックバンといった金融や保険、証券などを規制緩和し、自由化させ、新規参入を促す動きが起こり、また、世界規模で資金が集められるようグローバルな観点から国際会計が改められていった。さらにインターネットの普及により、自由化のスピードは加速化し、距離と飛び越し国境を越え、取扱額も考えられないくらい膨らんでいった。
ケインズ革命以降、公共事業などによる景気対策が行われ、例えばイギリスなどでは過度な社会福祉制度などが繰り返し実施され続けてきた結果、経済の自由度が制限され、また国家への依存心が強くなってしまったために、国家がなすべきことが過大になりすぎた。それゆえに、経済・産業に活力が失われ、グローバル化し、かつ加速し続ける世界の発展から取り残されてしまうという危機感が出はじめてきた。個々人のレベルで見れば自由は拡大し、習慣やしきたりといったものから人々は解放されていったが、一方、政治経済といった実社会に大きな影響を及ぼすシステムは行き詰まりをみせていた。
こういう現象をいかに打開していくか?という問いに対して注目され始めたのが新自由主義である。といっても新しい思想ではなく、その原型は経済学者ハイエクによるものであり、彼がこれを提唱したのは第一次世界大戦後、ケインズと時期を同じくした時代である。ケインズの計画経済はやがて破綻をきたすことを論敵として指摘し続けたのがハイエクである。
ハイエクがイメージした社会について、簡単にまとめると次のようなものである。複雑化・多様化した社会においてより重要になってくるものが、形式化され得ない知識・技能・経験のようなものである。それは社会に散逸している。政治的権力によって集積させたり、計画によって生み出されていくことはできない。それが最も効率よくできるものが市場である。市場によって価値が付与されることによって、散逸する有能な人や物や情報が集積され、社会発展のために寄与することができるというものである。そして彼は、自由についても触れ、ファシズム、社会主義、そして民主主義についても、これらはやがて自由を瓦解させてしまう元凶であるという危惧を示し続けていた。ここに民主主義も挙げているのは興味深いところで、民主主義が自由の手段であることを忘れ、それ自体が目的化されてしまったときに全体主義に陥るというのが彼の見方であった。
端的に言うと、アダム・スミスが考えていた「見えざる手」によって導かれるという古典的自由主義こそが、ハイエクが考えていた自由主義であり、ケインズ革命以後、復活したものが新自由主義である。ハイエクは、単なる束縛からの解放による自由放任は自由を瓦解させると指摘している。単なる解放ではなく、自由としての体系(システム)を整えていくことこそが重要であるとしている。つまり、自由経済を中軸として、民主主義なり政治、行政機関が補足的に存在すべきであるとしている。ハイエクの指摘は、現在、世界が抱えている諸問題を的確に言い当てていると見られている。そこで彼の理論を元に今、世界の基幹システムが組み立てられようとしているのである。
ハイエクが言う「自由の体系化」が具現化され始めている。日本でいえば中曽根康弘元総理の時代以降である。それから20年以上たっている現在、それは歴史的評価されるべき時期に差し掛かっていると言える。私個人の見解としては、その構想は成功し、かつ失敗したと思う。それが思い描いていたように市場化自由化は進められ、経済へのグローバル化への対策について一定の成果を収めることができた。しかし、一方で産業力の根幹である人材は、量、質ともに低下しつづけているからである。
平成の好景気といわれる不思議な好景気。非正規雇用者の増加によって増加し続ける労働コストの削減に成功し、それにより大企業と呼ばれる企業は利益を得続けることができた。しかし、その一方で切り捨てられる非正規雇用者。自由が拡散していく一方で先行きが見通せなくなり、逆に監視・管理体制が強化されていく。自由競争が活発化していく一方で、ニートや引きこもりといった競争に乗ろうとしないものが増加していく。自由で巨万の富を獲得できるのはほんの一握りの人間だけであって、多くは負け組に甘んじるようなルールになっている。勝てる見通しが立たない人は、その「ゲーム」から離脱するのが普通の感覚であろう。自由こそが社会を生成発展に導くということは「虚妄」であることに多くの人は気がつき始めている。
気が付いていないのは、勝ち組である為政者だけかもしれない。彼らは未だに「自由の体系化」へと人々を導こうとしている。そこにはある恣意が込められている、ルールを作る側、システムをつくる側の人間が損をしないようにという。オリンピックのルールが、日本が金メダルを獲得するたびに西洋に有利になるよう書き換えられ続けるように。勉強ができる人は勉強ができる人が有利になるように。商売がうまい人は商売がうまい人が有利になるように、スポーツが得意な人はスポーツ、芸術が得意な人は芸術が得意な人が有利になるようにデザインするのである。
つまり、当事者たちはこの体系化や政策に高い関心を示すが、多くの人々にとってはまったくどうでもいいことになっているということである。自分たちの意思が反映されなかったり、意図とは全く異なる形で意図が利用されたりすると「もうどうでいいや」という雰囲気にならざるを得ない。せいぜい失望している大衆に対して、うまくマスコミを刺激できた政党が政権を取れるくらいのものだろう。しかし、それによって大衆がその政党に何かを期待しているというわけでもない。投票行動も、劇画化した政治をインターネットの懸賞を当てる程度の感覚で参加するという「なんとなくさ」に落ちてしまっている。
アダム・スミスは『感情道徳論』において、社会のシステムを形成する側の人間をチェスのプレーヤーとして、構成員(市民)をチェスの駒として次のように述べている。
「(体系の人)自分は、一つの大きな社会の様々な成員を、手がチェス盤のうえの様々な駒を配置するのと同じく容易に配置できると想像しているように思われる。(中略)単一の駒が、立法府がそれに押し付けたいと思うかもしれないのとまったく違った、それ自身の運動原理を持つということを全く考慮しなのである。もしそれらの原理が一致し、同じ方向に働くならば、人間社会の競技は、容易に調和的に進行するであろうし、幸福で成功したものである可能性が強い。もしそれらが、対立または相違するならば、競技は惨めに進行するであろうし、社会は常に、最高の無秩序の中にあるに違いない。」
西洋の歴史を振り返ってみると、その思想史は自由への希求が中核として彩られている。20世紀初頭の暴走への反省があったものの、20世紀の後半から今世紀にかけて、自由への希求という歴史的課題が復活してきている。この度の金融危機に際して自由放任とも言える秩序崩壊への反省がどれほどあるのだろうか。
これから先、自由への希求は、ごく一部の人だけによって、非常に多くの犠牲と高いコストをかけて求め続けられていくであろうと予想する。つまり、経済的利益が得られ続けられる限り、チェスのプレーヤーはそれに徹し続けるであろうし、駒は駒に徹するように振る舞う。一度それが得られなくなった時、社会は無秩序化するということである。このまま社会が自由の是非を検証することなく希求し続け、政治経済の在り方、思想を生成発展させてきた行く末は、中世社会のような固定化された格差社会に逆戻りしていくのではないだろうか。それが我々に課せられた定めなのか。それでも「自由への希求」は今後もリアリティーを持って希求され続けるのであろうか。
鈴木大拙は「自由など存在しない」と言い切っている。もともと東洋思想の中に、西洋的意味における自由という概念は存在しないという。何かの束縛から逃れられる状態はあり得ないということだと思われる。しかし、私はこの見解にはいささか違和感を抱いている。なぜならば、おおむね日本では、人々の自由がある程度許されてきたと思うからである。誤解を承知で言うならば、成熟した自由社会が形成されていたと思われるからである。
そう感じる理由を挙げると、一つには、日本史の中では、自由への闘争といった史実が少ないことである。律令制以降、農地への拘束があった。しかし、日本の場合、「山」というものがアジール(権力の及ばない解放区)として機能していたということである。歴史をみると税金が納められなかったり、飢饉が襲ってきたりすると住んでいた土地を捨てて逃げていたと記されている。どこに逃げたかと言えば「山」である。「山」では稗や粟などの雑穀が非常食として栽培されていたようであり、また木の実や湧水、動物性タンパク質が確保できた。「山」は一種、信仰の対象とされ、私有地化されることがなかったようである。権力が確立された江戸時代においても、多くの藩が「山」を薪や建築資材、水源地、つまり財産区として立ち入り禁止していたようだが、飢饉が起きたときには「山」への立ち入りを解禁していた。
二つ目には、権威・権限の分離である。例えば平安時代、天皇と摂関政治、江戸時代の天皇と幕府といったように権威・権限を分離したことによって絶対者の存在による、絶対的支配というものがなかった。また賤民と呼ばれた人々は天皇の権威を背景に、その職種や職益を庇護され、その見返りとして上納するという持ちつ持たれつの関係性だったようである。江戸時代にはそのようなものが制度として組み込まれ、特に、政治と経済、つまり権力と富が一極集中しないようになされていた。階級や序列というよりも「身分」という職能分類をすることによって、それぞれの縄張り、権益を荒らさず、尊重しあう社会だったとも言える。ちなみに奥さんが財布を握っているという文化はこの名残だと思われる。諸外国では考えられない風習だそうだ。
最後に宗教である。民族宗教であった古代神道と外来宗教である仏教が融合し、風土に反した思想を無理やり受け入れなければならないという状況になかったことなどである。江戸時代には一神教であるキリスト教を排除することで、その柔らかな関係性を維持できたと思われる。特に、言語によらないアニミズム的な神道と仏教の禅が、天皇や武士といった権力側に置かれていたことは非常に影響が大きいと思われる。解釈によって思想や行動が縛られることなく、社会が秩序立たれる最低限の型のみによって行動が規制され、精神の自由は保たれ続けてきたという点である。
しかし、現代の日本は、戦後、西洋的な自由思想が入ってきたことによって、社会が秩序立てられていた最低限の型から解放されることを欲し、全てのたがが外れ、決壊したのではないだろうか。
自由への希求とは、人類普遍の永遠の権利だということではないということである。あくまでも西洋の歴史文化を背景にしたものではないだろうか。グローバル化した西洋文明において自由への希求は暴走し、誰にも止められず、それを代替えできる思想がなく、まさしく世界は混迷状態である。しかし、今一度我々は日本の歴史文化に立ち返ることで、その打開策が見いだせると思う。自由・平等という西洋的な観念を見直し、東洋的日本的な「お互い」の生存を認め、活かし合うという多様性が許されてきた社会こそが成熟した自由であり、これからの世界に必要な思想だと私は考える。
世界は日本の伝統文化に学びなおす時期に来ている。
<参考文献>
・『国富論』 アダム・スミス 岩波文庫 2001年
・『道徳感情論』 アダム・スミス 岩波文庫 2003年
・『海と列島の中世』 網野善彦 講談社学術文庫 2003年
・『人口から読む日本の歴史』 鬼頭宏 講談社学術文庫 2000年
・『新編東洋的な見方』 鈴木大拙著 岩波文庫 1997年
・『隷従への道-全体主義と自由-』 F・A・ハイエク著 1992年 東京創元社
・『市場・知識・自由-自由主義の経済思想-』 F・A・ハイエク著 1986年 ミネルバ書房
・『理解しやすい倫理』 藤田正勝著編 文英堂 2006年
・『市場社会の思想史』 間宮陽介著 中公新書 1999年
・『ケインズとハイエク<自由>の変容』 間宮陽介著 ちくま学芸文庫 2006年
・『変貌する民主主義』 森 政稔著 ちくま新書 2008年
・『日本文明とは何か―パクス・ヤポニカの可能性』 山折哲雄著 角川叢書 2004年
・『希望格差社会』 山田昌弘著 筑摩書房 2004年
Thesis
Shoji Teraoka
第28期
てらおか・しょうじ
一般社団法人学而会 代表理事
Mission
教育