論考

Thesis

21世紀の教育論~体験的教育論~

世界で最も健康で美味しい料理は、和食だという。日本人は、難しい理論や知識を使うことなく、そのすばらしい文化を創造し、継承してきた。教育も同様である。私は教師としての現場経験から、最も素晴しい人づくりのあり方は日本文化にあると確信している。21世紀の教育はこの事実に向き合うことからはじめるべきである。

<問題提起>

 日本の教育は危機的状況にある。その第一に、人間観の欠如である。教育問題の主体が子ども自身に向けられているのではなく、子どもを題材とした「大人」自身の問題にすり替えられてしまっているという点である。教育実践や教育行政のあり方が、「誰」のために行おうとしているのかについて、疑問を感じる。親が悪い、学校の対応に問題がある、いや文科省の方針だ、マスコミだと。これらは確かに子どもの成長に重要な要素となりうるが、教育問題の中核に置くべき問題ではない。しかし、そういった問題に目先が向けられたら皆、異口同音に「うちはちゃんとやっています」と答えるのである。今、本当に必要なのは、「教育問題が誰の問題なのか?」という大人の事情に決着をつけることではなく、次世代の子どもたちに、何を我々は託さなければならないのかという根本的な問いかけに対して、「社会全体で何ができるのか?」について考え、その答えに基づいて社会全体で協力していくことが大切なのではないかと感じている。誰の子ではない。コンビニの前にたむろしている茶髪の彼も、ミニスカートで街をうろつくコギャルも、やがて親になり、次世代の形成者になっていくのである。大人の事情が彼らを生み出したということを、まず自覚することから全ては始まるのである。

 第二に、国家観の欠如である。教育が本当に取り組まなければならい課題とは、子どもたちが20年後30年後に、どのような社会の形成者になっていってくれるかということであり、また、グローバル化する国際社会の中で、どのように生き抜いていく力を身につけるかということなのである。それは、いじめ・不登校・ニート・学級崩壊などといった諸問題を解決しつつ、常に心がけていくべきものであると考える。あまた、教育の在り方が議論されているが、特に現場に近づけば近づくほど、長期的かつグローバルな視点が欠落していく。そうなると、個別的事例であったり専門性が高すぎたりといった具合で、「当事者」だけしか、教育を考えるコニュニティに入っていけない。しかし、教育は今、教育を受けている子どもやその親だけのために存在するのではなく、国民や社会全体の期待とその合意を元に、国家予算を使い、またその成果を享受し、教育の質そのものが、国の質となってあらわれてくるものである。したがって、「国民が本当に教育に求めたい共通の思いとは何か?」それをしっかりと認識しなければ、国家としての教育の方向性を示すことができない。日本には教育の国家ビジョンがない。

<教育現場で感じていたこと>

 私は13年間、高校教員として現場でその問題を目の当たりにしてきた。そこで率直に感じたことは、社会から、いや世界から質の高い教育が期待されているのに、教育は目先の問題や成果にだけ目を奪われすぎて、却って問題を複雑化しすぎてしまっているということなのである。つまり、時代が進めば進むほどその溝は大きく開き、とりわけ公教育なるものは、ほとんど役に立たない制度と化してしまうだろうというのが私の見方である。

 そもそも人間とは不完全な存在である。教育は、不完全ながらも、子どもたちを社会に貢献できる程度まで成長させていくという営みなのである。たとえば、いじめや引きこもりといった最近の教育問題など考えてみても、それは会社にだってあるし、むしろそっちの方がひどい場合もある。では、「いじめがそのまま放置されていていいのか?」という反論がでてきそうだが、そうではない。人間には必ずと言っていいほど、醜い本性を隠し持っているものである。「あってはならない」と言って、事実を隠ぺいする現在の在り方は、むしろ不健全である。あるものはあるとして、これがどれだけ人を肉体的にも精神的にも追い詰めることになってしまうのか、人間としての尊厳を奪うことになるのかということを正面切って指導し続けていく、考えさせていく、改善させていくというプロセスそのものが実は本当の教育ではなかろうか。

 「あってはならない」問題が、どれくらい学校で認知されているのかという調査票が何度も回ってきていたが、私の学校のみならず、多くの学校が「0」という報告をしていた。だから学校として対処しない。校長や教頭は動かない。経験不足の若い教師が苦しみ、そしていじめられている子どもは心身ともに追い詰められていくのである。人間としての弱さ、未熟さというものを前提としなければ、そもそも教育など必要ないであろう。そういう当たり前の人間観に立ち、「あるもの」として向き合い、改善していけばいいのである。そうすれば、学校のみならず保護者や地域などの協力も得られ、却って問題が早急に解決できるケースは相当数ある。つまり、協力することである。誰かが責任を負い、一人で解決するなど限界がある。そういう態度こそが、本当の知恵ではなかろうか。協力すれば、必ず策が見つかる。

 国家観に基づいた教育が必要ということに関して、敢えて論を立てなければならないということが、今の日本の現実である。教育は個人か享受するものであり、国家のために学ぶのではないということが公然と認知されている。日本国憲法や教育基本法新旧を読み返してみると、「社会の形成者」という言葉が盛り込まれている。国家という言葉は見当たらない。しかし、そこを敢えて国家と読み替える必要が今後あると私は考える。教育のその認識を国民に知らせるためにも、教育を持ってそれを行うべきだと考える。

 先の戦争により、教育分野はとりわけ国家が介入することが全体主義に繋がり、戦争に導いたという反省から、教育と国家を全く切り離そうという考え方があり、その考え方は、非常に大きな思想的影響を与えている。しかし、そんな悠長なことを言っている状態に日本は置かれていないということを、認識しなければならない。日本は、終戦から今日に至るまで、主権が侵害されている国家である。国家とは、領土、国民、主権の三つが備わっていることを要件とする。その主権が侵害されているのである。主権のみならず、領土や国民の安全も守ることすらできない状態が続いている。主権とはわかりやすく言えば、国家が自分たちのことは自分たちで決める権利を持ち、それを行使するということである。たとえば最近の「食糧事故」などについて述べるならば、危険性がある輸入品ならば、輸入をストップすれば良い。しかし、それは主権のない日本にはそんなことは言えないのである。現状を言うならば、「何を食べて良いかを判断するのは各人で」ということなのだろう。しかし、国内製品は相当な厳しい品質管理の元、製造されている。もし、「各人で」などと国が国民に預けてしまったら、日本の食品メーカーもコストのかかる品質管理などせずに出荷していいことになってしまう。そうなると、どれだけ混乱を引き起こしてしまうのだろうか。

 そういった例一つとっても、国家は矛盾した状況を世界各国から突き付けられてきている。しかし、ほとんどの国民はそういう実態を知らない。新聞記事を読める程度の学力は備わっているはずだが。「そら、えらいこっちゃ~」でおしまいになってしまっているのである。国家というものが、外交的な立場でどのような権限を持っているのか、世界ではどのような課題に直面しているのだろうか、ということに対して関心を持ち、政治や外交について考える人物を育ててく必要がある。さもなければ、主権の侵害はより一層深刻化を増していくと考えられるのである。「国家」アレルギーから早く脱出し、国際問題の本質について知るということを、次世代に期待しなければならない重要課題なのである。

<考察>

 政経塾に入り、いくつかの教育実践や成功事例を見る機会を得たが、改めて感じることは、日本の教育あるいは人づくりの方法は、歴史の中での積み上げがなされており、今起こっている諸問題はたいてい解決できる術をすでに持っているということである。ここに、その方法の三つのポイントを挙げておく。

 第一に、周囲の人間がごく普通の人間観を共有しているということ。
 第二に、掃除が行き届き、整理整頓がなされている落ち着いた環境が整っていること。
 第三に、創造性・自主性が見られ、それらが伝承されていること。

 これらのポイントを一言で言い表すならば、「道」という学びであると感じる。茶道、剣道、書道など日本人は何かを学ぶ際に、「道」という学び方をする文化を持っていた。それは現在でも幸いにも受け継がれ、一部の伝統武芸に生き残っている。一見古めかしく、硬直的な人間観に基づいたものと思うかもしれない。しかしそれは、しなやかでかつ応用力を持った人間力の形成に繋がっていくのである。

 私自身の経験を振り返ってみると、13年間のうち、最初は指導経験も浅かったこともあり、私が受け持つクラスはいつも問題だらけであった。しかし、怠けていたというわけではなく、自分で言うのも変だが、相当な努力家であり研究家であった。指導についても一人ひとりの気持ちに寄り添い、一人ひとりの個性を大切にするという方法を心がけていた。しかし、定時制高校赴任した時、そんな方法は何の役にも立たないことを痛感し、試行錯誤の結果、先に挙げた三つのポイントを実践することになったのである。結果的には5年ほどで、半分いた退学者は2割以下に減り、ほとんどがフリーターかニートだった進路先が、ほぼ全員が正社員か専門学校、四年制大学へ進学するまでに変化したのである。

 我々は、「新しい」ものがまことしやかに「真」であるような錯覚に陥っている。そして、子どものためにと思いながら、実は「大人の都合」で子ども像を勝手に捉えてしまっている。その方が、「子どものためを思っている人」と周囲から思ってもらえるからである。それがいつの間にが、正当性のある「評価」として認知されるようになり、平成19年度からは学校のシステムとして実施されるに至っている。

 常に進歩し続けるということが前提の進歩主義。誰かが責任を持たなければならない個人主義。これらは、人間の理性こそが絶対だと考える近代主義思想の一面である。この思想は、グローバル化する世界にあって、より、幅を利かせるものとなっている。しかし、それが囚われとなり、却って事の真相を見失ってしまっているように感じる。

 それとは対極に、日本の思想である「道」は、もともと「禅」から端を発しており、理性で物事を理解するのではなく、感性によって全体を知るということに重きを置かれている。これは学ぶ姿勢としても、日常的に必要な学び方ではなかろうか。

 仕事に就いて、一から十まで教わることなどまずない。皆、忙しいから見よう見まねで学ぶのが普通である。しかし、学校では先生が丁寧に教えてくれる。丁寧で分かりにくい人は、先生側の評価が低くなる。それに慣れた状態で社会に出れば、困惑するのは当然だろう。大抵、人は説明が下手であるのが常である。その中から、真意や必要なポイントをいかにつかめるかが本当の力なのである。今の若者はそういった環境にない。マニュアル本がなければ学ぶことができないでは、グローバルな視点で活躍することなどままならない。本当はそういった場面をしっかり念頭に置きながら、「教え方が上手な先生」ばかりが良いわけではないという当たり前のことを、踏まえておかなければならない。こういう方法を意図するかしないか、認めるか認めないかは、国に教育の国家ビジョンがあるかどうかにかかっているのである。

<「道」という学び>

 ここで先ほどのポイントを解説する。

「第一に、周囲の人間がごく普通の人間観を共有しているということ。」

人間には良い面と悪い面、強い面と弱い面があるということである。どんなに立派だと思う人でも、環境や状況が変化することで戸惑い、冷静さを失うものである。また一方で、一見すると反社会的行動をするものが慈しみの心を持っていたり、家族愛が強かったり、約束は必ず守ったりする場合がある。つまり、見た目では分からないし、全ての人間が多面性を持っているという人間観を、今一度共有しておく必要がある。良い面が引き出されるか、悪い面が引き出されるかは、本人の努力や日々の心がけということもあろうが、とりわけ子供に関していうならば、それは周囲の大人のその子どもの見方というものが非常に大きな影響を与えるのである。

 そういう観点からすると、最近の大人たちは、子どもに対して腫物を触るように接することが多い。かくいう私自身もそうであった。定時制に勤務し始めた頃の自分は、彼らのことを「可哀そうな人々」であって、自分には到底、理解が及ばないほどの不幸を背おっているのだと感じていた。心理の専門家でない私が無理やり彼らの心の領域に入っていこうとするならば、大きく傷つき、再生不可能となるのではとびくびくしていたことを思い出す。しかし、そういう風に扱われる彼らはどういう風に感じているのだろうか。それはたとえるならば、山から降りてきた鬼のような感覚なのである。村人たちは、興奮状態に陥らないよう、当たらず障らず、何事もないようにふるまおうとしている。しかし鬼に向けられた恐怖心は、見え見えなのである。見え見えの恐怖心が彼らを、さらに鬼へと変えてしまうという不幸な悪循環に追い込んでしまうのである。彼らの異様な風貌は、コンクリートとネオンと大人の欲望に適応した姿。しかし、その中身はまだ子どもであり、純粋さや未熟さを持っている少年なのである。

 つまり、悪者や弱者は作られるという一面がある。逆に周囲の人間の見方次第で相当違ったものになるということである。教育の原点であり、相当大きなウェートを占めるのが、どんな人間観を持つかということなのである。

「第二に、掃除が行き届き、整理整頓がなされている落ち着いた環境が整っていること。」

 経験的に、荒れているクラスは教室が汚い。逆に落ち着いているクラスは、教室がきれいなのである。もっと言うと家庭訪問などすると、お宅の様子がよくわかる。雑然としている家は、泥棒に入られたり、家族のトラブルや問題が日々頻発していたりする。整然としているお宅の場合、そういったトラブルが少なく、子どもの一時的な失敗があったとしても、またしっかりと揺り戻していく力を持っていると感じることが多々あった。そういったこともあり、私は道徳や人生論よりも、環境を整えるということが人間形成をしていく上で非常に重要であり、基礎的な要因であるということを感じている。

 これも人間観に通じる部分であるが、どんな人でも新しいノートを使い始める時には「今度はきちんと使おう」「今度はこういう使い方をしよう」と気持ち新たになるのではないだろうか。とりわけ子どもたちは、純粋にそう思っている。しかし時がたつと、ノートを忘れたり、欠席があったり、板書を取りそこなったり、文字がだんだん乱れたりと使い方がどんどん悪くなっていく。定時制に来ている子どもたちは、義務教育の9年間、それの繰り返しにより「自己嫌悪」に陥ってしまっている。たわいもないと思われるかもしれないが、とても重要なのである。

 それに気がついて、まずはプリント類がきちんと管理できることを学校をあげて取り組んだ。片付けられない子どもは、紙をきれいに半分に折ることができない不器用な者が驚くほど多い。片付けないのは、不器用さを隠すために「忙しい」「時間がない」と言っているケースが多い。だから時間を十分とってあげ、きちんと毎回紙を折り、ファイリングすることを見届けていく。それができるとテスト前に勉強する資料が整い、そこからテスト前に勉強する雰囲気が学校全体に広がっていったのである。そういった実践から、黒板をきれいにする、机を縦横きちんと整える、履物をきちんと揃える、掃除をする、という風に改善を進めていった。

 フローレンス・ナイチンゲールは『看護覚え書』の中で、「良い環境が、生命力を引き出す」と述べている。翻って、日本はもともとそういうことを非常に心がけてきた民族だと思う。家の中だけに限らず、庭もそうである。公共の場である道や職場、学校の美化に心がけてきた。また、あの美しい里山の田園風景は、単なる農業としての機能性を追求したばかりだけではなく、周囲の山々に応じた樹木を植えたり、四季折々を彩る植物をあぜ道に植えたりということを意図的にしていたのではないだろうか。山や森に関しても同じである。常に人間の手が入っていくことで、美しさと機能性が保たれ続けてきたように感じる。

 手を入れることで、そこに気持ちが常に向く。気持ちが向くことで、環境や自然だけではなく、対人間同士においても言葉のみならず、その所作や微妙な表情で相手の気持ちを察したり、意図をくみ取ることができるといった部分を育んできたように感じる。聞くところによると、外国人は発した言葉がすべてであり、意図や本心を聴き手がくみ取るということはないそうである。今の若者も、そういった傾向が強い。それは環境への働きかけが乏しいからではないかと感じている。これまでの自らの教育実践やこれまでの研修先での成果から、環境を整える習慣は、日本人を形成していく基礎となると私は確信している。

「第三に、創造性・自主性が見られ、それらが伝承されていること。」

 好奇心や意欲、能力が高まるなどの条件が整っていると、人間は本能的に創造的な行動を示す。これらの行動が引き出されるかどうかが、教育環境が適切かどうかというバロメーターにもなっていく。言われなければやらないという雰囲気の教育環境は、第二のポイントに戻って考えてみる必要があるかもしれない。

 先日、「森のようちえん」という園舎を持たない教育機関に研修に行かせていただいた。そこは、市民が管理する40年前の里山風景を今に残す美しい自然の中で教育を行うという、ユニークな取り組みを行っている。毎日遠足をしているというイメージが一番近いかもしれない。この実践の中で私は、この教育には「創造」と「継承」がはっきりと意図されていることに気がついた。自由という状態は、ある意味で残酷である。このようちえんでも、嫌がらせやけんか、転倒というトラブルがある。しかし、そういったトラブルが起きるたびに子どもたちは「相談」する場面が何度も見られた。たとえば、いじめや嫌がらせといった問題は、放置していてはいけないんだということが集団の中で継承されており、価値観として共有されている。しかし、中にはそういうことを行動で表すことができず、トラブルを引き起こしてしまう子どもがいる。そういった子どもに対して、「あの時はこんな風に解決した」と言ったように、子ども同士の中で指摘し合っている。小さな怪我をした時にどう小さい子をあやすのか、ということなども年長のなかで共有されているのである。

 考えて見れば、昔の子どもたちは異年齢集団の中で、遊びやけんかの仕方、トラブルの対処の仕方を身につけてきた。また部活動や職場などにおいても、その場で培われた独特の方法や考え方が創造されており、伝承されていくというものが普通の在り方である。

 学校週5日制により、急速に行事が減らされ、学校の学業成績が学校の予算にまで影響してくるようになっている現状において、「創造」や「伝承」などと言ったものは、重要視されなくなってしまっている。運動会や文化祭、宿泊研修や部活動などがどんどん削減され、元々の生活力の低下に加え、このままでは加速度的に、子どもたちの社会性や学ぶ意欲は激減していくことは明らかであろう。このあたりをきちんと自覚し、共有して、早急に改善していかなければならない。

<国家ビジョンとしての教育論>

 今の国の政策は、諸外国のモデルや国内での成功事例というものを全国にあてはめることが仕事となっている。教育もどうやら同じらしい。その成功事例なるものがどの程度のものか不明瞭だが、少なくともその選定に際して、今後の日本がどのようなあり方をし、どのように発展をしながら、どのように国際貢献をしていくかということをしっかり念頭に置いておかなければ、実は教育などできないはずである。

 私は目先の問題に取り組み続けてきた結果、一つ結論を述べるならば、日本の伝統文化を継承していくことが、指先が器用で、勤勉であり、協調性に富み、感性豊かな日本人を作っていくことに繋がっていく。それはひいては国際社会において、資源のない我が国が、全世界の様々な国や文明との調和を図ることができる役割を担っていけることになると考えている。日本としての特性を、日本人が身につけていくというごく当たり前のことをしっかりまず行うことが、その先に繋がっていくのではないだろうか。

 ITや金融、外国語などの教育は、大学レベルでも全く遅くはない。民族としての基礎基本を徹底させていくことが、激動する21世紀の世界を生き抜いていくことができるのだと私は信じて疑わない。

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寺岡勝治の論考

Thesis

Shoji Teraoka

寺岡勝治

第28期

寺岡 勝治

てらおか・しょうじ

一般社団法人学而会 代表理事

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