論考

Thesis

虚構に彩られた国家論から次へ

「相手に自分たちの矛盾点を自覚させ、内部で自滅させる。それがテロに対しての我々の作戦である。」とある国の安全保障の要人はそう語った。通訳を介して聞いた言葉だったが、裏切った際にはそのような報復もありうるというメッセージに私は解した。その瞬間、国家というものが一気にリアルなものとして感じられた。

<国家とは何か>

 国家とは、利害を調整するために、虚構、つまり嘘をついてもいいという正当性を帯びた組織なのではないだろうか。

 利害とは、経済のみならず、広く国益を指している。しかし、すべての人、すべての共同体にとって利害が一致するとは限らない。そこには利害のぶつかり合いや矛盾が生じている。その多くの場合、矛盾や対立の解決を望んでいると思う。そこに権力というものの存在の必要性が生まれてくるのではないだろうか。矛盾などを解決する場合に使われる権力は、ある種の正当性を帯び、問題が統制されていく方向に向かう。したがって国家経営とは、国内外で起きている矛盾と対立の動向を捉えつつ 、そこに権力の正当性が存在することを了解させた上で、解を出し、指し示していくことだと考える。

 以前、私は、国家というものは不偏であり、犯すことのできない絶対的な存在だと思っていた。そして、その答えを探し求めていたように思う。ところが最近、それはどうも違うのではないかと思うようになってきた。そこで思い至ったものが、虚構というキーワードである。もしかすると国家とは、いくつかの虚構によって統合されている組織ではないか?

 このレポートでは、国家が虚構によって束ねられているという仮説を一つの材料立てとして、国家のあるべき姿、日本の今後の行く末について思考し、その解を求めてみたい。

<歴史観>

 私が感じている虚構の正体とは「歴史」「イデオロギー」のことである。

 まず歴史について考えてみたい。日本は列島という地理的な条件から縄文時代から文化を共有し、ある種の国をなしていたという見方がある。そしてまた、7世紀以降、古事記、日本書紀などに見られるような神話に近い歴史によって国が語られている。明治に入り、近代国家設立のために強固な中央集権国家が設立されたが、古代より続く、文化を継承し続けてきた天皇を中心とした国づくりがなされていった。戦後も天皇は象徴として存続し、その精神と文化を後世にも伝え残していこうというものが、私の日本の歴史認識である。

 これをもう少し単純な図式にすると、「日本は古来より天皇を中心とした単一言語による共同体。だから国を愛し、その精神と文化を伝え残さなければならない」ということだ。今、一部の人たちは、日本が個々バラバラに混迷しているのは、そのような歴史認識を失ってしまったことによるので、全国民の歴史認識を改めよ! と急進的な動きを見せている。私は歴史学者ではないので本当の史実的な解釈はできないし、一部の情報しか持ちえない。しかし、歴史観によって束ねられた国家を虚構であると捉えてみたい。その理由は、国益に適うからである。

 たとえば、アジア諸国との歴史問題が戦後60年を過ぎても未だに解決を見ない。日本人の自国の歴史観の再認識、再評価が、アジア諸国から「再軍備化」などと言われている状況である。現状を見ると 、歴史観の再認識が却ってアジア諸国との外交交渉に支障や、不利益をもたらしているのではないだろうか。

 「反日感情は単なる中国共産党の国家統制のためのツールであり、経済的損失はない」とテレビに出てくるコメンテーターが言うことがある。

 しかし、ではなぜ、世界をリードするまでに成長した中国に対してODAの援助を続けているのであろうか?対中のODAのほとんどが借款ではあるものの、日本中、貸し渋りなど資金不足が問題視されている中、日本が中国経済の銀行機能として働かなければならないことに説明がつかない。

 別の外国の知人に次のように指摘された。「インターネットで日本について外国語で検索すると、先の戦争について、なんの根拠もない誹謗中傷の書き込みが相当数なされており、それと相まって、日本人の閉鎖性、統一的な文化様式、独特の価値観が軍国主義的なイメージを増幅させている」。

 つまり、我々が「正しい」歴史観を主張すれば主張するほど中国やアジア諸国のみならず、西洋社会からも警戒されてしまう可能性がある。頑なに「国産」「保守」「伝統文化」にこだわる日本人気質は、却って相手側に付け込むすきを与え、国益を損ねる結果になるのではないか。したたかに生き抜くタフさが国家には必要である。

<イデオロギー>

 もうひとつの虚構、それが自由・平等を標榜するイデオロギーである。この60年間を振り返ってみると、これは未来の先喰いだったのかもしれない。

 そう考える理由の一つは、国内外の自然環境、天然資源の乱開発。もう一つは、次世代を担う子どもたち若者の成長機会・自立の機会を奪ったこと。つまり持続可能性の収奪である。

 戦後、多くの日本人がアメリカの豊かな経済力に驚いた。戦争に負けたという事実と経済力の格差という事実。アメリカの経済的発展の理念の裏付けとなっている自由主義。これらが相まって、戦後日本では、経済の豊かさをもとめるためには自由というイデオロギーが必要であると感じたのではないだろうか。

 アメリカを中心とする西洋諸国が世界をリードした理由はいろいろあるが、自然の循環性、つまり持続可能性ある自然との共生関係を無視し続けてきたことにある。本来、自然と人とは共生関係にあり、そこには節度と約束事があったはずである。有限である天然資源は希少価値で人類の財産であった。ところがある時期から、天然資源を獲得するために、発掘地を買収したりするなど近代的なルールを当てはめ、事実上の略奪をしてきた。たとえば、水や食料、木材などには、成長し循環するためにはある程度の時間がどうしても必要である。この必要な時間を無視して大量に採ったり、早く刈り取ったりしてしまうと循環は断ち切られることになる。また、高収入を得たいがために、水源の限界を無視した形で地下水をポンプでどんどんくみ上げ、農作物を大量に生産している方法が一般的に行われていたり、化学肥料などを大量に使用することで、土地の栄養を却って奪い去ってしまうような農法が積極的に取り入れられている。

 このような略奪的手法が、戦後わが国でも急速に取り入れられるようになった。その理由は、西洋風の農法や施業に対して補助金を手当てし、奨励してきたからである。そのため、乱開発が進み、循環機能を奪ってしまっていった。森林政策を例に挙げて論じてみる。戦時中、大量の木材が切り出され、はげ山になっていた状態を戦後、高付加価値で売れる、杉・檜ばかりを植え、生態系が単純化してしまった。これを国策として行ってきた。しかし、60年代ごろから安い輸入木材が入ってくることになった。手入れしなければならない単純化した人工林の森は経済的に見合わない。そのため放置され、荒れてしまった。その結果、毎年日本中を襲う大量の花粉散布や熊やイノシシなどの獣害。土砂崩れや水の保水力低下による洪水期と渇水期の振れ幅が大きくなってしまう不安定さなどが出てきてしまっている状況である。西洋諸国以外の多くの国や民族、文明では、持続可能性や循環を無視した開発は強く戒められてきているはずである。そのタブーをぶち破った。

 そしてもう一つが、子ども・若者の問題である。子どもにとって生活体験は成長や自立心、社会を認知するうえで重要な役割を果たしてきた。たとえば水を汲む、薪を割る、風呂を沸かす、冠婚葬祭を手伝う、木の実を食べる、兄弟や友達と分かち合う、暇を見つけて遊ぶ、といった何気ない活動から人として社会人として必要な知恵を会得してきた。これらがすべて、学校や消費社会に置き換えられてきた。地域は車社会により分断され、ボールでの遊びは禁止、共有地を失った子どもたちは部屋に引きこもり、紙に書かれた文字だけで社会や世界の理解を迫られ、その代償としておもちゃやゲーム、様々な商品を買い与えられ、生活から切り離されていった。

 操り人形として成長してきた彼らは、充分な社会性を身につけないまま大人になってしまった。「今の若い者は」ということは簡単ではあるが、そういう人間として成長してしまう環境を、ある世代の人たちが作ってきてしまった実態に、大人は自覚する必要がある。「親不孝」という言葉があるが、彼らの目には「親は親自身のために生きている」という風に映っているかもしれない。

 そして社会は自由を標榜しつつ、ある特定の階層の人たちだけが利得を得る仕組みを作っている。非正規雇用者の増大がその最たるものである。一生懸命働いたら正社員になれるということは全くの幻想であり、非正規雇用者の割合は各企業の生産コストの削減目標として計画化され、確実に一定人数が割り当てられ、景気が悪くなると切り捨てられる。誰かが利得を自由に得る権利を得たということは、誰かの未来を先喰いしていることと同等ではないか。

 かつて共同体にあった再分配機能、そして共同体そのものの持続可能性ある世代交代。イデオロギーからの繁栄の在り方について考え直す時期に来ているのではないだろうか。

<二つの過ち>

 我々は歴史、あるいはイデオロギーに関して二つの過ちを犯している。一つは、誰かの都合のいいように、意図的に意味を読み換えられていること。もう一つは、ほとんどの人がそれに気が付かないでいるということである。

 これら二つに共通するものは言語である。言葉の性質は、事実というものをある一面からみた場合に表現されるものであって、そのもの全部を言い表すことができない。前後の文脈やこれまでの経緯、また予想される事態や書き手と読み手の関係性などの総合的なものの結果として、意味が付与されていくのである。つまり言語とは、具体的な事実性のある事象と抽象的な概念を結合したものなのである。

 たとえば、「ともだち」という言葉がある。辞書で調べると「親しく交わっている人」などと書かれている。これは自分の生活体験にも合致し、そう解して何の支障もない。しかし、辞書には載っていないが「もう、いいから関わらないで」という意味もある。また、諸外国との外交交渉において「友好関係」とは、A国にとってはジャイアンのイメージで、B国にとってはスネ夫のイメージのように異なっている場合もある。

 事実性へのバイアスとして、「活字」「映像」がある。それらは一面しか示していないにもかかわらず、インパクトを持って正論として受け取られたり、正義として解されたり、何事においても優先すべき事象として感情を揺さぶられたりする。発信する側の意図と、情報を受け取る側の理解が常に同じではなく、生じた齟齬の修正も試みられない。我々はそういった環境下で生活している。

 かつては「本音」と「建前」というものを知恵として持ち、うまく使い分けてきた。それは日本人の宗教観、自然観から派生したものだった。たとえば真実とは、相矛盾するもの同士が存在していること。また、姿形や盛衰は時の移ろいとともに変化していくという無常観などがその根源ではなかろうか。それがいつしか失われてしまっており、立場の違うもの同士がかたくなになり、対立が生じ、大切なものを見失ってしまっていると思えてならない。国内のみならず、海外からもその矛盾点を突かれ国益を損なっていると考える。

<理想の国家の在り方>

 2009年8月現在、日経株価が上昇し始め、昨年から引き続いてきた経済危機から脱出しはじめたかのように見える。しかし、欧米を中心とした経済の不安材料が払拭されたわけではない。長期金利の高まりなど、市場は今後の金融についてリスクありと見ている。また、中国は民族問題と安心して利用できる水資源の確保に相当悩まされている。中東の動きもきな臭さが漂っている。

 そういった中、日本の現状は食とエネルギー、独自の安全保障戦略に問題を抱え、人的資源と経済力が低下してきている。頼みの技術力も、その継承がうまくなされていない。

 こういった諸事情に対応するために、本来あるべき国家の姿にとらわれすぎてはいけない。たとえば、シンガポールや北欧のデンマークと日本を比較することはできない。極言すると理想的な国家はなく、内外の現状を直視して、長期的視点を持って取り得る施策を実行していくしかない。つまり抽象的な概念として、守るべき国体の正体についての議論をする前に、具体的に、食なのかエネルギーなのか、それとも福祉医療の保証なのか教育環境なのか就労環境なのか? 守るべき国益について合意形成をまず、行う必要がある。その上で、歴史的論拠やイデオロギーなどは、必要に応じて後で付け加えておけばいい。

 平和憲法を掲げたことにより、拉致に対して無頓着であってはいけない。自由を掲げているからといって秩序を大きく乱してもいけない。また、伝統文化を重んじるからと言って、一部の支配階層の文化であった武士道精神なるものを全国民に当てはめることもナンセンスである。我々は現在と将来にわたっての日本と世界全体を俯瞰し、主体性を持って、使えるものは使い、変えていけばいいものは変えていくといった態度が必要ではないだろうか。

<今後の行方と解決にむけて>

 古来より、諸外国との交易・協調関係によって存続し続けてきたわが国にとって、かたくなに何かを守ろうとする姿勢には無理があり、むしろそういった態度は60年前の失敗を繰り返すことになってしまう恐れがある。受け入れるべきは受け入れ、守るべきものはしたたかに守っていく。

 今こそ、強い国家からしなやかな共同体連合へと変質していくことが必要ではないか。しなやかな共同体とは、概念的な虚構による結びつきではない。域内における持続可能性のある自然の利活用や、教育・産業に対して責任と利益を享受する集団である。これら共同体が主体的かつ自立的に広域連合を形成していく。共同体にとって利害が何かを明確にし、経営に参画していく。このクールな態度が継続性とリアリティを生み出し、国家経営はその理念に向かって一丸となって走り出していく原動力となる。

参考文献

・『海と列島の中世』 網野義彦著 講談社学術文庫 2003年
・『荒巻の続世界史の見取り図16~19世紀』 荒巻豊志著 東進ブックス 2002年
・『広辞苑第五版』 岩波書店 2004年
・『縄文の思考』 小林達雄著 ちくま新書 2008年
・『大貧困社会』 駒村康平著 明石書店 2009年
・『教育と格差社会』 佐々木賢著 青土社 2007年
・『誰が日本の「森」を殺すのか』 田中淳夫著 洋泉社 2005年
・『天皇・天皇制をよむ』 歴史科学協議会編 東京大学出版会 2008年
・『生命文明の世紀へ』 安田喜憲著 第三文明社 2008年
・『ODA 日本に何ができるか』 渡辺利夫・三浦有史共著 中公新書 2003年

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寺岡勝治の論考

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寺岡 勝治

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一般社団法人学而会 代表理事

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