Thesis
「歴女」という言葉がある。これを一過性のものと見る向きもあるだろう。しかし、私が思うに、この現象は世界を覆う単一した近代化という価値観に対しての拒絶反応ではないと見ている。「ではないもの」への探究心が、彼女たちを駆り立てている。
「歴女」。歴史、とりわけ日本史に興味がある若い女性をそう呼ぶらしい。以前はお年寄りの観光ルートであった、古めかしい神社や史跡に行くと確かにここ数年、ガイドブック片手に若い女性たちが熱心に見入っている様子が見られるようになってきた。また、神道や道教などをベースとしたスピリチュアル、ヒーリングと言われる心霊治療などがブームとなっている。
これらの現象はグローバル化し、フラット化した世界、あるいは行き過ぎた近代に対する違和感からではないだろうか。もしかすると、人間は元々、民族としての源流を感じ取りたいという欲求を持っており、その欲求がこのような行動に向かわせているのではないか。近代「ではない」自己への覚醒。彼女たちは、特定の人間によって設計され、計算づくされた建造物やアミューズメント施設で遊び、企業化・商業化されたサービスを提供されることに、うんざりし始めている。世界に覆っている単一な近代化された価値観に対して違和感を覚え始めている表れではないだろうか。
欧州連合というものがある。これは国家という枠組みを超え、経済・金融・安全保障の将来展望を見据えた戦略と見るのが一般的である。しかし、もう少しその内実を見てみると、フランス革命以降形作られてきた国民国家という秩序体系で維持することが、いよいよ難しくなってきたということではないだろうか。ご存じの通り、ヨーロッパの歴史は度重なる戦争と、国境線の変更が目まぐるしかった。同一民族、同一言語の国家はほとんどなく、むしろ、教育や徴兵制などによる人為的なナショナルアイデンティティの形成によって国家が維持されてきた。しかし、グローバル化、とりわけ情報におけるそれが、人為的に形成されてきた“壁”を崩壊させてしまい、民族という生活習慣や価値観の違いに目を向け始めてきている。この多民族性をどう受け入れていくかがヨーロッパの大きな課題となっている。
ナショナルアイデンティティの形成によって国家を束ねようとする考え方が崩れ去ろうとしているのは欧州だけではない。日本でもナショナルアイデンティティの形成が難しくなってきていると感じられる。それは、国民国家の前提となるものがなくなろうとすることを意味する。その反動であろうか。歴女を始め、近代「ではないもの」への覚醒が新たなる秩序体系として人々の心の内側から求められるようになってくるのではないだろうか。この論文では、日本の伝統精神とは何か? について、私なりに整理し、新たなる発展の素因と秩序体系への可能性を探っていく。
私が捉える日本の伝統精神とは、武芸などの「型」の習得を通じて得られるものではないかと考えている。「型」の習得の目的は、出来栄えを競ったり、技の習得そのもの目的とするのではなく、繰り返される動作から練り上げられていく過程そのものが目的となっている。
人間は忘れやすい生き物である。たとえば、人に会ったらあいさつする。部屋を出る時には扉を閉める。靴を脱いだら揃える。これらは心がけさえすれば誰にでも簡単にできることである。しかし、習慣化されておらず、心がけがなければできない。つまり、行おうとする心の働きそのものを重視する。未熟でも真摯に向き合おうとする者がいればその上下関係なく、心の在り方に重きが置かれる。つまり、型や行動を通して常に心という存在を意識しているのが日本の伝統精神の在り方である。
それに加え、他者を慮る心である。常に相手がどのように感じたかということが重視される。また相手は、その作法が未熟であったり、こちらの習慣と違ったり、言語が違っていたとしても、動作から心を感じ取るという姿勢もまた、日本の伝統精神の在り方である。
ここで一つの疑問が起こる。日本の伝統精神に連なる徳目をしっかり伝える必要があるのではないかという点である。日本には宗教の代わりに道徳というものがある。そこには洋の東西は問わず、あらゆる思想や宗教の英知が結集された徳目が意識され、伝承されるべきものがある。以前、日本道徳学会の会長をされておられる横山利弘先生が主催されておられる勉強会に参加させていただいた。そこで目指していた道徳とは、伝えたい徳目を意識しつつも、それを言語化せずに、相手の関係性の中から価値を紡ぎたしていこうというダイナミックな取り組みであった。絶対的な徳目よりも、関係性やその時々の場面によって善なるものは変化していく。それを感じ取り、信頼を築いていくこと。門切り型の徳目を押し付けられても、受け取る相手は嫌な思いをする。宗教や習慣が異なればなおのことである。
私はこれを、精神の有性生殖と呼んでいる。形骸化させることによって異質なものの精神を受け入れやすくなる。それだけでなく、融合が新しい別のものに進化していく可能性をもたらしている。間や空間を大切にし、敢えて未完のまま留めている。余地があるがゆえに、色々なものを取り込める。未熟であるがゆえに可能性を秘めている。
ある人が私に問うた。「強者にあって、敗者にないものは何か?」彼が言うには「油断」だそうだ。大丈夫だと思って、油を継ぎ足さず、絶えてしまうことなのだと。
どういう状況にあったとしても、心を配り続けなければならないことが常に存在している。何かをマスターしたらそれでおしまいということはあり得ない。人間は常に自己を律し、他者から学ぶ姿勢が必要である。それを一言で言うならば「道」である。ゴールではなく、プロセスそのものを重視する在り方である。己を律することを心掛け、常に他者を慮ることを怠らない人は、自ずと精神が宿ってくる。常に行動が先にあり、後に精神が宿る。ジョン・ロックが唱えた教育論「健全な精神は、健全な身体に宿る」に通じるものがある。
朝、早めに起きる。靴をはき揃える。紙をきれいに二つ折りにする。身の回りを常に整理整頓する。部屋を掃き清める。
こういった他愛もない日常生活が人間をつくる。習慣化され、形式化されるまで何百回、何千回と練り上げていく。松下幸之助は囲碁を素人で始めたとしても一万回打てば初段くらいにはなれると仰られたそうである。毎日一回ずつ打ったとしても30年かかる。子供の時分から30年続けたころにやっと、自然に体が動くようになる。そうすると、つらいなぁ、暑いなぁ、面倒臭いなぁといった気持ちがなくなっていき、初めて心が自由になれる。
30年ではないが、中学校、高校は3年で修了である。その1/10である。初段にはおぼつかないが、大体、3年やっていくとそれなりに形になってき、また人間もぼんやりとではあるが出来上がってくる。私は以前、高校教師として様々な教育実践を尽くしてきた。その内、最後の6年間を定時制高校で勤務した。家庭 環境や本人の病気やこじれた人間関係など、学校が立ち入ることができない領域に様々な問題を抱えている子どもたちには、ほとんどの手法は使えなかった。色々悩んだ挙句、行きついたのが、「型」を習慣化させていくことであった。
靴をはき揃えさせ、配布したプリントはきちんと半分に折らせる。ノートはきちんと毎回書かせ、確認する。式典においてはバイトの作業着ではなく、スーツなど正装で必ず出席させるようにした。この、当たり前の繰り返しによって、いじめがなくなり、出席率が向上し、退学率が減り、テスト前には勉強するにようになり、生徒数は5年で、2倍に膨れ上がった。ニートとフリーターしかなかった 進路先が、正社員や四年制大学への道が開かれていくまでに成長していった。
理由は簡単なことである。書いた紙がなくならなくなって勉強する道具がそろい、復習すると毎回の授業の内容が一連のつながりになっていることに気付く。ああ、そうかと。生活習慣の確立が前提条件を整え、それが学びにつながっていく。これまで漢字や計算ができず、あいさつなど簡単な人間関係の習慣が習得されていなかったために外国で生活していたような感じだったのだろう。つながりに気付くと、人間の認知の世界は一気に広がり、世の中が肯定的に自分を受け入れるようになってくる。それが自信になり、好循環を生む。
この実践において、行動と精神の在り方、日本の伝統文化の深みに触れ、私自身が日本人として覚醒するに至った。
人物を生み出すためには二つの要素が必要である。一つは、日本の伝統精神における「型」の意味するところを教育者が理解していること。二つ目は、失敗こそが、学びにおける良き教科書であるという考え方を世間が受け入れることである。自己規律に基づいて相手を慮る態度さえあれば、精神は宿っていくだろうと見做す寛容さを世間が持つことである。その寛容さこそが、あらゆるタイプの人物を生み出す可能性を持つ幅となる。
残念ながら、今の日本の教育は人物を生み出す形にはなりえていない。あるとすれば、よほどしっかりした伝統を継承し続けている地方の学校か私学。茶道や剣道といった道を極めることを目的とした武芸。あとは家訓としての人間哲学を持った一部の特別な家柄の家庭であろう。
その理由の一つに、今の日本の教育は、合理的に説明がつき、納得いく方法によってでしか施せなくなってきているからである。トイレを掃除させること、大声で叱ること、過酷な訓練や意味不明の集団行動などは、子どもたちが嫌がることをなぜやらせるのか? それにはどんな教育的効果があるのか数値評価してほしいなどと指摘され、どんどん排除せざるを得なくなってきているのが現状である。それは学校だけの問題ではない。日本社会全体が、説明のつかないものを排除しようとしている。
そしてもう一つの理由は、失敗から学ぶという考えかがすっかり失われてしまったことである。一度も転んだことのない子どもがたくましく成長するはずもないのと同様に、仕事や人生で失敗をしたことがない人が大きくは成長していかない。見守り、育てていくという気風がこの国にはすっかり失われてしまっている。
欧州連合では若者の失業率が著しい。国によっては30%を超えるところもいくつかある。欧州連合では職業の技能や経験、知識の有無が優先される。端的にいえば、雇用する労働者が利益に直結するかどうかである。しかし、そんな条件を示してしまうと若い人は圧倒的に不利。しかもある年齢までに覚えておかないと身につかない技能は沢山あり、長い目で見た場合、これは国力を低下させていく要因になってしまう。
失敗こそが学びにおける良き教科書であることを日本人はかつて、知っていたのであろう。だから未熟であっても若い人の挑戦を称え、チャンスを与え、育てていったのであろう。それが「人財立国」と言われる所以ではなかったろうか。すぐに「即戦力ある人間を」という企業は、人の入れ替わりが激しく、企業としての積み重ねられてきた知的財産や技能に乏しい。今の日本全体の様子を言い表している。
これでは産業も人物も育っていかない。最良の教育は、最善を尽くし、待つという農作物をつくるような忍耐力や狩や漁の時に機を待ち、見極めるといった態度が必要なのである。
ある時テレビを見ていたら、政治難民で日本に来た外国人の小学生を取り扱った番組があった。その子どもはこう言った。「日本には、食べるものも着るものもある。平和もあり、夢も希望も未来もある。私は日本が大好きだ」と。
p> 我々はつい、日本には未来がないとか悲観的であるとかというネガティブなイメージにとらわれがちである。それがたとえ事実としても、未来を感じる新しい命を受け入れることで、日本は未来へ躍進する原動力を得、生成発展していくのではないだろうか。たとえ文化や思想、価値観が異なろうとも、受け入れていく度量を持つことがこの国の伝統精神の本質だと思う。
「型」は器のようなものである。日本の伝統精神というものは、西洋でいうところの「精神」とは、もしかすると性質が異なるものかもしれない。「型」という器があれば、器に応じた精神性を受け入れ、知恵を授かることができるようになる。言葉のイメージとは裏腹に「型」とは、自由度が高く発展性のある人格形成の在り方ではないだろうか。
近代や西洋がある輝きを持って受け入れられた時代が続いてきた。しかし、その輝きが永遠には続かないだろうという思う人が増えてきている。陰りが見えはじめた今、日本の伝統精神への深みに関心が集まり始め、伝え難き精神が伝承される可能性を持った時期に差し掛かっていると私は感じている。
参考文献
・『ヨーロッパ統合と文化・民族問題』 西川長夫・宮島喬編 人文書院 1995年
・『日本人のためのイスラム原論』 小室直樹著 集英社インターナショナル 2002年
・『義務教育期間における徳育』 財団法人松下政経塾 第28期生編著 2008年
・『「型」と日本人―品性ある国の作法と美意識―』 武光誠著 PHP新書 2008年
Thesis
Shoji Teraoka
第28期
てらおか・しょうじ
一般社団法人学而会 代表理事
Mission
発達障がい、軽度知的障がい児の教育