Thesis
憲法改正への機運が高まっている昨今である。だがそこには憲法改正という戦後日本の大テーマの解決に向け過剰な期待に溺れ過ぎているきらいがあるのではなかろうか。本レポートでは「公共」という概念を憲法にていかに解決していくべきかについて論ずることを通し、憲法改正がもたらすものとは何かということを考えたい。
憲法改正の機運が高まっている昨今、新聞、雑誌、または多くの書物において憲法とは何か、憲法改正の論点とは何かが取り上げられている。戦後、自主憲法の制定を党是としてうたってきた自民党が政権与党であったにもかかわらず、本格的に議論されてこなかった憲法改正論議が何故いまこの時代に盛り上がってきたのか。その盛り上がりの要因を、20世紀末から21世紀初頭にかけてのグローバリゼーションによるナショナルアイデンティティの揺らぎといった時代的背景と戦後日本的社会システムの崩壊に対する国民全体の危機感ととらえたとき、憲法改正に期待される効果が見えてくる。その効果とは、国家としての日本再建に向けて、一つのきっかけとしての意味合いを持つ憲法改正である。
国家としてのグランドデザインが描ききれていないと評される日本にとって、憲法が「くにのかたち」を示すものであり、国家像を描くものである、という前提においては、憲法改正はこれからの日本の進路を決定する大きなエポックとなろう。しかしながら、いざ新憲法制定への動きとなれば、多くの論点において意見の一致を図ることが極めて困難となる事態が発生するであろうことは容易に予測できる。
なかでも「公共」という概念をどのように表現していくべきかについては左派、右派の間ですでに論議がなされている。その具体的な論点とは「国民の義務、責務の強化」である。例えば自民党憲法改正草案大綱においては公共性の提示を憲法改正におけるポイントのひとつとしている。その内容は、誤った個人偏重主義を正すために、「公共(国家や社会)」の正しい意味を再確認させること、そして、それが単なる「国家主義の復活」ではなくて、自立し、共生する個人の尊厳に裏付けられた「品格ある国家」でなければならない、として、新しい憲法は国家と国民を対峙した権力制限規範にとどまらず、透明性のあるルールの束だという主張を行っている。これに対して、憲法とはあくまでも国民による国家への統治条件を明示した基本契約であり、国家から国民側を縛るかのごとき義務、責務を強化するべきではないという意見も根強いものがある。
本レポートではこの「公共」という概念をいかにして憲法への表現に代えていくかについて論じていくことを通して、憲法改正がもたらすものとは何かということを考えてみたい。
改めて、憲法とはなんであるか、本レポートの前提条件として押さえておきたい内容をいくつか挙げてみたい。
まず憲法とは契約であり、法としての要素を内包することはいうまでもない。そして憲法とは人民と国家の統治契約における基本法であり、国家の根本的な組織・運営について定めた法規範である。近代立憲主義においては国家の統治は憲法にもとづいて行われ、国民の権利の保障と国家権力の乱用の禁止、および国民の政治参加の内容を憲法規定に定めている。
憲法の歴史的背景を考えたとき、その制定目的は各国において多用である。例えばアメリカにおいては新国家の建設にあたり、不文の憲法が存在しない以上、明文をもって憲法を定めるしかなかった。それに対してイギリスや明治時代以前の日本においては不文の憲法に頼っていた。フランスにおいては革命による王制打倒が図られ、近代における憲法に大きな影響を与えた1789年のフランス人権宣言が行われたのである。憲法制定によって国民の権利が保証され、国家の専制的権力を制約する、その根底にあるのは法の支配であり、個人の尊重であることはいうまでもない。
では次に、憲法の役割について取り上げる。これまで概説したように、憲法が国家権力の行使について制限を規定する、これが制限規範としての憲法の役割だといえる。他にも憲法には国民の権利を規定し、国家権力の正当な行使の根拠規定となる授権規範としての側面、また法における最高規範としての側面も存在する。以上が法規範としての憲法の役割であるが、昨今議論に上がっているのが、新時代の憲法においては憲法の語源であるコンスティチューションが含む「くにのかたち」をあらわす内容が盛り込まれるべきであるというものである。憲法とは明文化された法規範という意味だけではなく、国柄、国の歴史、伝統を盛り込み、しいては将来の国家目標、社会的価値も織り込んだ国家のグランドデザインの表現でもあるという主張は、現憲法に対してのアンチテーゼとしてだけではなく、他国憲法の現状を踏まえた意見であることを明記しておきたい。
上記したように、新時代の憲法においては法規範だけではなく、「くにのかたち」を定めていく必要があるという。この論に対して私は異を唱えるものではないことをあらかじめ断言しておく。しかしながら公共という概念を憲法に表現していくことによって、公共性が復活するという主張については同意しかねるところなのである。公共性といったものを考えることによって、その議論をしていきたいと思う。
まず冒頭でも取り上げた自民党、憲法改正草案大綱の作成過程の論議を見てみよう。憲法改正草案大綱の叩き台として議論自民党憲法改正プロジェクトチームが発表した「論点整理」によると公共の責務(義務)については以下のような記述があった。社会連帯、共助の観点からの「公共的な責務」に関する規定を設けるべきであるとし、その議論の根底にある考え方は、近代憲法が立脚する「個人主義」が戦後のわが国においては正確に理解されず、「利己主義」に変質させられた結果、家族や共同体の破壊につながってしまったのではないか、ということの懸念である。権利が義務を伴い、自由が責任を伴うことは自明の理であり、われわれとしては、家族・共同体における責務を明確にする方向で、新憲法における規定ぶりを考えていくべきではないかという提案がされている。
この提案の基となるものとして、権利ばかりで義務が無いという、西欧型デモクラシーが跋扈したことによって、これまで日本人が美徳としてきた「公」という概念が戦後社会のなかで滅びていった。またナショナルアイデンティティの揺らぎによって国民の精神、意識が漂流している。そうした主張がいわゆる保守の立場側の論客から多々されている。その主張の方向性については健全なる保守を自認する私も賛同するところである。ただ、私が疑問に感じているのは憲法において公共性を規定したところで、「公」が復活するものなのか、ということなのである。
現代における公共という概念はかつての日本的な観念でとらえるものではないのだということをまずここで考えてみたい。従来の観念では公イコール国家であり官とするいわば国家主義的な公の観念が強力であった。こうした観念では、国家の暴走が懸念されることも当然である。国家が公を規定したものの、その公の裏に公を名乗るものの私が隠されている事態が発生してはならないからである。しかしながら真に公共なるものは人間が共に世界で生きていくために必要とされる正義、徳、協調といった精神であり、人々がより善く生きるために、そしてより善き世界が実現されるための倫理・哲学である。
そのように公共を考えたとき、憲法に「公」を規定するということは日本人が生きるべく精神、倫理、哲学を憲法に明文として織り込んでいくという困難な作業にぶつかることになるのである。
先にも触れたように、憲法には授権規範としての側面がある。そして「くにのかたち」を定めていくものであるという、日本の憲法にとっては新たなテーゼも存在する。憲法に「公」を規定するということは、憲法の持つ授権規範としての部分に関連し、また、「くにのかたち」という部分にも関連していく。
私は「くにのかたち」といった部分においては公共という概念を精神、倫理、哲学として織り込んでいくことに異論はない。しかし授権規範として規定するということは精神、倫理、哲学を国民に強制的に植えつけていくということになることを見逃してはならない。「自由」という何よりも護らなければならない価値を侵すことになることは断じて避けなければならない。
そしてこと憲法に公共という概念を織り込んでいく際に、さらに問題を難しくさせているのが日本語という言語のあいまいさである。法律用語、法律文章のような淡々とした表記から、精神、倫理、哲学を読み取れ、というのは相当に困難な作業である。たとえばお役所が発行する資料から、精神、倫理、哲学などはなにも感じられないであろう。それはそうである。お役所が発行する資料は、誰がどう読んでも同じ理解がされるような表記しかしていないからである。では公共というものを誰がどう読んでも同じ理解がされるように表記するにはどうするのか。精神、倫理、哲学というものの表現を具体的にすればするほど、修飾的表現が多くなり、読み手側の感性に訴えかける部分が増え、結果としてその文章の意味するところはあいまいになり、読む人の知性によって内容がふくらんだりしぼんだりしてしまうであろう。精神、倫理、哲学といったものを表現する際には、美文が求められることはいうまでもない。ここにジレンマが発生するのである。
このような事態を避けるべく、端的な表現で済ませ、スローガン的な役割を果たすようにという手法も出てくることも考えられる。例えば公共のひとつの表現として「正義」と掲げ、国民の大多数の総意を得ようと試みる。しかしこれにも問題が生じる。失われた公共を取り戻すべく、憲法に規定するわけであり、その失われた概念の表出化を国民の想像力に頼ってしまっては何の解決にも至らないのである。そのように考えていくと、公共なるものを憲法に表現していくことは極めて困難であるといわざるを得ない。
ここで改めて自論を確認しておきたい。私は日本憲法において新たなテーゼ、「くにのかたち」を持ち込むことを否定しない。日本に「公」が欠けているという議論にも同意する。
むしろ公共という概念を日本に強め、そのために政治が今以上に精神、倫理、哲学というものをしっかりと提示する必要があると考えている。そしてそれはなにより私が政治を通して実現したいことなのである。しかし公共性を護り、取り戻すためには明文として新たに憲法で規定するといったことではない、違ったやり方があるのではないだろうかというのが私の主張である。
そして憲法改正にも異を唱えるわけではない。新憲法を制定し、その新憲法制定が憲法議論のきっかけとなり、その後は現実、時代の変化に合わせ、柔軟に憲法が修正されていくことが実現されていく。日本にもそのような未来が到来することも可能ではあるだろう。そして勿論日本人それぞれにもそれだけの政治的力量を期待することもできるであろう。しかしながら、本当に国民国家における全てが憲法によって記述可能で、公共という概念が憲法によって規範とされるべき事項であるのかどうかについてはしっかりと考えなくてはならない。はっきりというならば、成文憲法に全てを任せるということは日本という国では文化的に即さないと私は考えるのである。
評論家の松本健一氏はいう。日本という国は脈々と続く歴史、文化、言語を持ち、民族的一体感を持った、いわばカルチャーネーションである。であるからこそ設計的に作られた国家との違いを考え、自らのナショナルアイデンティティを追求しなくてはならないと。
なるほど一理ある。そこで私は訴えたい。
我々日本人は設計的思想で国家を捉えることができ、明文の憲法によって公共という概念が取り戻すことができるほど、精神構造が西洋的に変化していったのであろうか。また言語規定で公共といういわば高貴な概念を定めなくてはならないほどにドライな精神構造へ変化をしていったのであろうか。
全てを西洋的精神構造に解決を求める前に、和を貴び、あいまいさをよしとし、相手を慮るという日本人の美徳が失われていることを憂う必要があるのではないだろうか。
昨今のテレビ番組では裁判に絡めた番組が大流行である。また弁護士への依頼件数も右肩上がりで増えていることも事実である。和を貴び、争いごとを嫌うといった日本人の性質にもやや変化が見られてきたともいえよう。しかしながら、これは果たして本当にあるべき姿なのであるのだろうか。価値観が多様化したと表現してしまえばそれまでかもしれない。それが時代の流れであるから仕方がないという意見もあるであろう、しかし私はそうした意見には与しない。この日本という国が世界に伍していくことができるようになった要因には単一民族ゆえの同質性、連帯性があったことはいうまでもない。その同質性、連帯性、言い換えるならばこれこそが護らなければならない日本のナショナルアイデンティティなのである。
それほどに日本にとって重い公共という概念を成文憲法で表現することで日本という国家が救われるのであろうか。このことについて憲法改正に携わる人間はしっかりと自分の意見を持たなくてはいけない。
私は思う。日本人に公共という概念を取り戻すためには、憲法で規定をすることではなく、政治という崇高な職業を行う人間が日本人の美徳を政治の世界で体現することである。例えば多くの日本人の中で欠けつつある能力である「共感力・共鳴力」。これもひとつの日本人の美徳といえよう。政治の現場に携わる人間こそ、日本人が今何を必要としているのかをしっかりと吸い上げていかなくてはいけない。憲法に記述することに頼る以前に、公共性を育む仕組みづくりをより高める必要がそこにはある。その切り口は教育だけに留まらず、多方面にわたっての仕掛け作りが求められる。
ここで私ははっきりと言いたい。憲法改正だけでは公共は回復しないし、グランドデザインも描けない。憲法改正はあくまでも日本再建のひとつのきっかけであり、憲法改正すれば全てがうまくいくという魔法の杖ではないのである。憲法改正を考える中で浮き彫りになった多くの課題について、政治がひとつひとつ、懇切丁寧に解を示していくことが必要である。幾つかの案を提示し、その中から決定をし、実行する。政治の大きな責任がそこには求められている。
かつて松下幸之助塾主は日本という国は徳性国家、良識国家を目指すよう主張されていた。法治国家は中進国と題し、これまで法治国家は先進国だといわれてきたが、しかしそれは最上のものではなく、進歩のひとつの過程である、「法三章」で繁栄する良識国家こそ、われわれが目指すべき、さらに進んだ形であるとし、後年には国望、国徳国家という表現もされている。
今の日本に必要なのは日本再建のためにも、公共の復活のためにも、理想の政治の実現であり、理想の政治家の出現なのである。国民が政治に求めているのは、憲法改正という出来事ではなく、憲法改正がひとつのきっかけとなる日本再建そのものなのである。そしてそれを担っていくために我々松下政経塾の塾生は松下幸之助塾主の理想を具現していく大きな責任を果たさなくてはならない。
【参考文献】
中曽根康弘、西部邁、松本健一 「憲法改正大闘論」 ビジネス社 2004年9月
佐伯啓思 「現代日本のリベラリズム」 講談社 1996年4月
百地章 「憲法の常識 常識の憲法」 文藝春秋 2005年4月
樋口陽一 「憲法と国家」 岩波書店 1999年8月
山脇直司 「公共哲学とは何か」 筑摩書房 2004年5月
Thesis
Satoshi Takamatsu
第25期
たかまつ・さとし
衆議院議員/東京28区/立憲民主党