Thesis
先の大戦後、「戦争」という言葉にアレルギーを持ったままに60年を過ごしてきた日本では過去の戦争の意義を語ることは少なかった。先人たちがいかなる思いで国家の将来を見据え、決断を下してきたかを知ることは21世紀を生きる我々の責務であろう。国家の存亡を賭け戦った100年前の戦争の意義と教訓を考えてみたい。
日露戦争とは一体どのような戦争であったのか。その定義は100年経過した現在でも明確に定められているとはいえない。その理由として日露戦争後、日本、ロシアともに第二次世界大戦への参戦、体制の変化によって各時代において特定の意図を含んだ歴史書が残されることとなったことによる。歴史とは常にその当時の体制にとって都合の良い見方をすることは古今東西共通していることである。日露戦争という戦争が、日本という国家が帝国主義全盛時代の中でその存亡を賭けて戦ったのか、それとも単純に朝鮮半島、満州の権益を巡る支配権を求めての争いであったのか、こうした議論は当時の時代認識をどのような視点から見るかによって様々な議論があるであろう。そうしたことを理解したうえで、現在の日本という国を考えたときに外すことができない日露戦争の歴史的意義とその影響を自分なりの視点で捉えていこうと思う。
日露戦争を考えたときにまず思い浮かぶのは、当時の世界における時代潮流である。帝国主義全盛期において、日本は西欧列強に立ち向かうべく富国強兵に励んでいた。江戸300年の鎖国から解き放たれ、帝国主義という当時のグローバリゼーションの中で、明治の指導者達、そして国民一人一人がいかに国際情勢をとらえていたのだろうか。象徴的な出来事として日清戦争の勝利後、ロシア・ドイツ・フランスによる三国干渉によって遼東半島の放棄を求められたことが挙げられる。当時の流行言葉に臥薪嘗胆があったことは有名である。国家国民を挙げて日本という国家を護ろうとした、当時の国民のその悲壮な覚悟は想像するに余りあるものがある。
極東の島国である日本にとって、西欧列強の東進に対して、日本海を挟んで接するユーラシア大陸との緩衝地帯となる朝鮮半島、満州は生命線であった。ロシアの満州、朝鮮への進出は日本への最大の脅威であったことが戦争の要因である。こうしたことから考えると、日露戦争における意義とは、日本が西欧列強の東進を食い止めたことであるといえよう。講和によるポーツマス条約は北東アジアにおける安定を生み出し、第二次世界大戦までの40年間に渡る北東アジア各国の成長に寄与したものと考えられる。結果としてアジアの解放という考え方も出てきたのである。歴史にIFというものはありえないのであるが、もし日露戦争が行われることなく、ロシアの進出を許すことになれば、対馬、九州、そして北海道、がロシア領となっていたことも否定できない。領土の維持は勿論のこと、そうしたときに「くにのかたち」が大きく揺らいだことが否めないだろう。反論として日露戦争が行われたことによって満州への利権を得たことが結果として第二次世界大戦での敗北へとつながったという指摘もあるが、しかし全ては結果論である。今大切なことはその戦争の意義をしっかりと捉え、未来に生かしていくことである。
では続いて日露戦争の特徴についてみていこう。日露戦争の大きな特徴として、それまでの19世紀の戦争と大きく異なった規模での戦争となったことである。アメリカ南北戦争、普仏戦争とは技術、兵力動員規模、展開が決定的に異なり、大国と大国の戦争であったといえよう、戦死者の数は一般的な統計では日本側で84000人、ロシア側で5万人以上とされている。昨年の秋、激戦の地であった203高地を視察したが、その戦いの苛烈さに言葉を失うものがあった。
このように多大な犠牲を強いることになった日露戦争であるが、結果として日本が勝利するに至った要因はなんであったのか。世界を驚愕させた日本の勝利に寄与した何か強い理由が当時の国家にはあったと考える。その何かを次の段落で探ってみたいと思う。
当時の日本とロシアの国力から見て、戦争の帰結はロシア勝利であろうと世界中が考えていた。しかし何故日本の勝利となったのか。軍隊の訓練度、国民の戦争への意識度合い、ロシア国内の政治的状況、幾つかの要因が挙げられる。ここでは戦術的な内容ではなく、日本という国家がどの様な優位性を持っていたのかを考え、現代の日本に生かすことができる影響を探ってみたい。
まず1番目に挙げたい当時の日本の優位性に、教育水準の高さが挙げられるだろう。外交研究家の岡崎久彦氏は「日露戦争を勝った連中は江戸時代の教育を受けた連中だ」と述べているが、徳川300年の時代における教育水準の高さについては当時日本を訪れた外国人の記述からも多くみられている。かのナポレオン・ポナパルトは士官になるのに必要条件として読み書きの能力を挙げたが、その理由として戦場での書面での指令ができるかどうかであった。そういう意味では日露戦争時代の将校では日本語は勿論のこと、英語、ロシア語をあやつる者も少なくなかった。そして日露戦争に挑んだ司令官たちは東郷平八郎をはじめとして戊辰戦争、西南戦争、日清戦争の戦火をくぐりぬけてきており、高い水準での戦略論を持ち合わせていたのである。資源を持たない日本という国家において、人という財がいかに重要かということが歴史から判断できる。
2番目には技術力である。日露戦争における一大決戦に日本海海戦が挙げられるが、この日本海海戦でバルチック艦隊を撃沈するに大きな役割を果たしたのが日本の技術力である。戦線で使われた爆薬は海軍技師・下瀬雅允によって発明された「下瀬火薬」という爆薬で、当時の世界では類を見ない爆発力であった。主成分に2000度もの高温を出すピクリン酸を使用しており、ロシアの綿火薬と比べると2倍の爆発力を誇った。現在も技術大国である日本であるが、当時においてもそのような傾向があったことは、日本人の特性が発揮されるのが技術分野であるということの証明でもあろう。
こうして歴史から学べることは、日本という国家が世界に対して優位性を持つのは、人財という資源、そして智恵の結晶である技術力である。21世紀の日本を考えていくうえでも、この人財と技術力というキーワードは外すことができない。教育によって一人一人の国民の力を高め、技術がもたらすイノベーションで優位性を保つことがグローバリゼーションの中で生き残るカギだといえよう。
そして次の段落では100年前の日露戦争という出来事が現在の日本に残す教訓について考えてみたい。
ではここでは日露戦争が現在の日本に残す教訓について考えてみたい。一般論的な見方は様々あるであろうが、私なりの視点で捉えたときに、現在の日本に生かすべき教訓が2点あると考える。非常にオリジナルな考えではあるが、あえて記してみたい。
1点目は日比谷焼き打ち事件に見られる報道の扇動による大衆の混乱である。
日露戦争の講和条件はポーツマス条約にて、樺太の南半分割譲のほか、長春と旅順間の「南満州鉄道」と、遼東半島の租借(そしゃく)権の譲渡などだった。相応の成果を得たのだが、賠償金を得ることができなかったため、国民の多くは不満を抱いた。大国ロシアを打ち破ったものの、戦争中の重税、生活苦のといった苦労が報われない屈辱的な条件であるという風潮から9月5日に講和反対組織の会合が東京・日比谷公園で計画されたが、警察はそれを禁止し、公園を封鎖した。公園入り口に押し寄せた数万人の群衆は、公園内になだれこみ、国民新聞社を襲撃するなどといった騒動になった。これが日比谷焼き打ち事件である。
当時の鬱積した時代状況がこうした事件を招いたともいえるが、それ以上に日露戦争における報道のあり方が問題であった。実際の講和においてはギリギリの交渉があったにも関わらず、それまでの連戦連勝といった報道から、国民は大勝に見合うだけの賠償を求めたのである。この日比谷焼き打ち事件は国民が国家に声を上げていくという意味では大きな時代の変化を裏付けるものであったといえるだろう。大正デモクラシーへと続いていく民主主義の芽生えという意味では歴史的に評価されるべき出来事であった。ただ、そうした流れに導いた底流には真実を伝えること以上に扇動的になっていた報道、マスコミが存在し、その責任は逃れることができないと考える。
日本人は、ひとつの方向に流されてしまう傾向があることは否めない事実である。それが単一民族の宿命ともいえるのだろう。
だからこそ報道、マスコミは責任を持って事実を伝えていかなくてはならないのであるが、果たして100年経過した今、報道、マスコミは当時から進歩したのであろうか。先般の郵政民営化を巡る総選挙を見る限り、進歩があったとはいえないと感じるのは私だけではないはずだ。劇場型の選挙スタイルをあおり、郵政民営化法案への賛否というシングルイシューに対する諮問型レファレンダムというべき選挙を社会的に是としてしまった。無論それは政権与党政党の巧みな戦略であったわけであるが、報道、マスコミがその片棒を担ぐがごときに流されてしまったことは社会の公器として恥ずべきことではなかろうか。仮に郵政民営化法案への賛否というテーマに絞ったとしても、単純な賛否論に終わることなく、郵政民営化が日本経済に与えるディテールの説明、郵貯・簡保事業のプレゼンスの影響などを国民に詳細に渡って告知説明するのが報道、マスコミの責務である。先の大戦でも報道、マスコミの在り方が問題になったが、こうして考えると結局は日本の報道、マスコミというものは100年以上変化していないのである。これからの21世紀には報道、マスコミの変化があるのであろうか。インターネットという双方向性のメディアの出現によって、新たな展開がもたらされることを望みたいところである。
そして教訓とすべき2点目は「国益を護る」ということである。100年前の日本という国家が当時のグローバリゼーションともいえる帝国主義全盛時代において、国家の存亡を賭けて戦ったという事実には、領土という国益を護るという強い意志が反映されている。振り返って100年後の現在は、カネ・モノ・ヒト・情報のグローバリゼーションがものすごいスピードで進んでいくトランスナショナルな時代となった。通常兵器を用いた国家間の戦争というものは勃発していないが、カネ・モノ・情報を争奪する経済戦争は恒常的に発生しているということもできるであろう。そう考えたときに、現在の日本国家に、国益を護るという明確な視点があるのであろうか。現在の金融市場改革には、国益という観点が本当にあるのか、外交では海洋資源を護るという国益の観点があるのか、情報通信戦略に日本という国家の未来を護る観点があるのか。世界唯一の大国となった米国に対しては勿論のこと、中国、インド、ブラジルといった経済新興国の出現に対しても、今の日本がどのような経済戦略を描くのかが国家として問われているのである。
今の日本には、100年前に国家を護るために戦った人々に応えるだけの、誇りある美しい国家となることを常に志向し続けることが政治の場で必要なのであろう。当時の人々の覚悟を、現在の日本人も決して忘れてはならない。
以上2点の教訓は日露戦争という歴史が現在の日本に突きつける選択といえるだろう。報道、マスコミに振り回されない自律した個人の出現、そして国家として国益を重んじる姿勢。これら現在にも取り上げられることが多い問題に対して、日露戦争の教訓から考えてみた。
繰り返しになるが、今年は日露戦争100周年である。100年とは決して遠い過去ではない。現在100歳以上のお年寄りは全国で2万5000人以上おられる。日露戦争を肌で知っている人々はまだ数多く生きていらっしゃるくらいなのである。その100年のいう時間の経過で、日本という国家はどのように変わってきたのであろうか。100年前、欧米列強に伍すために超大国ロシアと一戦交えるまでの気概を携えた国家は、第二次世界大変を経て、焼け野原から立ち上がって現在に至り、世界に冠たる経済大国となった。ただ、今の日本の姿は本当に100年前の人々が夢見た日本の姿なのであろうか。物質的な繁栄は相応に実現したのであろう。しかし、現在の日本にはまだまだ不足している何かがあることは間違いない。その何かはひょっとすると100年前には存在したものなのかもしれない。失ったものを取り戻しつつ、さらに理想の豊かさを求めて、100年前の人々に恥ずかしくない生き方を誓うとともに、100年前と同様に危機的状況に置かれている国家に対して道を拓くべく身命を賭して参りたい。
<参考文献>
横手慎二 「日露戦争史」 中公新書 2005年4月
産経新聞取材班 「日露戦争 その百年目の真実」 産経新聞社 2004年12月
松村正義 「日露戦争100年」 成文社 2003年10月
柘植久慶 「あの頃日本は強かった」 中公新書ラクレ 2003年10月
Thesis
Satoshi Takamatsu
第25期
たかまつ・さとし
(前)練馬区議会議員