Thesis
西欧発の立憲主義によるデモクラシー、日本におけるナショナルアイデンティティ・郷土愛。その間にある埋めることの出来ないものとは何か。憲法改正の流れが加速する今だからこそ考える。
先の総選挙で議席の過半数を占めることとなった自由民主党が新憲法制定推進本部のもとに検討を進めてきた「新憲法草案」が平成17年10月28日に発表された。これに続いて民主党も憲法調査会の総会を平成17年10月31日午後に党本部で開き、党の「憲法提言」が了承された。与党第1党と野党第1党がそれぞれ新憲法の具体的な姿を示したことで、今後の憲法改正に向けての具体的な工程も含め本格的な議論がなされていくこととなる。自由民主党と民主党という、2大政党がそれぞれ憲法改正案をまとめたことで、今後の憲法論議のたたき台となることは間違いない。憲法改正への大きな流れはさらに加速することが予想される。しかしながら、実際に日本という国家が憲法改正に至るまでに超えなくてはならないハードルは多くあることも事実である。真っ先に論議となるであろう9条の問題、愛国心という問題、それら個別の問題の論議はもちろんのこと、改正手続きに必要となる国民投票の問題といった手続き上の問題、そしてさらには、そもそも憲法とはいったい何であるのか、憲法上で保障される自由の概念、人権の意味、立憲主義とはいかなるものであるのか、といった点を日本人が本当に肌で感じることができているのか、そうした点までもが問われてくるのが憲法改正の本質的な議論であるはずだ。しかし実際のところ、現在進んでいる憲法改正論議はそうした本質論にまでは至っていない。それは大日本帝国憲法、そしてそれ以前の統治形態から現在の日本国憲法までの日本という国の歴史的経緯ゆえのものであるのか、そもそも立憲主義という西洋発の概念に違和感があるのか、ともかくとして国民の中で、憲法改正が現実的な感覚としてとらえられるようになるには、まだまだ時間がかかるように感じる。
どうにもまだ憲法改正というものが一種の政治的スローガンから脱け出すことができていないと思えるのは、私だけではないはずである。
日本において不磨の大典であった憲法、それが60年ぶりに改正されるのであれば、日本人が日本という国家のあり方を考えるひとつのきっかけとなる。それだけの大きな意義のある憲法改正であるからこそ、本当の意味で憲法と国家の関係、そして日本という国家を在り様をしっかりと考え直す必要性がよりリアリスティックな視点から求められるであろう。以上を踏まえ、本レポートでは立憲主義とは何かを問いながら、日本という国家における憲法の意味を考えてみたい。
立憲主義とはその字の表す通り、憲法に基づいて政治を行おうとする考え方を指す。
その要素は大きく判断して、2つに分けることができる。第一には人民主権とそれに基づく代表民主制であり、第二には権力の分立および抑制、個人の人権尊重を通した国家権力の制限である。この立憲主義という西欧起源の思想はどのような背景で誕生したのか。それには歴史的経緯を振り返る必要があるであろう。宗教戦争を経てカトリック、プロテスタントのいずれ側も勝利を得ることなく、価値観が対峙した社会の中で懐疑主義が幅を利かせる中、自己保存という見解の最低限の一致を見出したのがホッブズに代表される社会契約論者である。すべての人が生まれながらに自然権を持つという考え方をベースに、異なる価値観の共存しうる社会の枠組みを構築しようとしたのが立憲主義の始まりである。
人間にとって善き生き方という価値観は多様であり、相互に比較不能というのが立憲主義の基本的前提にある。公的な領域と私的な領域を区別し、公共的な事柄を理性的に解決する枠組みを整え、個人の価値観に関することについては私的領域に許すことで共存を図る。立憲主義が前提とする国家は市民に対して善き生き方を定義することはなく、多様で相互に両立不能な世界観を持ちながらも、それでも共同生活上、公益について決定するという基本的枠組みを備えた、限定された空間なのである。では次の段落においては多様な価値観の公正な共存を目指すなかで最適と思える考え方である立憲主義と深く関わる民主主義について考えてみたいと思う。
民主主義とは何か、当たり前のように理解をしているつもりであるが、そう問われていざ回答しようとすれば、はたと立ち止まってしまう人も多いことであろう。改めてここでは民主主義について考えてみたい。
「人民の人民による人民のための政治」かつてこう言ったのはリンカーンである。しかし民主主義とはより多くの市民が政治に参加することが望ましいと考えるだけではない説もある。一般的な論ではあるが、民主主義をもう一度ここで簡単に整理してみよう。まず多くの市民が政治的に深い関心を持ち、政治討論と政策決定過程に直接的に参加する、これは古典的民主主義と呼ばれ、ルソーに代表される考え方である。また市民の政治参加がより民主的市民を育成し、ひいては政治システムも安定するとしたウォーカー、功利主義的道徳がもたらされる政治参加に大きな意義を見出したミルも含まれる。
これに対して平均的な市民は民主的市民としての能力を発揮する必要性は低く、賢明で民主主義的価値に深くコミットするエリートに政治的作業を委託するべきであるというエリート民主主義理論がある。その代表としてはシュンペーターであろう。政策の専門家としての職業政治家集団と、それを選出する役割の市民集団との分業を打ち出し、民主主義を市場機構のアナロジーとして考えている。
また他の論として合理的で現実的な有権者や政党の行動が最適な政策をもたらすとする合理的選択理論を打ち出したのがダウンズである。シュンペーターのエリート民主主義モデルをさらに発展させ、民主主義決定プロセスについて経済学的手法を援用して分析した。
こうして民主主義を理論から見ていくと重要なことが浮き彫りになってくる。それは民主主義という言葉のそもそもの大きな意味である「民イコール主人公」という概念、要するに市民、大衆が政治参加することそのものが崇高で至高な価値を持つことであるのか、はたまた政治システムとしての枠組みの中で市民、大衆の政治参加が安定的かつ効率的に行われるかどうかがマクロ的コントロールとして意義あることなのか、その価値をどちらに選択するかどうかで立場が異なってくるのである。政治参加に至高の価値を求めるのであれば古典的民主主義に近い立場となるであろうし、政治システムの安定を追及するのであればエリート民主主義に近づいてくるのである。
このようにして民主主義をとらえてみると、重きをおく価値の判断からその姿が変化を余儀なくされることが見えてくる。そしてその選択される価値はそれぞれの国家の持つ歴史的経緯、既存体制、時代的背景によって異なってくるのであろう。そうした意味で、民主主義というものにも絶対的な正解があるわけではなく、選択された価値による民主主義にもとづいて、いかなる政治参加システムを構築していくかということは国家国民において不断の努力がいるものなのである。
これまでの立憲主義、民主主義の論を踏まえて整理すると、立憲主義と民主主義が密接に関わっていることが理解できるであろう。立憲主義、つまり憲法に基づいた政治行為は憲法上で規定された民主主義の下に進められるのである。では憲法がいかなる意義を持つことで、国家にどのような影響を与えていくことになるのか。その検討を進めるにあたって、思考に刺激を与える考え方が憲法パトリオティズムである。
立憲主義が西欧発の概念であることは既に記したが、西欧的な政治文化の風土を代表する憲法への考え方として、憲法パトリオティズムをここで考えてみたい。ドイツの政治学者、ドルフ・シュテルンベルガーによって提示されたこの概念は、国土や民族、国民国家にではなく自由な共同体の政治的憲法そのものに国民の忠誠心と帰属感が向かうとするものである。ここでいう政治的憲法とは単純な法律の文言や原理ではなく、市民的自由や共和制の理念によって担われている市民の憲法という概念である。自由の神話、市民的権利をめぐる歴史的な闘いの系譜が憲法パトリオティズムの核心であり、そうして構成されてきた憲法とそれを支える愛国的感情とによって国家の一体性が保たれているとして普遍的な愛国心を規定するのである。端的に言えば、デモクラシーの政治制度を至高の価値として尊重し、多様な価値観を持つ社会の統合を担うものとするものである。とりわけこの概念を尊重したのが、ドイツの社会学者であるハーバーマスである。ハーバーマスによればデモクラシーと人権の普遍化という抽象的な理念こそ国民国家的な伝統、歴史的思考に代わるものであり、それこそが市民としてのアイデンティティを見出すものであるとする。さらにハーバーマスはいう、
「複雑な社会においては、市民全体はもはや価値についての実質的なコンセンサスによって結合されるのではなく、正当な法制定と正当な権力行使の手続きに関するコンセンサスを通してのみ結合することができる」
これこそがデモクラシーを支えるものなのである。よって国家は実体的な固有のものではなく、デモクラシーのもとに市民、大衆が諸制度の変更を続けていく動態的な共同体であることになる。このハーバーマスの挑戦的ともいえる憲法パトリオティズムという理念は統一ドイツの大統領となったヴァイツゼッカーにも大きな影響を与えた。ドイツという国家が持つ悲惨な過去、ヨーロッパの分割から統合へという歴史的な流れ、これらがドイツに憲法パトリオティズムという概念をもたらした大きな要因であろう。では日本の憲法を考えたときに、どのような歴史的な流れがあるのかを次にみてみよう。
日本における憲法を考えるにあたって、本来であれば大日本帝国憲法のあり方から洗ってみるのが正しい筋である。しかしここでは議論を散漫にさせないために、日本国憲法の制定に絞って考えてみたい。
かつて第二次世界大戦の終戦後、日本の占領政策について連合国側で協議を進める機関として極東委員会(FEC)がワシントンに設置されていた。その極東委員会では日本の憲法改正については、連合国側の代表の多くから、日本国民の民主主義の理解度合いについて疑問を呈す声が挙がった。日本人は民主主義を理解していない、要するに暫定的な憲法を制定し、その後数年後に改正も含めた国民投票を行うという意向であった。これにより、極東委員会としては新憲法制定後、時間を置いて見直すことを指示した。しかし最終的には米国主導のもと、GHQのイニシャチブによって日本国憲法が発布された後には結局再検討はなされることもなく、現在に至っているのである。その要因には平和憲法という当時の日本当時の社会状況においては画期的ともいえる概念にマスコミ、国民が異議を唱えなかったこともあるであろう。また米ソ冷戦の進展、南北朝鮮の対峙といった国際情勢が米国の対日政策に与えた影響が大きいことは厳然たる事実である。しかしこうした事実以上に、日本人における憲法を考えたときに、外すことができない感覚がある、それは「お上」である。現実の日本人の政治感覚、統治に対する感覚と表現してしまってもよいのかもしれないが、日本人には「お上」という、どこかDNAにまで刷り込まれてしまっているような感覚が存在することは否定できないのではないだろうか。
権力に対しての絶対的な正統性を与えるもの、かのマックス・ウェーバーは大衆民主主義において信任を得た政治指導者がそれを担うとしたが、日本にはそれを疑うまでに至ることはなく、厳然たる「お上」が存在した。ヨーロッパではその正統性を人民主権論、国家契約論といった観念を経ていくことで歴史的にこなしていったといえよう。米国においては自由と民主主義、人権主義を国家統合の基礎に置くことで、無から国家権力の正統性を構築していったのである。そこでは他民族、他人種の集合に適応する普遍的な理念こそが必要とされた。
振り返って日本においては、その歴史の中で権力に対して絶対的以上の正統性を任することができる天皇という存在があった。「お上」イコール天皇ではないが、お上の正統性を支えるのは天皇の存在であることは、イデオロギー論を除いても、歴史から証明される事実である。
その「お上」が現代の状況の中で批判にさらされていることもある。それはあるときは官僚制度への批判であったり、自民党支配の政治体制であったりと。もちろん「お上」という感覚が悪影響を与えている部分については積極的に改革すべきである。そしてその改革志向が時代的に国民からも支持を得ていることは先の選挙結果でも明らかであろう。ただ、「お上」という共通の価値、コンセンサスを持つことがこれまで可能となってきた日本人の特性について、私は興味を感じるのである。国民的一体感の喪失が叫ばれて久しくはあるけれども、今の日本でも他国に比較してみればその一体感は非常に高いものがあると考える。そして社会的連携性、紐帯、絆というものをより一層に求める声も国民からは高いことも事実である。要するに少なくとも一定の範囲で共通の価値、コンセンサス、ナショナルアイデンティティを持つことができる日本、日本人について私はこだわりをもっていきたいというのが主張である。結局のところ、国家にはそれぞれの成り立ち、歴史的経緯が異なることがあることを認識し、その国の独自性、言い換えるならば文明を生かすことがそもそもの国家統治の根本にあるべきであり、立憲主義という国家統治形態で単純に解決されるわけではないということをどこかに忘れていることが現在の憲法改正論議にみえる危うさではなかろうか。ここでいう文明とは文化、芸術といった情緒的なものだけではなく、脈々と国民の中で培われてきた気風、DNAの中に流れる意識、そして郷土愛、いわゆるナショナルアイデンティティなのである。文明力、ナショナルアイデンティティを再認識することがなければ、形式上の憲法改正に終始することになるのであろう。そうではなく、憲法改正論議は、日本人とはこんな国民であり、これからこうした国として永続していきたいということを明確化するきっかけとならなくてはならない。そしてそれは単純な懐古主義、偏狭な保守主義ではない。歴史的に蓄積した無意識の智恵や価値、叡智を呼び覚ますことから秩序のイメージを表出すること以外には、集団的な秩序の形成には相応の社会的犠牲と歴史的曲折が起こることを覚悟しなくてはならないだろう。
私の立場は、立憲主義を否定するものではない。例えそれが西洋に起源を持つ舶来の思想であっても、良いものは積極的に取り入れるべきである。ただ、社会の中にいかほどの価値観の多様化がみられるか、またその対立の度合いは国家、社会によって異なりうる。価値観の共有が一定にあるのであれば、立憲主義に基づいた憲法の枠組みも日本らしいしかるべき姿があってもよいのではなかろうかと考えるのである。
これまでの議論を通して、私は何を訴えたかったのであろうか。
今回の議論の中で比較材料として取り上げた憲法パトリオティズムはグローバリゼーションの流れの中で国家というものを考えるうえで大きな示唆を与えるものであった。憲法パトリオティズムには根無し草の地球市民を想起させる点がある。ただ、そこに示された寛容という哲学は、グローバリゼーションが進み、より不安定化する世界に何かのヒントを与えるものであることも事実である。しかし国家を実体的な固有の存在としてみるのか、市民社会のもとに制度が実現されていく動態的な過程とみるのか、この二者択一、最終的にはイデオロギーの選択ともいえる範囲に対して憲法改正を取り上げることによって不意に足を踏み入れてしまうことを、郷土を愛する一人の日本人として不安に思う。なあなあ社会で何が悪いのか、和を尊ぶ、それが日本なのだ、という開き直りがあってもいいのではないか、とふと感じたりするのである。日本には日本らしい国のかたちがあってよいはずだ、松下幸之助塾主のいうところの主座を保つということが、国家としての日本には必要だと考える。だからこそ私は批判を受けることは多分に承知のうえで、この日本において理想的な善を実現することを志向した政治に取り組もうと志したのである。それが比較不能な価値であるとは知りつつも、日本国民の中で共有することができる理想としての真・善・美があることを信じて。
憲法改正論議に話を戻そう。日本という国家の現状、一切の戦争放棄という特殊ともいえるくにのかたちを批判的にとらえ、抽象的な表現ではあるが、まるでファンタジーに包まれたかのような日本社会を立て直すための手段としての憲法改正という議論が傾聴に値することは間違いない。ただその憲法改正も目的達成のための手段ではなく、憲法改正が目的となってしまうならば、それこそ憲法改正というファンタジーに包まれたままに無為な時間を浪費するだけであろう。憲法改正の前に、レファレンダムの前に、まずは国家を議論したい、それが今回のレポートで訴えたかったことである。
<参考文献>
長谷部恭男 「憲法と平和と問いなおす」 ちくま新書 2004年1月
長谷部恭男 「比較不能な価値の迷路」 東京大学出版会 2000年1月
今井一 「『憲法九条』国民投票」 集英社新書 2003年10月
蒲島郁夫 「政治参加」 東京大学出版会 1988年12月
宮田光男 「《荒れ野の40年》以降」 岩波ブックレット2005年5月
佐伯啓思・筒居清忠・中西輝政・吉田和男
「優雅なる衰退の世紀」 文藝春秋 2000年1月
Thesis
Satoshi Takamatsu
第25期
たかまつ・さとし
衆議院議員/東京28区/立憲民主党