論考

Thesis

吉田茂 ‐日本の戦後を導いた宰相‐

安倍総理の誕生で戦後レジームの脱却が叫ばれる今、いわゆる戦後とは一体何であるのかが問われている。そして戦後歴代3位の在任日数を遂げた小泉総理が退任をした今、あらためて宰相というものについて考えるうえで、名宰相として評価されることの多い吉田茂の功績を取り上げてみたいと思う。

1.はじめに

 前夜から降り続いていた梅雨の前触れともいえるような雨が上がった5月16日、私は東京都町田市にある、武相荘なる館を訪れた。この館の読み方は「ぶあいそう」、そう、無愛想という表現に引っ掛けて名づけられたものである。この人を食ったような名前の館に住んでいたのは白洲次郎。昨今、戦後日本の早期独立と経済復興に歴史の黒子として活躍し、その格好の良い生き様が注目を受けている人物である。

 私はベストセラーとなった「白洲次郎 占領を背負った男 著 北康利」を読み、白洲次郎に惹かれて武相荘を訪れた。白洲次郎が過ごした家を拝見し、背筋の通った生き方に感銘を受けるとともに、ちょうどその日には、その北康利先生による白洲次郎についての講義も受講することができ、充実した一日となったのである。講義終了後、私が松下政経塾生という身分を明かし、いろいろと質問したところ、北康利先生はPHP研究所の佐藤本部長とも親交が深いということで、話も盛りあがっていった。

 そんな貴重な出会いを得たこともあり、白洲次郎が関わった、いわゆる日本の戦後、独立に至るまでの歴史を今一度紐解いてみた。そこでクローズアップされてきたのは、宰相吉田茂の政治家としての力である。白洲次郎が側近中の側近として仕えた吉田茂、白洲次郎はこのように吉田を評している。
「あのくらい純情で、あのくらい涙もろい人はザラにはいない。また、あれだけ頑固な人もいない。それにあれだけ自分の命というものに対して恐怖心をもっていない人も、ほんとうに珍しい」(白洲次郎「日曜日の食卓にて」より)。

 プリンシプル(原理原則)を持った男として評価が高い白洲次郎にしてこう言わせた吉田茂とはどのような人物であり、宰相として日本の戦後をいかに導いたのか。吉田の大きな功績の一つとして、1951年(昭和26年)、今から55年前の9月8日にサンフランシスコ講和条約を締結し、日本の独立を果たしたことが挙げられる。安倍総理の誕生で戦後レジームの脱却が叫ばれる今、いわゆる戦後とは一体何であるのか。そして戦後歴代3位の在任日数を遂げた小泉総理が退任をした今、あらためて宰相というものについて考えてみたいと思う。

2.吉田茂の人物と功績

 吉田茂の功績、これを端的に表現するならば、やはりGHQによる占領時代をたくみな戦略で乗り切り、戦後日本の復興に大きく貢献したということであろう。

 吉田の功績を代表するものとしてのサンフランシスコ講和条約が締結されるまでには様々なドラマがあった。後に首相となる池田勇人蔵相を米国に派遣し、当時の統制的経済のベースとなっていたドッジラインの手直しを狙った。またその際に合わせて日米の講和の可能性を探らせることも行ったのである。その内容とは、日本は早期講和を希望し、また米軍駐留への対応も柔軟に考えるというものだ。

 その後、米国国務長官の外交政策顧問のジョン・フォースター・ダレスが対日講和条約問題担当として訪日し、吉田と具体的に講和への検討を始める。中でも問題となったのは再軍備の問題である。ここで吉田は真骨頂を発揮する。再軍備という言質をダレスに与えないままに自衛隊の前身となる保安隊の設置構想を掲げ、サンフランシスコ講和条約への締結へとこじつけたのであった。

 サンフランシスコ講和条約については、日露戦争後のポーツマス会議に出席した小村寿太郎が非難を浴びたこと、そして国際連盟脱退の松岡洋右が賛辞を受けたことを引き合いに出して、サンフランシスコから日本に帰ってから批判を受けることを吉田は覚悟していたという。国のために正しいことをすれば、そのときには理解をされないが、後世にはその意味が理解されるであろうと。後に吉田自身は自著の中で、日本人の世論に踊らされやすいところに苦言を呈している。そのことは先の自民党総裁選挙の演説で、吉田茂の孫である麻生太郎外相もエピソードとして取り上げていたのが記憶に新しいところであろう。だが実際のところ、吉田はサンフランシスコ講和会議から帰国後、多くの万歳と日の丸に迎えられ、自分は運が良かったと述べたという記録が残っている。

 こうしてサンフランシスコ講和条約によって連合国との講和がなされたわけであるが、戦後すぐに講和が行われることなく、7年も続いた占領期から、連合国との講和に至った背景としてアメリカによる対日政策の変更が挙げられる。当初はマッカーサーが日本を太平洋のスイスにすることを目指したように、日本の武装解除、弱体化政策が推し進められた。

 しかしソビエトの共産主義が世界各国に触手を伸ばし、中国の共産党支配、朝鮮の対立、ドイツの状況、いわゆる冷戦が始まったのである。結果として日本を共産主義に対するアジアの防波堤とすべく、自衛権の保持へと至ったといえよう。今となっては共産主義が世界を席巻するということは信じられないことであるが、当時はそのような恐怖が現実にあったことをしっかりと認識しなくてはならない。戦後政治において吉田が闘ったのは反体制共産勢力であり、体制秩序を揺るがそうとする輩に対しては徹底した保守主義を貫いたのである。いまだに尾を引く戦後左翼思想、共産主義のプロパガンダはこの占領期の影響があることを現代の政治家もしっかりと頭に入れておかなくてはならない。後世が20世紀をどのような世紀であったのかを考えるときに、帝国主義から資本主義、対抗する共産主義の誕生、戦争によるファシズムの敗北、戦後の窮乏による左傾化があったものの、経済成長による自由民主主義の定着、社会主義の後退、ソビエト共産主義の崩壊という世界的な流れがあり、日本もその過程の中で国家の在り方を自問自答してきたといえよう。

3.日本の「戦後」

 昨今、吉田による戦後処理によって日本人の独立心が弱められ、アメリカ従属という日本独立の構造が出来上がったという論が多い。吉田には吉田ドクトリン、経済優先主義という大局的思考があったわけでもなく、マッカーサーの意図に応える中で結果的にそのようになったという論考も存在する。しかし当時の状況を考えれば、アメリカ軍の撤退を求めて自立、再軍備するということは現実論としてはありえない話であっただろう。歴史を考えるうえで大切なのは善悪論、二元論で区別をすることではなく、大きな時代の流れを客観的に見つめるなかでどのような結果が生まれていったのかを考えることである。

 吉田は「日本は敗戦によって国力が消耗し、痩せ馬のようになっている、このひょろひょろの痩せ馬に過度の重荷を負わせると馬自体が参ってしまう」として当時の経済状況の苦しさと考え合わせれば、再軍備よりも経済復興を優先したのである。吉田自身、国防とは国の実力に相応すべきものであり、相当の年月をかけて漸増していかねばならないと考えており、日米間において安全保障条約を結んで協力を得たとしても国辱ではないのみならず協力することは国の名誉にはなろうとも恥辱にはならないと断言している。

 ただ確かに再軍備に関しての経過に問題があったことは否定できない。吉田は昭和27年3月の衆議院予算委員会にて野党の質問に答え、「憲法第九条は国際紛争を解決する手段としての戦力を禁じてはおりますが、自衛のための戦力を禁止してはいません」と警察予備隊合憲論を唱えた。しかし、世論の批判を浴びたことによって、四日後には前言を撤回し、「自衛のための武力といえども再軍備であることに変わりはないので、武力の保持には憲法改正を必要とします」とした。これに対し、野党・改進党の芦田均が「憲法第九条は戦力、軍隊の保持、武力の行使または脅迫を禁じているが、これは国際紛争を解決する手段としてということである。これは侵略戦争を指している。したがって憲法は自衛のための戦争や武力行使まで否定していない。」という芦田解釈を打ち出し、これがその後の政府見解へとなっていった。再軍備問題、自衛隊の創設という流れの中で吉田が憲法第九条のあり方を歪めてしまったことは一つの事実である。また常に政治的論議に出される集団的自衛権の問題についても同様である。

 しかしこれについて私は吉田を責めることはできないだろうと考える。当時の状況下において最善を尽くした結果としてこのようにいびつな憲法論争が生まれた。これに決着をつけるのは吉田ではなく、あくまでも後世の仕事である。これらの問題について吉田はこのように言っている。「憲法第九条は、いわゆる不磨の大典の一条項として、将来に亘って変わらざる意義を持つものというよりも、どちらかといえば間近な政治的効果に重きを置かれた傾きがあった」と。要するに先の戦争において帝国主義日本、好戦的日本という諸外国が日本に持っていた、誤ったイメージの払拭に役立ったということである。ゆえにその歴史的使命は果たしたともいえる。そして吉田は更にこう言っている、「いつまでも他国の力を当てにすることは疑問であって、自らも余力の許す限り、防衛力の充実に努めねばならない」と。吉田にとって憲法改正は想定の範囲にあったのである。

 また付け加えるならば吉田は戦中にも陸軍に不快感を覚えていたからもわかるように、まずは日本にシビリアンコントロールを根付かせたかったともいえる。そしてアジア諸国を始めとした海外からの声にも配慮していた。このあたりは外交官出身の吉田らしい感覚である。

 戦後の混乱期の中、再軍備もせず、しかし戦力ではない自衛隊を保有し、自衛権も保持するという落とし所を作っていった吉田の戦略性を私は高く評価したい。政治とは結果で評価されるものである。であるからこそ、戦後60年にわたって日本が平和な状況にあった結果を認めなくてはならない。無論私自身も自衛隊が戦力ではないということを現時点で考えているわけではない。日本の中で自衛隊をどう位置づけるかについては、後世に託された仕事であると考える。それは吉田自身もそうしたことを後に言っている。安保条約などは一片の紙切れに過ぎない、当時はそれが最善だからと考えたからであり、将来のことは将来の世代が決めることであると。

4.宰相とは

 安倍総理の誕生によって、宰相とは何か、過去の宰相に点数をつける、そんな議論が最近なされることが多くある。吉田はそうした際にも高い評価を受けることが多く見られるが、そんな吉田の有名な言葉に、首相を引き受けた際に言ったとされる。「戦争で負けて外交で勝った歴史がある」というものがある。これは19世紀の大英帝国時代のイギリスを指したものとされている。まさにいかに負けっぷりをよくするか、そのことに吉田は心血を注いだ。再軍備による負担を拒否し、日米同盟を機軸に軽武装、経済重視のいわゆる吉田ドクトリンである。

 しかしこうした現実主義は南原繁の理想主義と対立し、連合国との一部講和ではなく全面講和を求める知識人、いわゆる左派との対立を招いた。全面講和の主張は共産体制の拡張と一体化した反体制運動であったとも受け取れ、それゆえに保守主義者にとっては闘わなくてはいけないものであった。それゆえ先にも述べたように吉田には米国一辺倒の従属的なイメージがついたともいえる。だが私はこのイメージが正しいとは思わない。むしろ吉田は誰よりも愛国に燃える一人の政治家であったのではなかろうか。

 後に吉田はこう語っている。日本はGOOD LOSER(良き敗者)だと。戦後の日本に起きたことは明治の日本においておこったことの再現であり、ある意味では明治の日本において始められたことの完成であったと。明治の日本人は維新において攘夷に敗れ西欧諸国の力を認めた武士達が文明開化を大胆に取り入れた。同じように戦後の日本人は敗戦と占領という自体を男らしく迎え、民主主義と経済発展を成し遂げた。

 作家の渡部昇一先生は日本のことを戦争には敗れたものの、経済発展という目的は達したのであるから、最終的な勝者は日本なのであると語る。歴史という大きな物差しの中ではそのような視点もあってしかるべきであろう。敗戦にうちのめされた戦後日本を救ったのは戦勝国から敗者の実利を引き出した吉田の手腕であった。日本人の矜持を保ち、マッカーサーのコントロールをたくみにやってのけたことは名宰相として賞賛されるべき業績であるだろう。

 また、吉田を語るうえで外すことができないと思われるのが、以下のエピソードである。

 吉田は昭和21年5月19日に行われたメーデーにて、天皇に対して侮辱的なプラカードを掲示したものを不敬罪で告訴するとともに、マッカーサーに対して、国民の尊崇の中心である天皇への暴力的行為は国家破壊に等しいとして大逆罪の残存を要請したのである。しかしマッカーサーは新憲法下においては、万人は法の下に平等だとして大逆罪の廃止を命じた。しかしそれほどまでに吉田は天皇への思いを持っていたといえる。戦後に天皇退位論が出たときにも断固として反対をした。アメリカの占領統治をたくみにかいくぐった吉田の根底にあったのは天皇制護持であり、吉田の原理原則であったといえよう。後に皇室を尊崇するのが人倫の義であり、社会秩序の基礎であるとも述べている。戦後を語るうえで天皇制護持という伝統的保守思想が結果として日本の繁栄を招いたことは忘れてはならない事実である。

5.おわりに

 吉田は戦後、経済発展を遂げた後の日本は日露戦争後の日本と似ているという。日露戦争後の日本は西欧諸国に対抗し、帝国主義の中での国家存亡に勝ち抜くという目的を達成した。しかし新しい目的を探求することなく、目的を失い、誤った方向に迷い込んだとする。戦後の日本も経済発展を遂げた後、日本が背負うべき責任を回避し、そのすぐれた能力に目的を与えないならば同じような危険が存在する。日本人は戦争前から戦争中にかけて、使命感を持ちすぎたため、その反動として何も信じないという極端さがあったのではないか。これからは自信を回復し、世界に目を向けて日本のなすべきことをなすことに目覚めるべきだと。

 こうして吉田が築いた戦後日本の礎に、真に日本らしいくにのかたちを創っていくこと、それこそが保守としての政治であると考える。保守を自認する人間として、日本の弥栄にしっかりと貢献をして参りたい。

以上

<参考文献>

吉田茂 「日本を決定した百年 附・思い出す侭」 中央公論新社 1999年12月
原彬久 「吉田茂」 岩波書店  2005年10月
保坂正康 「吉田茂という逆説」 中央公論新社 2000年8月
小倉和夫 「吉田茂の自問」 藤原書店  2003年9月
岡崎久彦 「吉田茂とその時代」 PHP研究所 2002年8月
田原総一郎 「日本の戦後 上」 講談社  2003年9月
北康利 「白洲次郎 占領を背負った男」 講談社  2005年8月
産経新聞取材班「戦後史開封」 産経新聞社  1995年1月

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高松智之

第25期

高松 智之

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