論考

Thesis

遥かなるインド(1) アラハバードの農村から

8月2日(木)

 牛、自転車、トラック、三輪自動車・・・・・・。空港を一歩出ると、路上ではありとあらゆるものが行き来している。そう、インドに着いたのだ。ここでは人間も動物も、わずかな隙間を見つけては自分のペースで進んでゆく。すると突然、道路沿いの商店からゴミの詰まったビニール袋が飛んでくる。ゴミはそのまま自然に帰すのが流儀らしい。よく見れば道の両側にはたくさんのゴミが散乱している。デリー市の中心部に近づくと、牛の姿も見えなくなり、代わりに自動車がひっきりなしに行き交う。映画館の前には人だかりができ、見渡せばマクドナルドの看板も見える。洗練されているとはさすがに言い難いが、かなり都会的になってくる。空港からの道は、今まさに大きく変わりつつあるインドの姿そのものである。

8月3日(金)

 デリーからアグラへ。道路はかなりきれいに整備され、80Kmから100kmくらい出しても快適に走れる。ここはインドでも交通量の多い幹線道路で、トラックもひっきりなしに通る。乗用車では、小型の車が多い。スズキ、ホンダなど日本ブランドの車もよく見かける。スズキは、かつて80%のシェアを誇っていたという。現在ではその割合を低下させているものの、それでもまだ約半数のシェアを握っている。日本車と並んで、デーウ、ヒュンダイといった韓国車も多く見かける。最新型の車に混じって、馬車、牛車、らくだ車、さらには象の姿も見られるのが、いかにもインドらしい。

8月4日(土)

 アグラ。タージマハルで有名なこの町には、観光客相手の商売で生計を立てている人も多い。カーペット店、宝石店、大理石細工店などなど。それぞれ店の前で作業工程を見せていたりする。観光名所の入場料は、インド人料金と外国人料金に分かれている。タージマハルなどは、960ルピー=20ドルもする。インド人と外国人で料金が違うのは一見フェアでないようにも見えるが、所得水準と比べてみれば、外国人料金を設定するのにも正当な根拠がある。夕方、デリーに戻る。アラハバードへと向かう夜行列車に乗り込む。

8月5日(日)

 夜行列車のなかで、空軍で気象関係の仕事に従事しているという人と同室になった。彼は日本のことをよく知っていて、私の名前は「ヒロシ」だと自己紹介すると、「ヒロシマ」から「マ」をとった名前だねと応じた。インドでは、「Love in Tokyo」という映画や、「おしん」なども有名だと教えてくれた。彼はさらに、サハリンは日本の領土で、ロシアが不当に占領しているのだと語っていた。この後旅行を続ける中でも、私が日本人だとわかると、「ヒロシマ」、「Love in Tokyo」、さらには「戦場に架ける橋」などのことを話しかけてくる人たちが何人かいた。一夜明け、5日の早朝、アラハバードに到着。インドでは列車の遅れも珍しくないと聞いていたが、定刻より早く到着。アラハバードで30年来農村開発に関わっている牧野一穂、由紀子夫妻と会う。これから一週間、彼らと一緒に活動させてもらうことになっている。

8月6日(月)

 アラハバードでの活動初日。牧野一穂氏は、アラハバード大学のノン・フォーマル・エデュケーション・センターで学部長をしている。ここでは、将来農村のリーダーとなるべき人たちに、1年間のプログラムで農業と農村開発を指導している。通常のプログラムだと時間もかかる上、学歴も必要となってくる。そこで農村の即戦力を短期間で育成するため、「ノン・フォーマル」な教育をしているのだ。午前中の授業は農薬散布。最初に薬品についての講義を受けた後、田に出た。薬品を計って調合した後、圧縮空気のボンベで散布。交代で実習する。午後の授業は、微生物について。役に立つ微生物から体に悪い「カビ」まで、いろいろな種類があることを習う。その後は顕微鏡の使い方。夕方からは、農村開発の授業。ここで学ぶ彼らには、自分の村に帰った後、村の発展をリードするという使命が与えられている。しかし教育を受けたこともない村人たちに農業技術を教え、意識を高めるというのは簡単なことではない。そこで彼らは、村人たちに自分の学んだ技術を伝える方法も学ぶのだ。持続可能な発展のためには、自分の知識を人に伝える方法を学ぶことは欠かせない。

8月7日(火)

 2日目。この日は農村に出て水質調査をする。これはClean Villege Initiative (CVI)といって、農村リーダー育成プログラムとは別のプロジェクト。CVIプロジェクトでは、農村で清潔な飲料水を得ることを可能にするため、ハンドポンプの設置と維持管理を行っている。水質調査もその一環である。CVI担当のヴァーギス・マシュー氏と共に、農村へとジープで出かけていく。この日は6カ所をまわった。道路はもちろん未舗装。土のでこぼこ道を進んでゆく。集めたサンプルは大学内の研究所に持ち込まれ、分析される。彼らはこれまでに152のハンドポンプを設置したそうであるが、そのすべてが現在も稼働しているという。その理由は、彼らがハンドポンプを無料では設置しないことにある。まず20家族ごとにコミュニティーを組織し、1家族あたり120ルピーを支払ってもらう。こうして集まる2400ルピーはハンドポンプ設置コストの1割程度ではあるが、村人たちには自分たちでお金を払って設置したという意識が芽生える。よってハンドポンプも大切にする。設置後2年間の間に修理技術などを学んで、その後は完全に自分たちで維持管理している。援助を有効なものとするためには、その成果を持続可能なものにすることが不可欠であるが、そのためには村人の自立は欠かせない。ただ設置するだけではなく、その後2年間かけてコミュニティ育成、技術移転などをする事が、非常に重要なのである。

8月8日(水)

 3日目。苗木を売りに行く。仕入れた苗木を半額で村人たちに販売する。ここでも、無料では提供しない。仕入れ額と販売額の差額はオーストラリアからの援助でまかなっている。苗木を育て、得られた果樹、材木を売ることで、村人たちが現金収入を増やすことを可能にするプロジェクトである。マンゴー、グァバ、ザクロ、ブドウから、ユーカリ、チークなどの苗を車に積み込み、農村をまわる。この担当はミシュラー氏。彼はヒンズー最高位のブラーミン(バラモン)で、地元は彼の庭のようなものである。いたるところに知り合いがいて、彼を見つけるとどんどん苗木を買っていく。プロジェクトはそもそも貧しいアウトカーストの村人たちを援助の対象としているが、ブドラーミンという担当者のカーストが援助の有効性に一役買っているのは、皮肉なものである。

8月9日(木)

 4日目。村の学校をまわる。この学校も援助プロジェクトの一環でできたものである。校舎を持っているものから、民家の軒先を借りているものまで様々であるが、ここで3~6歳くらいの子供たちが読み書きを習っている。学校をまわって様子を見るとともに、チョークがなくなったとかカーペットが欲しいなど、教師たちの要望を聞いてまわる。ちょうどこのときは8月15日の独立記念日を控えていたため、お茶とお菓子を買うための資金も同時に配った。子供たちは各自小さな黒板をもっていて、そこに泥水をペンにつけて字を書いていた。村をまわる途中、英国統治時代に飛行場として使われていた場所を通る。そこには大量の穀物が野積みで備蓄されていた。

8月10日(金)

 5日目。引き続き学校をまわる。途中の村々は、日本的な感覚でいえば確かに貧しい。しかし、飢えで今にも死にそうになっているとか、ゴミ捨て場で食料をあさっているというようなことはない。村人たちは村人たちのペースで、確かに生きている。問題は貧しさそのものではなく、チャンスにふれる機会がないことである。質の高い教育を受ける機会も限られているし、コミュニティの範囲を超えて交流する機会も限られている。援助する側に求められているのは、彼らに発展のチャンスを提供することである。

8月11日(土)

 6日目。初日をともに過ごした生徒たちと共にフィールドワーク。この日は田に入り、苗が根付かず欠けてしまったところに、新しい苗を植え直す。こうして彼らは、農業技術を学んでいくのである。農業のサイクルを一周するのに1年かかるので、彼らのコースは1年間必要なのである。生徒たちは有機農業を学んでいるが、それは日本のように有機野菜が珍重されるからではない。肥料を買ったりするにはある程度の資本が必要なので、ローコストでできる農業を学んでいるだけなのだ。インドを考えるのに、日本の視点でものをみてはいけない。インドはインド。まずはそれを認めた上で、われわれのニーズとどう結びつけられるかを考えることが必要である。

 

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原田大の論考

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