Thesis
今回は、「技術の政治学」の理論から環境配慮型社会を目指すことの意味を論じてみる。民主的で分権的な社会、かつ人間性を大切にする社会をを実現するためには、環境問題に取り組むことが一つの重要なアプローチとなる。
ラングドン・ウィナーはその著書『鯨と原子炉』のなかで、次のように述べている。「何世代も持ちこたえる公的秩序の枠組みを確立する立法行為または政治的な土台作りと、技術革新は似ている。」
政治・立法による社会の土台作りと技術と技術革新が似ているとはどういうことか?。それは、ある特定の技術は、その技術自体が内的力学をもち、社会をそれに沿って形作るということである。わかりやすいように具体例を見てみよう。核技術が中央集権的、管理主義的社会を必要とする、あるいは強く指向するという例である。
核エネルギー、特にプルトニウム利用の危険性を論じる論争は今も昔も盛んであるが、よく言われる反対の根拠は、経済的コストの大きさ、環境汚染の危機、核兵器の拡散である。これに対してウィナーは市民的自由に関連する危険を指摘する。つまり、燃料としてプルトニウムが広く使われるようになった場合、盗難を防ぎ、あるいは盗まれた場合に取り戻すために、特別の手段を講じなければならない。そのために原子力産業の労働者も普通の市民も、経歴調査、行動の監視、電話・E-メールなどの盗聴、密告などの非常手段に服さなければならなくなる恐れが十分あるというのである。そしてこのすべての(恐らく国家による)行動は、プルトニウム防護の必要性によって正当化されるのである。
技術はそれ自体が価値・哲学を含み、決して中立でないということを認識することは非常に重要なことである。まだまだ技術自体は中立で、問題は技術が埋め込まれている社会・経済システム、あるいは人間自身にあるということを前提としている議論が一般的である。しかし程度の差はあっても、ある特定の技術はその技術に適した一つないし複数の社会システムを好み、多くの場合実際に社会はそれにそって形作られる場合が多いのである。
IT技術について考えてみよう。IT技術の急速な発展がIT“革命”といわれるのは、産業革命以降の19世紀・20世紀的な科学技術によって築かれた社会システムに変更を迫っているからである。つまり、IT技術はある特定の社会システムシステムを指向するような技術であって、どのような社会システムの中にも、システムの変更を要することなく溶け込んでいく技術ではない。
われわれは「技術の支配」にのように向かい合えばいいのか?その答えの一つは、どのように生きたいか、どのような社会にしたいのかという人間自身の価値観を明確に持つことである。そして技術を良く知り、社会システムの中にどのような方向へのプレッシャーが働いているのかを理解することである。例えば最近メディア・リテラシーの必要性が叫ばれることが多いが、本当に必要な能力はメディア技術のもつ指向性を理解することである。けっしてキーボードのたたき方やサーチエンジンの使い方に秀でることではない。
環境配慮型の社会を創造しようとした場合、民主的で分権的な社会、かつ人間性を大切にする社会を求める価値観は伴ってついてくるものである。そしてビジョンをもって現実を見つめたとき、様々な技術の持つプレッシャーを理解することができる。そうして初めて、どのようにして行動したらよいかを考えることができるのだ。
Thesis
Dai Harada
第21期
はらだ・だい
Mission
地域通貨を活用した新しい社会モデルの構築 環境配慮型社会の創造