Thesis
『世界がもし100人の村だったら』というメールでインターネットを駆け巡った話が、本としても話題になっている(注1)。この話は、世界全体を一つの村と捉えた上で、52人が女性、48人が男性といった具合に使用言語、経済格差、教育水準などのデータを100人中何人という形で示したものであった。2002年1月31日現在、本の売上は60万部を越えたそうである。類似の本なども出始めている(注2)。また、これと類似の発想で制作された国連開発計画のコマーシャル・フィルムが、2001年度カンヌ広告祭で金賞を獲得したことも記憶に新しい。
この『世界がもし100人の村だったら』、という発想法は、地球環境政治を考えたときに大変有用な世界の認識方法である。地球環境政治を考える際には、社会全体と人間一人ひとりの関係をどう捉えるかが大変重要な意味を持つ。環境に配慮するとは、人間一人ひとりを大切にすると同時に、社会全体の調和も考えることである。すなわち個人を発想の原点にすると同時に、地球全体を考えた場合に問題を外部化して処理することはできないこと認識することである。「100人の村」発想法は、こうした認識を容易にするものであって、新しい時代の価値観を求める人たちの心にぴったりと響くのである。
日本で21世紀のヴィジョンが語られる際、よく用いられる対比は、「大きな政府」対「小さな政府」、あるいは全体が幸せになれば各構成員も幸せになるはずという考える保守勢力と、一人ひとりが幸せになれば全体も幸せになるはずというリベラル勢力の対比である。しかしながら、環境問題に取り組み、持続可能な発展を追求するためには、このどちらも適当ではない。大きな政府が社会全体をコントロールすることは現在では到底できないし、小さな政府が各人の幸福追求を放任すれば、地球環境のように全員で許容量を守って使用しなければ守られない資源は過剰に使用されてしまう。よって、私たちの住む地球の環境を守り、持続可能な社会を目指すには、一人ひとりの幸福追求を認めつつも、これによる環境の破壊には、政府などの公的性質の強い主体が積極的な役割を果たすことが求められる。ここで、真の意味で一人ひとりの幸福追求を尊重するとは、すなわち他人が他人なりの幸福を追求することを、お互いに尊重することである。政府の役割は、お互いの配慮を具体的な形にすること、あるいは積極的に合意を形成することである。こうしてあくまでも発想の基本単位を個人におきながら、全体の調和をも同時に考える発想法をここでは環境配慮型価値観と呼ぶことにする。
「100人の村」発想法の長所は、環境配慮型価値観の基本となる概念を含んでいることである。その概念とは、社会システム全体の利益保全と、個人の利益保全の両立であった。また、「100人の村」発想法の短所は、世界を絶対数ではなく相対的な比率で捉えたことにより、絶対数で考えれば十分大きな集団をも切り捨ててしまう傾向であるが、これは後で述べるように、「1人」を割合としてではなく存在と考えることにより、補われている。
「100人の村」発想法の長所は、環境配慮型価値観の基本となる、社会全体の利益保全と個人の利益保全の両方が含まれていることである。すなわち、「100人の村」発想法においては、第一に、国家の総計として世界を捉えるのではなく、地球全体を一つの単位とする発想を容易にしている。「100人の村」発想法では世界を一つとして扱い、その中のバラエティについて言及する方式をとっているが、通常の統計では国ごとの数字を単位とし、世界を一つとして捉えることはない。この点が新鮮さと魅力をもっているのである。類似品として出てきた、「もし日本が100人の村だったら」というものには、もともと日本を一つとして考える人が多いゆえに、この驚きが欠ける。 第二に、100人という数を設定したことにより、人が日常生活を例に具体的に考えられるようにしている。それ以上に、単位がパーセントではなくて「人」であることにより、余計に身近なコミュニティのレベルで考えられるのである。「環境」を大切にするとは、周囲の人間一人ひとり、周囲に存在する物一つひとつを大切にすることである。この観点から、ともすると無味乾燥になりがちな統計数字を、自分と同じコミュニティに属するほかの人の状況として扱ったこと、つまり「人」という単位を用いたことが、魅力となっている。
こうした長所もある反面、「100人の村」発想法には、世界人口の1%に満たない集団を切り捨てる結果になるという短所がある。世界人口を62億人とすれば、6200万人以下の集団は、「100人の村」にいれてもらえなくなってしまう。また逆に、「100人の村」で2、3人にしかならないから、たいした数ではないと考えてしまう危険もある。「100人の村」での2、3人は、実際には1億2400万人から1億8600万人もいるのに、である。これは、地球村の人数を100人に限ったための副作用であり、「身近に把握しやすい」という長所と裏腹の関係にある。しかし、ここで人数を100人としたことがこの副作用を幾分和らげる効果を果たしている。すなわち、100人くらいのコミュニティならば、仲の良し悪しは別にして、誰もが顔見知りとなっているであろう。もし顔見知りならば、100分の1人や2人だからといって、無視はしないはずである。「100人の村」のオリジナル・バージョンでは村人の数は1000人だったと言われているが(注3)、1000人だったなら半分以上は知らなくても不思議ではない。よって、「100人の村」のような親近感は沸きにくく、よりパーセントという単位による無味乾燥な把握に近づいてしまうであろう。「100人」と敢えて数を区切ったことで、逆に少数者をも無視できないような感情の動きをつくり出しているのではないか。地球環境について一人ひとりに考えてもらう大前提は、地球の状況についてわかりやすく、感覚的にも理解が容易な方法で認識してもらうことである。認識法は大変重要なのである。
世界の現状を描くとき、絶対数で描くか相対的な割合で描くかにより、大きく様相が異なって見えることがある。絶対数で描く場合でも相対的な割合で描く場合でも、それぞれに一長一短がある。絶対数で描いた場合、その集団に対しては意識が集中するが、逆にその他の集団に対する意識や、全体の中での位置付けが曖昧になる可能性がある。相対的な割合で描いた場合、全体像はよくつかめても、個々の存在が軽く扱われてしまう危険性がある。環境配慮型価値観からすると、個々の存在を尊重しつつも、全体を捉える努力をしなくてはならない。この一件矛盾するように見える双方の両立を図るには、相当な用心か新しい認識方法が必要となる。その点。「100人の村」発想法は、新しい社会の認識方法として、かなりいい線を行っているのではないだろうか。
人も自然も含めた周囲のものに配慮すること、すなわち環境に配慮すること。その際に、一人ひとりを発想の基本単位として考えること。そしてそれと同時に、「コモンズの悲劇」を引き起こさないように、全体のことを自分のことのように考えること。これらのことが、自然環境にも優しく、そして何より一人ひとりの人間に優しい社会へ向けての基本的な考え方となる。このような環境配慮型価値観という観点から考えた場合、「世界がもし100人の村だったら」という発想法はぴったりと人々の感情にはまるのである。
注1 池田香代子再話、C.ダグラス・ラミス対訳、『世界がもし100人の村だったら』、2001、マガジンハウス
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4838713614/qid%3D1013347626/250-3691183-5400203
注2 吉田浩、『日本村100人の仲間たち』、2002、日本文芸社 など
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4537250887/qid=1013347726/sr=1-1/ref=sr_1_0_1/250-3691183-5400203
注3 環境学者、ドネラ・メドウズ博士のエッセイがオリジナルとされている。メドウズ氏は、『成長の限界』(日本語版は1972年、ダイアモンド社)の共著者としても知られる。
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4478200017/qid=1013347815/sr=1-1/ref=sr_1_2_1/250-3691183-5400203
Thesis
Dai Harada
第21期
はらだ・だい
Mission
地域通貨を活用した新しい社会モデルの構築 環境配慮型社会の創造