松下政経塾 The Matsushita Institute of
Goverment and Management

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人間観
2005年1月

塾生レポート

良寛和尚の人間観
橘秀徳/卒塾生

幼い頃より、言い伝えを聞いてきた良寛和尚。毬付き、かくれんぼ、子どもと遊ぶ素朴でやさしいイメージが一般にはあるが、実際には禅を極め、厳しい人間観を持っていた。良寛和尚の生涯を振り返りつつ、その人間観について考え、松下政経塾生のあり方、自らの卒塾後に思いを馳せた人間観レポート。

 

一.私の「良寛様」像

 越後蒲原郡小池村(現在の新潟県燕市)にある浄土真宗寺の長女として生まれた祖母は、幼い私に、時折「良寛さま」の話をしてくれた。

 托鉢をしに里に出てきたのに、子ども達と毬付きで遊んで一日を過ごしてしまったとか、隠れんぼをしている時に、夕方子ども達が家に帰ったことに気付かず、いつまでも隠れていたとか、泥棒に入られた際、何も盗るものが無いと哀れみ、煎餅布団をやったとか、その素朴な人柄、子ども好きを表すエピソードが多かった様に思う。

 良寛様が良く子ども達と遊んでいたという地蔵堂は小池村から近く、昔からあるという道地蔵堂線がある。良寛様が亡くなったのは、1830(天保2)年。私の祖母は1913(大正2)年生まれだから、祖母の幼少期には、まだ様々の出来事が語られていたのだろう。

 私に息子が出来た時、父は「良寛(よしひろ)」と名付けることを提案した。少し怖れ多い気がし、「寛」の一字だけ拝借し、祖父「虎五郎」から一字もらい、「虎寛(とらひろ)」と名付けた。虎の様に強く、良寛さんの様にやさしく、寛容であって欲しい、そんな思いで名付けた。

 私はこれまで子育て支援をテーマに保育園や幼稚園で現場実習している際、思わず何で来ているのかを忘れ、ひたすら子ども達との遊びを楽しんでしまうことが多くあった(そのために研修先で御迷惑をお掛けした)。お酒が大好きなところ、煙草を呑むところ、そして自分の名字と同じ橘屋に生まれたところ、さらには家業を継がない親不孝者など、勝手に似ていると思い込み、親近感を抱いてきた。

 ところが、最近良寛さまの関係書籍を読む内、どうやら私が抱いてきた良寛さん像とは大きく違う求道者、高僧であるということに気付いた。自分とは大違いで、良寛和尚はほのぼのと寛容なだけではなく、実に厳しい修行を積み、厳しい人間観を持っておられたことがわかったのである。文献や和歌により、和尚の人間像を追ったが、戸惑うこと、わからないことだらけで、未だ人物の半分もわかっていない。今回は、不十分な理解ながら敢えて、この良寛和尚の人間観について、論を進めたい。

二.良寛和尚の生涯(概要)

 良寛和尚のことを周囲に話したところ、塾生を始めとして、ほとんど知る人がいなかった。まずは、良寛和尚の一生を紹介したい。

名主の跡取り息子

 良寛和尚は今からおよそ250年前の1758(宝暦8)年12月、越後出雲崎の名主で、人社の神官も兼ねていた橘屋山本以南を父に、秀子を母に生まれた。幼名は栄蔵。次男であったが、長男が夭折したため、名主の跡取り息子として育てられる。

 幼少時はとても本が好きで内向的、不器用であったと伝えられている。ある時、怒られて上目遣いでみていたところ、父親から「そんな目をしているとカレイになってしまうぞ」と言われて家を出たまま、夕方になっても帰ってこない。母がやっと探しあてると、海の岩場にいて、「そんな所で何をしていたの?」と尋ねると、「僕はまだカレイになっていない?」と返したと伝えられている。のんびり、おっとりというか、一風変わった子どもであったと伝えられる。

 15歳で元服して名を文孝と改め、18歳で名主見習い役となる。しかしながら、橘屋跡取りの立場を放棄し、突然出家してしまう。

出家

 出家の理由を御本人は残していないので、推測するしかないが、研究家や言い伝えには以下のものがある。

(1)罪人の死刑執行に名主見習いとして立ち会い、無情を感じたため
(2)当時新興の京屋との争いが続き、抗争に嫌気がさしたため(事実父以南の代から没落)
(3)漁民と代官の争いの仲介が出来ず、名主役が果たせないと考えたため
(4)妻を迎えたが離婚したため
(5)友と大酒を呑み、大金を使い果たして、寺に駆け込んだ

 他に生来出家をして、仏道を極めたいという願望があったとする説もある。いろいろな要素がありながらも、この最後の説が一番の理由であったのではないかと私は推測している。

禅寺修行時代

 18歳で出家した後、4年間を出雲崎光照寺で過ごし、越後に来た高僧国仙和尚に従って得度、僧名「大愚良寛」となった。国仙和尚が住職を勤める備中(岡山)玉島の曹洞宗円通寺に赴き、厳しい禅の修行を積む。

 私は松下政経塾の研修で鎌倉の円覚寺に参禅したが、僅か一泊で音を上げた。この禅修行を数年間も真摯に行うことはいかに大変であったであろうか。

 「大愚良寛」は十年余もの修行を積み、33歳の時に死期を悟った師匠国仙から次の様な印可の偈を受ける。

良寛庵主に伏す
 良や愚なる如く道うたた寛(ひろ)し
 騰騰任運 誰か看るを得ん
 ために附す山形爛藤の杖
 到る処 壁間 午睡の閑なり
【現代語訳】

 良よ、おまえは一見愚かそうに見えるが、そうではない。辿りついた仏道は既に広々とした所に出ている。あくせくせず、運を天に任せているが、そうしたことを誰がわかっているだろうか。私は今印可の一本の杖を与えよう。この杖を持って旅に出よ。どこに行こうと良し、ただこの杖を壁に立てかけておけ。昼寝をしていても良い。

 国仙和尚は自分の死後、次の住職が必ずしも愛弟子良寛の良さをわかってくれないと思ったのか、あるいは良寛にあった修行を進めたのか、寺に留まらずに諸国行脚をすることを勧めた。

 その教えに従って、諸国行脚の旅に出る。

諸国放浪の時代

 35歳から数年間の諸国放浪の時代の足跡はつまびらかではないが、その一端を知る資料として、近藤万丈の「寝覚の友」の記述がある。長いので、以下に要旨だけ記す。

 私万丈がまだ若かった頃、土佐の国で山の麓の破庵で暮らす僧に雨宿りを乞うた。僧は青白い顔をし、ひどくやせ痩けている。二晩とめてもらったが、初めに口をきいたきりで何も言わない。気違いかと思った。
さて改めて庵を見ると、書物が一冊あるほか、何も蓄えもない。聞くと、「荘子」であるという。漢詩を草書で書いた紙があったが、見事な書である。乞うと、絵を描いてくれて、最後に「越後の産了寛書す」と書いた。
なお、この放浪の時代に父橘屋以南は、京都桂川で入水自殺を遂げている。
越後に帰る

 そうした放浪の時代を経て、39歳で帰国している。最初は郷本の塩炊き小屋に住んだのを皮切りである。雪深い国上山五合庵では約二十年間住んだ。老齢が進むに連れ、59歳で乙子神社に移る。この間の様々なエピソードは、冒頭述べたとおりで、子ども達との毬付き、隠れんぼなどのユーモラスな話が今でも語り継がれ、数多く残されている。最初は警戒していた人々も接する内、老僧の人柄、人格の温かさ、高尚さに触れ、次々と信奉者を増やしていく。しかし、説教はしない人だったという。

 いよいよ老齢が進み、69歳で島崎(和島村)の木村家に移住。この木村家での貞心尼との交流は「はちすの露」で見ることが出来る。今から175年前の1830(天保二)年、74歳で逝去。

三.良寛和尚の人間観

 語りたいことは様々あるが、誌面の制約もあり、世上思われてきたイメージと違う部分をここでは記していきたい。さらに自分が教えていただいたと思うところを書いていきたい。

1.自分は何者か問う――自己観照

 自由で浪々の身であったと良寛和尚を誤解してきたが、実は自分を厳しく見つめつつ、厳しく修行していたことがわかった。円通寺での厳しい禅修行時代、そして諸国を放浪中の時代、さらには越後で帰ってきた後でさえも、実は自己観照の修行を課していた。漢詩や和歌を読むと、その一端が見えてくる。
備中玉島の円通寺での修業時代をこう詠んでいる。


 憶うに円通に在りし時
 恒にわが道の孤なるを歎ぜしことを。
 柴を運んで?公を懐い、
 碓を踏んで老盧を思う。
 入室あえて後るるにあらず
 朝参常に先んず。
 (以下略)
 【意訳】
 円通寺の修業時代、私は常に自分の分別が他の人とは違うことに嘆いた。
 柴を運んでは?公を思い、石臼を踏んでは慧能大師を思った。
 参問のために師の部屋へ入室することや、朝の参禅に遅れをとることはなかった。

 また漂白の身の中でも「我何するものぞ」といった自己を見つめる、考える漢詩を多く残している。次の漢詩は私が大好きなものである。


 我が生 何処(いずこ)より来たり 
 去って 何処にか之く
 独り蓬窓の下に座して
 兀々(ごつごつ)静かに尋思(じんし)す
2.厳しい人間観に裏打ちされたやさしさ

 良寛和尚の越後でのエピソードは、本当に心温まるものばかりであるが、この優しさがどこから来るのか。私には実は厳しい人間観、あるいは人間観察に裏打ちされたものに思えてならない。

(1)修行仲間への厳しい目

 江戸中期の当時、キリシタン禁制のため、寺社制、本末社制がしかれ、寺社は幕府の庇護下におかれていた。このため、腐敗の時代だったとも言われている。

 良寛様は、仏道の志のためでなく、立身出世のために出家してくる同僚達を大変厳しい目で見つめていたようだ。


 我出家の児を見るに
 昼夜みだりに喚呼す
 ただ口腹の為の故に
 一生 外辺の鶩となる
 白衣の道心なきは
 猶尚是れ恕すべし
 出家の道心なきは
 之れその汚れを如何せん
 ・・・・
 たとい乳虎の隊に入るとも
 名利の道を踏むことなかれ
<僧伽(そうぎや)より抜粋>
 私が見るところ近頃出家して来る者は
 昼夜みだりに説教をしたり喚いているだけだ。
 ただ生活の糧を得るためだけで、まるでアヒルのようだ。
 在家の人であれば仕方が無いが、出家した身で志がないのは、
 心が汚れていてどうしようもない。
 ・・・・
 たとえ、子持ちの虎の穴に入っても
 名誉や利得の道を行ってはいけない。

何と厳しいことか。驚くばかりであった。
自分の人物を見る目が出来ていなかったとして、次の様に自分を責めている詩もある。


 仙桂和尚は真の道者
 黙して言わず 朴にして容らず
 三十年国仙の会に在りて
 参禅せず 読経せず
 宗文の一句もいわず
 園菜を作って大衆に供す
 当時 我れ之を見て見ず
 之に遇い 之に遇うも遇わず
 ああ 今之に効わんとするも得べからず
 仙桂和尚は真の道者
 【意訳】
 仙桂和尚こそ真の道者であった
 黙って語らなかった。素朴で飾らなかった。
 三十年間国仙和尚の元で修行していたが、
 参禅もしないし、経も読まない、説教もしなかった。
 寺庭で野菜を作って、皆に出していた。
 円通寺で修行していた当時、私はこの人を見ていて見ていなかった。
 この人に会っていたのに、会っていなかった(真価がわからなかった)。
 ああ、今仙桂和尚に倣おうとしても出来ない。
 仙桂和尚こそが真の道者である。
3.愛語と戒語

 良寛和尚が、曹洞宗始祖道元の「正法眼蔵」を熟読されていたと伝えられているが、中でも特に「愛語」の文章を好んだという。慈悲の心を持つとか、やさしい、愛するとか、そういう言葉だけを使い、乱暴な言葉、憎む言葉を使わないことが、菩薩に至る道であるという考えである。

 愛語を守るためというべきか、良寛和尚は実に九十箇条にのぼる「良寛禅師戒語」を遺している。例えば、「知らぬ道を知ったげに言う」「人の言うことを聞き取らずにものを言う」「ことごとしくものを言う」「人の器量のある無しを言う」など。
 実はすさまじい人間観察の人であったのだ。

四.松下政経塾

 2004年4月号の月例レポートでも述べたが、松下政経塾の創設者である松下幸之助も自己観照を重視していた。自らの哲学を構築するにあたり、また物事を考え、進めて行く際に、「多くの人達の知恵(衆知)を集めること」、加えて孔子や老子が考えたのと同様に「天地自然の理と照らし合わせること」が重要であり、それには素直な心になることが前提であると述べている。そして、素直な心になるための一つの重要な手段として、塾生を始め、多くの人に「自己観照」の大切さを繰り返し説いている。

 良寛様同様、穏やかな容貌の中で、塾生や志を言う人の真贋を厳しく見つめる目、人を厳しく見つめる目、映像でしか観ることの出来ない松下幸之助塾主の姿は、どうもこの様に思える。

 私の在塾する松下政経塾も修行の場であると考えているが、ここまで自分も他人のことも深く観ているかどうか。また自分自身、きちんと修行出来ていたであろうか。今一度振り返ってみたい思いがした。

 良寛様の愛読書「正法眼蔵」では先の愛語に加え、菩薩に至る道に「利行」が挙げられているそうだ。これは身分の上下、老若男女を問わず、他人の利益のために行うことである。松下政経塾生らしさとは何か、と問うたところ、ある後輩が「人のために行動すること」と言ってくれて、嬉しく思い、そしてはっとした。

 松下幸之助塾主が作ったこの松下政経塾と、良寛様の修行した禅寺がとても似ていることに気付いたからだ。

 間もなく卒塾となるが、良寛様のように円通寺を出てから、その修業時代を思い出しながら、精進していきたい。人物となれるように。

【参考書籍】

「良寛」吉本隆明 春秋社
「良寛」水上勉 中公文庫
「良寛を歩く、一休を歩く」水上勉 日本放送協会出版
「良寛に生きて死す」中野孝次 考古堂
「良寛 心のうた」中野孝次 講談社
「良寛に学ぶ 『無い』のゆたかさ」中野孝次 小学館文庫
「手毬」瀬戸内寂聴 新潮文庫
2005年1月 執筆
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