論考

Thesis

明治の時代精神と第三の改革・・・西郷隆盛の遺言

近代日本の出発点である明治の時代精神とは何か、維新最大の功労者である西郷隆盛が遺した言葉を手がかりに考察し、明治維新、戦後に続く、第三の変革期を迎えた日本に必要な改革を探る。

家族の歴史

 歴史観というテーマで書くにあたって、まずは自分の考え方に大きく影響を与えている家族史から書いていきたい。

 昭和17(1942)年のある日のこと、招集された祖父は出征に先立ち、祖母とまだ尋常小学校に通っていた9歳の長男(即ち私の父)を呼び、こう諭したという。

「日本は必ず負ける。自分も死ぬこととなるであろう。そう心得よ。」

 日露戦争の終わった明治38(1905)年に新潟の医家で生まれた祖父は、なぜか神戸商船学校に進み、日本郵船に就職し、国際航路の船長をしていた。そうしたことから海軍に尉官で招集されたのである。

 先日押入からブエノスアイレスで作られた古い絵葉書が出てきたが、その生涯の大半を海外で過ごし、家に帰ってくることはほとんどなかった祖父は、実際にその目で見、国際情勢や諸外国の実情に詳しかったため、とても勝てる戦では無いことを知っていたのであろう。

 祖父は家族に多くの土産を欧州で買い、横浜の本牧にあった家では舶来品が溢れていたそうである。そして英語、ドイツ語、フランス語に堪能であったが、終生越中褌を外すことはなかったという。おそらく自分の一番大事な所は日本のモノでという祖父の心構えめいたものであったのだろう。

 昭和18(1943)年12月、南太平洋トラック諸島沖で戦死した。享年米軍機の空爆によって沈みゆく船の甲板に立ち、敬礼をしたまま、沈んでいったという。祖父の戦死後、家が没落していき、幼い弟妹を抱え、一家を背負わされた父は、しばしば「負けるのがわかってたくせに、かっこつけて死にやがって」とこぼしていた。

 大正2年生まれの祖母は祖父を称して、しばしば「明治の人だったねぇ」と述懐している。

 明治とはどういう時代だったのか、さらには明治維新とは何だったのか?について興味を持つようになった。そこに祖父が負け戦に敢えて殉じた理由があるように思えたからだ。

明治の時代精神

 旧幕から明治初期に、横浜に来た外国人が、日本人は明らかに2種類存在し、ほとんど人種が違うほどだ、と一般にみていたようであった。

 ある外国人が曰く、「日本人は礼儀正しい。ただし、2種類の人間がいる。」一方は横浜にたむろし、外国人に媚びへつらい、小さな利益で右往左往する日本人(当時外国人が蔑称としてジャーニーと呼んだ)、また一方は、自尊心を持ち、毅然とした、礼儀正しい日本人(武士階級、加えて商人、富農階級)。その自尊心の中で自分のモラルを作りあげていた。

 その中でも最も高い侍としてのモラルを作りあげていたのが、薩摩藩であったとされる。

 先日私は訪ねた薩摩で、地の人からお話をうかがった。

 鹿児島城下の一角の加治屋町という貧しい郷士の町で、西郷隆盛、大久保利通、東郷平八郎他多くの偉人が生まれたが、その秘訣には、若者の中で年長の者が、後輩達を指導する郷士教育にあったという。

 武道とともにたたきこまれるのは、モラル、侍として、人として、どう生きるかという道であった。

「自分より弱い者は絶対にいじめてはならない」
「私心を捨て、たとえ死んでも、公に報じること」
「己に打ち克つこと」

 こうした環境から輩出された西郷や大久保らは、清廉であり、無私の人々であった。

 維新に命をかけ、多くの仲間達が命を落とした後に生まれた新政府の成り上がりの官僚群の様子を見て、西郷は愕然とし、いたたまれなくなって帰った鹿児島の地で、次の様に述べている。

「万民の上に位する者、己を慎み、品行を正しくし、驕者を戒め、節倹を努め、職事に勤労して標準となり、下民その勤労を気の毒に思う様ならでは、政令は行われ難し。然るに草創の始めに立ちながら、家屋を飾り、衣服を文(かざ)り、美妾を抱え、蓄財を謀りなば、維新の功は遂げられ間敷也。今となりては、戊辰の義戦も偏えに私を営みたる姿に成り行き、天下に対し戦死者に対して面目な(し)。」

<現代語訳>

「多くの国民の上に立つ者(施政の任にある者)は、いつも自分の心を慎み、身の行いを正しくし、奢りや贅沢を戒め、無駄を省き、つつましくすることに努め、仕事に励んで人々の手本となり、一般国民がその仕事ぶりや生活を気の毒に思うくらいにならなければ政府の命令は行われにくいものである。しかしながら今、維新創業の時というのに、家を贅沢にし、衣服をきらびやかに飾り、きれいな妾を囲い、自分一身の財産を蓄えることばかりあれこれと思案するならば、維新の本当の成果を全うすることは出来ないであろう。今となっては戊辰の正義の戦いもひとえに私利私欲を肥やす結果となり、国に対し、また戦死者に対して面目ない」

 こうした明治期の官僚群の驕慢・病理は、昭和期にも受け継がれ、それが軍部の台頭につながり、さらには平成の今でも指導階層に引き継がれる。

 西郷は廃藩置県を推進したように国民の設定については賛成であったが、前出のジャーニーの様な卑しい精神や傲慢な成り上がりの者達を見て、将来の新しい日本「国民」に不安を覚えたのではなかったか。そして武士の高潔なる精神を愛し、これが後世に引き継がれることを夢見たのではなかろうか。

 大久保らと激しく戦った明治6年のいわゆる征韓論争において、大久保は「西郷の朝鮮国派遣」について、財政面での問題や、それが喩え、朝鮮国との戦になって勝っても、結局は列強の干渉を招き、日本は焦土と化すと国際情勢を説き、反対した。これに対し、西郷は財政面では「そろばんだけで国家を論じるなかれ」、国際情勢の反論には「それでも良い。真の日本人は焦土の中から生まれてくる」と応じた。大久保が特に後者について、言ったとおり、暴論であったろうが、西郷の言葉の本旨は、物質的な滅亡より、恐ろしいのは高潔なる精神の滅亡であるということであったと考える。私は、「かくすればかくなるものと知りながらやむにやまれぬ大和魂」と辞世の歌を詠み、志に殉じ若くして刑死した吉田松陰に重なるものを感じた。また松陰の後継たる久坂玄瑞は、その著「解腕痴言」の中で「尊藩も平藩も滅亡しても大義なれば苦しからず」と述べている。自分の身体や国なり藩という外形よりも、本質は精神に有りとする。

 征韓論争に敗れ、下野した西郷は、不平士族の大将に担がれてしまう。この西南戦争で、廃藩置県によって既に制度として消滅していた武士達は、西郷とともに実質的に消滅することとなる。

 しかし、一方では西郷と武士道の精神は明治に引き継がれた。

 司馬遼太郎は以下の様に言う。

「皮肉なことに、武士が廃止されて(明治4年の廃藩置県)武士道が思い出された・・・。武士道もまた理想化されて明治の精神となった」

「かれら(侍達)こそ、江戸時代が残した最大の遺産だったのです。そして、その精神の名残が明治という国家を支えたのです」

明治と昭和の断絶

 全く家族史を読んでいただいている呈で恐縮であるが、父の酔言から述べる。

 戦後直後、学校の先生が「今まで教えていたことは間違いだった」と急に言い出し、教科書の墨塗りをやらされ、あれほど鬼畜米英としていた新聞も世間も一夜にしてまるで変節してしまったことが一番の衝撃であったと述べている。父は昭和の指導階層の人々に節操の無さ、潔さがないこと、ずるさを見、心よりの嫌悪感を覚えた。

 政治指導者達は、一部の者を除いて、全く潔さがなかった。東京裁判については多くの論争があり、史観があるが、敢えて暴論を恐れず言えば、裁きを待つまでも無く、国を焦土と化し、亡国の憂き目を見させた指導者達は、かつての侍であれば、自ら腹を切ったのではなかろうか。軍事教育や国民教育を通じて武士的なものを回復しようとしたが、残念ながら、その精神において、似て非なるものを産み出してしまったのではないかと思う(しかし、この試み自体は可とするところである)。

 こうしてモラル(道徳的緊張)は崩壊し、結局、戦後目標としたのは復興、金とモノで豊かになることのみとなってしまった。

 司馬遼太郎はその著書「『明治』という国家」の中で、昭和と明治を比較して、全く違った国であったのではないかという所見を述べている。

 幕末の志をもったサムライ(志士)達が、非常にリアリティを持って、明治維新の大業を成し遂げ、その残滓、精神を継承した明治人が日露戦争を完遂したのに対し、昭和期の指導者達はリアリティがないばかりか、モラルも喪失していたのではなかろうか。

平成の精神的貧困

 このモラルの喪失状態は、現代、平成の世まで変わらない。

 松下政経塾の創設者故松下幸之助はその生前度々日本の危機を口にし、「物心一如の真の繁栄」こそ肝要であるとしていたが、松下は日本が経済成長を終え、日本の時代が言われる中にあった25年前に、既にこの危機の本質を見抜いていた。

 私は児童養護施設での研修でこの言葉の意味を骨身にしみた。

 かつて物質的な貧しさから親が泣く泣く我が子を預けた孤児院が、児童養護施設という名称に変わったが、豊かになった社会なのに、預けられる子どもの数は変わらない。変わったのは、児童虐待や愛情がわかないといった理由で、いわば物質的貧困から、精神的貧困に理由が変わったということである。また虐待を受け入所したばかりの多くの子ども達に、精神面での障害があり、人が信頼出来ない、そして自分より弱い者をいじめる、そんな現場に多く出くわした。ある職員さんが「ここは特別では無い、日本社会の縮図です」と話してくれたが、私にもそう思える。物質的貧困から抜け出すために頑張ってきたのに、現在の日本は精神的貧困に苦しんでいるのではなかろうか。

 戦後の日本は、経済復興及び経済成長をいわば国是として掲げ、その国是を達成し、今や家庭や店頭には豊かな品モノが溢れている。また最近では経済指標が上向き始め、「失われた10年」を脱しつつあるのではないかという明るい観測もなされてきた。

 その一方で、暗いニュースが連日流され、滅入るような話題にことかかない。政治・行政の指導的立場にある人達の不祥事、人を死に至らしめた企業がなおも嘘をつき続けていたこと、「人を殺してはなぜいけないのか?」などという問題が論断で提起をされ、いじめや不登校の問題が教育の現場を揺るがす。昨今の日本の社会は、倫理やモラルという観点から見ると既に末期症状の感がある。果ては、私たちが軽蔑している犯罪国家の独裁者から、足元を見透かされたような発言までされてしまう始末である。

第三の変革期・・・精神の復興

 明治期に新しい日本国をつくるにあたって、西郷が強く憂いた精神の荒廃は、残念ながら、現実のものになってしまった。

 西郷の次の2つの言は、現在の日本を予言したかの様である。

「・・・何故電信鉄道の無くては叶わぬぞ、欠くべからざるものぞと云う処に目を注がず、猥(みだ)りに外国の盛大を羨み、利害得失を論ぜず、家屋の構造より玩弄物に至る迄、一々外国を仰ぎ、奢侈の風を長じ、財用を浪費せば、国力疲弊し、人心浮薄に流れ、結局日本身代限りの外ある間敷也」

<現代語訳>

「・・・なぜ電話や鉄道がなくてはならないのか、また人間生活に欠くことが出来ないものであるかということに目が注がれないで、みだりに外国の盛大なことをうらやみ、利害得失を論議することなく、家の造り構えから、おもちゃに至るまで一々外国の真似をし、身分不相応にぜいたくな風潮を煽って財産を無駄使いするようならば、国の力は衰え、人の心は浅はかで軽々しくなり、結局日本は破滅するより他ないだろう。」

「文明とは道の普く行わるるを賛称せるを言にして、宮室の荘厳、衣服の美麗、外観の浮華を言うにはあらず。」

<現代語訳>

「文明というのは道理にかなったことが広く行われることをたとえていう言葉であって、宮殿が大きく厳かであったり、身にまとう着物がきらびやかであったり、見掛けが華やかで浮ついていたりすることをいうのではない。」

 この西郷の見方からすると、果たして現在の日本は文明国と言えるのであろうか。

 現在は、明治維新、戦後に続く第3の変革期と言われる。

 松下の言った「物心一如」の繁栄の内、物については戦後復興、経済復興で成し遂げたとするなら、我々が行うべきは、心、精神、モラルの復興である。たとえ、今後生活水準が下がり、奢侈な生活が出来ないこととなっても、多少やせ我慢をしてでも行うべきと考える。

 私が提唱したいのは以下2点である。

 第一には、全国民が高潔なる精神を持つ努力をすること。西郷の時代、字が読め、書籍を購入出来る層は僅か7%程度であったという。ジャーニーとさげすまれた人達は字も読めず、書籍を手にすることも出来なかった。また、その後の自由民権運動は識字層や一部の富裕階層だけのための参政運動であった。

 こうした時代と違い、現在はほぼ全国民が書籍や知識は等しく全国民の元にある。全国民が高潔なる精神を持つ機会が与えられているのである。

 そして、もう一つには指導者に無私な高潔なる精神を持つことを要求する。自分自身も将来指導者となりたく、命を落としてでも、実践していく決意である。

 二点とも具体的な策はこれから考えていくが、高潔なる精神を持った人々を多く輩出した幕末期や明治国家に学ぶことが多くあるように思えている。


<参考資料>
映像資料
・「翔ぶが如く」NHK大河ドラマ総集編

<参考文献>
・「翔ぶが如く」一~十巻 司馬遼太郎 文春文庫
・「西郷南洲翁遺訓 南洲翁没百二十五周年記念版」財団法人西郷南洲顕彰会
・「未完の明治維新 新版」田中彰 三省堂選書55
・「島津日新公いろは歌」 高城書房

Back

橘秀徳の論考

Thesis

Hidenori Tachibana

橘秀徳

第23期

橘 秀徳

たちばな・ひでのり

日本充電インフラ株式会社 代表取締役

Mission

児童福祉施設で現場実習

プロフィールを見る
松下政経塾とは
About
松下政経塾とは、松下幸之助が設立した、
未来のリーダーを育成する公益財団法人です。
View More
塾生募集
Application
松下政経塾は、志を持つ未来のリーダーに
広く門戸を開いています。
View More
門