Thesis
松下幸之助はその心血を注いで「新しい人間観」を確立したが、そこに至る過程には多くの体験や既存の哲学、思想、宗教について研究があったと思われる。その中でまずは古来日本人が密接に関わってきた仏教の人間観について、学ぶことを試みた。お寺の幼稚園での研修などを通じての自分の思索を述べた人間観レポート。
「全然、松下幸之助の新しい人間観が身に付いておらん!」
5月に同期の畠中克賢塾生とともに、PHP江口克彦社長を訪ねた時のこと、私は一喝されてしまった。
故松下幸之助は、人間とは何かという基本の問題を考えるために、「新しい人間観」というものを提唱し、人間の本質とはいったいどういうものかについて、これまでの通念にとらわれずに考えた。そして「人間には万物の王者として、絶えず生成発展する宇宙に君臨し、万物を支配活用する偉大な権能なり、役割というものが、その天命として与えられている」との結論に至った。その新しい人間観が身についていない・・・一時間半もの時間を頂戴し、長年松下幸之助に仕えた江口克彦社長が私にしてくださったお話には、終始耳が痛かった。
人間は、つまらない存在、小さく、弱い存在では無く、万物の王者であり、一人一人が偉大な存在、ダイヤモンドの様な存在である。各々が偉大な存在との正しい人間観を持つことによって、初めて、共存共栄、平和、繁栄、幸福が実現する。
松下政経塾の原点はPHPであり、PHPの成果を凝縮した人間観を身にしみる、体でわかるようになることこそが塾生に課された使命である。
松下幸之助が意図したのは、人間観を『塾の5年間(注・現在は三年間)で骨身にしみて欲しい』ということだ。新しい人間観の提唱を字面だけ読んで、わかった気になるのでは駄目だ。
塾生が行うべきことは、正しい人間観を骨身にしみてわかるようになるよう努力することだ。残念ながら、塾出身であっても、骨身にしみている者は少ない。
塾生は、自利を捨てよ。『すべては人間のために』、私利私欲を振り払って、周囲の幸福を考えよ。
塾生が行うべきことは、塾にいる間にしか出来ないこと、他の人で無く、塾生でなければ出来ないことを行うべきである。」
私は、これまで国会議員の政策担当秘書をし、政策をつくること、法律をつくることをなりわいとしてきたが、理念や人間観といったことにあまり取り組んでこなかった。
個別の政策をつくっていく前に、理念、人間観、判断基準(ものさし)というものが、自分には欠落していると感じるようになっていた。いたずらに個別政策をつくっても意味がない。「仏つくって魂入れず」になってします。
その意味で、江口社長のお話には耳が痛かったのだ。最上級生として、残り僅かの期間には、理念や人間観について、身にしみる研修を行う必要がある、そこで、私の個別テーマである「子育て/家族支援策」を研修して行く中、まずはしっかりした人間観、教育理念を持っている所を探し、禅寺の幼稚園で研修をする機会をいただいた。
仏教の勉強・理解不足を痛感した私は、早速仏教について、学ぶことを決意した。
川井蔦栄園長先生からは、妙心寺塔頭大珠院住職、花園大学学長を務められた故盛永宗興(もりなが・そうこう)老師の法話集を頂戴し、また京都妙心寺に参拝し、お釈迦様の一生について書かれた本などを購入した。
故松下幸之助塾主が精魂込めてつくられた「新しい人間観」を理解するためには、遠回りなようだが、おそらくは松下幸之助塾主が人間観を確立するまで、勉強され、取り入れたであろう既存の宗教や哲学の勉強を、私も松下政経塾在塾中にしておく必要があるとも考えた。まずは仏教から取り組むこととした。
とらわれなく物事を見よ/素直な心で
お釈迦様も松下幸之助もしばしば説かれたことであるが、自分自身が一番弱いところである。自分自身のことになると勝手な解釈や欲目でなかなか客観的に観ることが出来ない。
お釈迦様は、ある日弟子を集めて次の様に言われた。
「ここに一つの壺があったとする。その中に水が入っていて、風が吹いて、水の表面が波立っているとすると、この水は物を正しく映すことが出来るであろうか?」
「それは、できません」
「もし、壺が火の上にかけられて、煮えたぎっているとしたら、この水は物を正しく映すことができるだろうか?」
「いや、できません」
「壺の中の水が、静かになっておったとしても、この水が長いこと放ったらかされて、腐って、ボウフラがわいて、水苔が出て、色が変わってしまっていたら、この水は正しい物の色を映すことが出来るか?」
「それは出来ません」
「同じように、自分の欲望のために表面が波立ち、怒りのために煮えくりかえり、愚痴のために色が変わって澱んでいるような心で、人は者を正しく見ることは出来ない」
臨済宗妙心寺派の宗旨を示した生活信条には、正しく物を見ること(正見・しょうけん)が出来るようにするために「一日一度は静かに坐って、身体と心を整えましょう」というのがあるそうである。
故高田好胤元薬師寺管長は、松下幸之助の「新しい人間観」について、次の様に言われている。
「自分自身の心の中の神や仏に目覚めるのを自覚という。自覚するためには、無我の心にならなければならない。無我とは相手をたて、人をたてる道であって、謙虚な心、素直な心になることである。」
すべての人に仏性が宿る/人間は万物の王者
お釈迦様は悟りを得られた時に、「一切衆生、ことごとく如来の智慧徳相を愚有す」と言われ、すべての人(すべての物は)は、仏様と同じ智慧、同じ徳を持って、この世に出現していると言われたそうである。
人間を万物の王者とする松下幸之助の人間観について、私は入塾時に読んだ時は不遜であると思ったが、これはそうではない、人間の尊さと万物への責任を説いたものであると思うようになった。仏教の言葉で言う、仏性を宿す一切衆上に対しての人間の責任である。
天国と地獄の違い
松下幸之助は、このように人間は万物の王者とし、その責任を説いたが、人間同士では、お互いに万物の王者として尊重せよと述べている。仏教でも同様のことを説いた話がある。私は幼い日に、越後の真宗寺の生まれである祖母から聞いた話であるが、先に述べた盛永宗興老師の法話の中にあった。
ある男が、地獄と天国の参観券を手に入れた。地獄も天国でも、2~3メートルはあるとても長い箸があった。地獄では、我先にと争って食べようとし、長い長い箸にやっとひっかかったと思うと、他の人の箸がさわってうどんは落ちてしまう。そこで腹を立て、箸でたたき合いが始まる。うどんは飛び散る、喧嘩は始まるで、一筋もうどんは口に入らない。
ところが天国では、空腹であるのに、お互いに相手にまずは食べさせようとし、相手の口の所に箸を持っていく。全くうどんは飛び散らないし、喧嘩も起こらない。なるほど、これが天国かと、男は納得したという。
毎朝松下政経塾生が、朝会で読み上げる松下政経塾の塾是は、次のとおりである。
真に国家と国民を愛し
新しい人間観に基づく
政治経営の理念を探求し
人類の繁栄幸福と
世界の平和に貢献しよう
これまでの松下政経塾での生活で、既に記憶してしまった文言であるが、毎朝ただ漫然と読んでいただけかも知れない。改めて、その意味するところを自分に問い直すことが迫られている。「新しい人間観に基づく」と毎朝簡単に言っていたが、まだまだ身についていない。
自分に新しい人間観を身に沁みさせる、これをしない限り、軽々に松下幸之助の弟子なり、松下政経塾出身とは、恥ずかしくて名乗れない。残りの僅かな研修期間で少しでも我が身に沁みさせていきたい。
参考文献
・「よくわかるブッダ 釈迦80年の生涯」松原哲明 チクマ秀版
・「良寛」水上勉 中公文庫
・「良寛 心のうた」中野孝次 講談社+α新書
・「人間を考える」松下幸之助 PHP文庫
・「老子が語る 子育てのこころ」盛永宗興老師法話集 柏樹社
・「妙心寺 禅のこころ」臨済宗妙心寺宗務本所 チクマ秀版
Thesis
Hidenori Tachibana
第23期
たちばな・ひでのり
日本充電インフラ株式会社 代表取締役
Mission
児童福祉施設で現場実習