論考

Thesis

価値基準の混同を正す-地域通貨の位置付け

●『ハリー・ポッター』の大流行-生活の中に様々な価値基準を求める人々

『ハリー・ポッター』が今この時代に大流行したのには訳がある。冷戦後にアメリカが唯一の超大国となった中で、グローバル資本主義がもはや手に負えない怪物のように見えるまで肥大した。しかし人々は、生活における大切なもののすべてが、このグローバル資本主義の価値基準の中で満たされるわけではないことに気づいているのである。『ハリー・ポッター』には、われわれが本来持っていた様々な価値基準を取り戻してくれそうな魔法がかかっていたのである。

 人間社会の相異なる様々な価値基準を、例えばドイツの思想家ルドルフ・シュタイナーは3つに分けて考えて社会三階層論を提唱している。これらの相異なる局面の相異なる価値基準が混同されたとき、問題が発生する。経済生活の中に、「自由」という本来経済の基本的価値でないものが混入されたとき、グローバル資本主義といった人間生活と自然環境に脅威を与える鬼っ子が誕生した。

 シュタイナーは社会三階層論で、社会全体を精神と法と経済の3つの機能に分けている。そして、精神生活では自由が、法生活では平等が、経済生活では相互扶助が基本理念であるべきだという。これはフランス革命のスローガンともなった自由・平等・友愛とも対応する。

 実際、社会にはいろいろな局面があって、それぞれ異なった価値原則に基づいて動いている。上に挙げたシュタイナーの3分類も、社会の切り取り方の一例である。しかし、ある価値原則に基づくべき局面に、別の価値体系が適応されてしまうところに、問題が生ずる。例えば法生活では平等が大切であるため、多数決が行われる。しかし、自由な精神生活の中から生まれた文学の良し悪しをもし多数決で図るとして、そのことに果たしてどれほどの意味があるだろうか。また例えば、人類が手を取り合って生きていく必要があるときに、自由な経済競争によって過度な競争、恐ろしい貧富の格差、環境破壊を引き起こしてもよいのだろうか。国家やその他の主体により不当に財産権や機会が侵されないという意味での「自由」と、儲けるためならば何もやってもいいというような「自由」は違うものである。しかし、現実にはグローバル資本主義の名の下に、「自由な」経済活動が人間生活や自然環境に脅威を与えている。

 世紀末を越えて21世紀に入った昨年あたりから、『ハリー・ポッター』や『指輪物語(ロード・オブ・ザ・リング)』の大ヒットに象徴されるような、「魔法もの」が流行しているのも、人間生活の中に多様な価値基軸を求める欲求の現れであろう。『ハリー・ポッター』のような新作のみならず、『指輪物語』が今この時期に映画化されたのは、時代の空気を物語っている。トールキンの『指輪物語』も初版はイギリスで1954-55年に刊行されたものだ。ファンタジー愛好者やゲーム愛好者の間では知られていた同書が、広く知られるようになったのも、なにかわれわれが忘れかけていたものを示してくれたからだろう。工業社会から出発したグローバル資本主義という一つの原理で統一されつつあるかに見える社会の中で、統合されることを拒否し多様な価値基軸を求める欲求が高まっていた。そんな中で、「常識」とはまったく違った世界を見せてくれる「魔法もの」は、格好の捌け口を提供してくれたのである。<

●国家による介入

 ここまで、『ハリー・ポッター』というアンチテーゼ、シュタイナーの社会三階層論を通してグローバル資本主義という鬼っ子の問題を見てきた。しかし、問題はそこだけにとどまらず、他の局面でも起きている。特に日本の場合の問題として、国家が生活のあらゆる局面に顔を出そうとする傾向がまだまだ強い。精神生活の分野にも、経済生活の分野にも大きく介入しようとしている。

 精神生活の分野では、昨年12月7日に、「文化芸術振興基本法(*1)」が成立した。この法律では、「文化芸術に関する活動を行う者の自主的な活動の促進を旨」とすることにはなっている。しかし具体的に例示されている内容は、「雅楽、能楽、文楽、歌舞伎、講談、落語、浪曲、漫談、漫才、歌唱、茶道、華道、書道」といったものであり、他のものは単に「文学、音楽、美術、写真、演劇、舞踊」とくくられてしまっている。さらに、この文化芸術振興基本法のなかでは「国語について正しい理解を深める」ことも定められている。このことと、今年の4月から音楽の授業の中で邦楽の授業が義務化されたことなどを考え合わせても、行政が「文化芸術」に対してある特定の方向性を示しているように見える。もちろん「文化芸術」の振興は大切なことであるし、「国語」や「日本文化」の継承・振興も大切なことではある。しかし、個別の立法ならばいざ知らず、精神の自由の奔放なる無限の発露であるべき芸術を扱う基本法に、国家が特定の分野に肩入れする意思が見え隠れしていてよいものだろうか。これでは本気で「文化芸術に関する活動を行う者の自主的な活動の促進を旨」としているようには思えない。

 経済生活の分野では、国家はむしろ、何の手立ても持っていないように見える。1997年、ヘッジファンドとの攻防に敗れたタイのバーツが暴落し、アジア金融危機を引き起こしたことは、グローバル資本主義の中での国家の無力を明らかにした。日本でも景気対策がもう10年来行われているが、効果がないばかりか状況は悪化する一方のようである。しかし、こうしたグローバル資本主義の膨張と暴走を加速させた背景には、やはり国家の介入の影がある。シュタイナーに基づけば、友愛=相互扶助の原理に基づくべき経済生活の局面に、間違った「規制緩和」、「自由化」政策を導入したがために、一番弱い立場の自然環境は破壊され、途上国の住民は貧困に喘ぎ、先進国の市民ですらも経済生活の基盤を脅かされて、富はアメリカに住むトップ1%の人々へと集中しているということになる。国家の役割がまだまだ重要だとすれば、これまでの経済理論に基づく政策を改め、人々の自発的な助け合いを引き出し、支援するような新しい経済理論に基づく政策が必要であろう。

●地域通貨

 友愛=相互扶助に基づく経済システムを実現する手段として期待されているのが地域通貨である。不況期には現行の経済システムに対して、新しいシステムを模索する動きが活発に出てくる。日本でも地域通貨が話題になり、実施件数が飛躍的に伸びてきたのは1990年代後半から現在にかけてである。しかし世界的には、約70年前にも最初のブームがあった。

 地域通貨が最初に取り組まれたのは、1929年に始まる大恐慌の時代である。激しい不況に喘ぐドイツ南東部の炭鉱の町シュバーネンキルヘン、ザルツブルグ近郊のヴェルグルなどで行われた試みでは、30%を超えていた失業率がほぼゼロになり、地域通貨を通した市内のモノのやり取りが活発になるなどの効果があった。ヴェルグルの場合、人口4300人のうち1500人を町が雇い入れ、労働の対価として地域通貨を発行した。月に12回という猛烈なスピードで循環したこの通貨のおかげで町の経済は活性化し、失業がなくなったばかりか税収は8倍になったという。しかし、これらの通貨は国家の通貨独占発行権に対する脅威と見たドイツ、オーストリア両政府によって禁止されてしまう。そして町はまたもとの状態に戻ってしまうのである。

 こうして各地の地域通貨が潰されていく中、地域通貨による景気回復とは全く正反対のアプローチが登場してくる。それがニューディール政策である。このニューディールモデルは今日に至るまで、公共事業・景気対策のモデルとなっているが、もはやこの方式が通用しないのは明らかである。

 一方で、市民のニーズも、道路・ダム・空港建設といった大型プロジェクトから、生活環境の改善、ゴミ問題、介護福祉など、身近なレベルの問題解決に移ってきている。大型プロジェクトの場合は国家のような強力な主体が集権的に行う必要があるが、身近なレベルの問題の場合には、むしろ分散的に問題解決を図ったほうが成果をあげやすい。そういった意味でも地域通貨という試みは、これから益々重要性を増してくるであろう。

(*1)文化芸術基本法に関する文部科学省のページ
    http://www.mext.go.jp/a_menu/bunka/geijutsu/

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原田大の論考

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Dai Harada

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第21期

原田 大

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