論考

Thesis

日本の市民社会

日本人はパワー不足?

 95年国連北京女性会議、5万人を超える人々の熱気。全てはここから始まった。 大学生でも国連会議を見学できると聞いて20歳の私は胸が高鳴った。各国の政治家や外交官による会議場での丁々発止のやり取り、極秘の水面下での冷徹な交渉、それを傍で眺めることができる、いつかは自分も…などと妄想しながら北京の会場へと降り立った。しかし、そこで最初に目に飛び込んできた光景は私の予想とあまりにも違ったのだ。

 5万人のおばさん!黒、白、黄色いろんな肌の色をした、色とりどりの服装につつまれたおばさんたちが、大声で何か言っている。世界中から集まった人達が、そこかしこで輪をつくって、熱心に語り合ったり、楽しげに踊ったりしている。そのパワーが肌にビンビン響いてくる。訳がわからないのだが、どうしようもない興奮に自分も鳥肌がたってきた。

 彼女達は単なるイベントをやって会議を傍らで眺めるなんかではとどまらない。それが当然のように外交官とおばさんが額を寄せ合って、真剣に政策を話しこんでいる。いつのまにか彼女達の意見がもとになって、国連の行動計画まで作られている。「いい大学をでていい会社に入って、いい暮らしをしよう。」という教育で育った私には、理解不能な世界だった。なんで官僚がおばさんと話しているのか?なんでこんなに普通のおばさんにパワーがあるのか?なんで自分の奥から「何でもできる」っていうパワーが湧き上がってきているのか?

 今でこそ、NGOが各国政府を動かして、対人地雷撤廃条約を結ばせノーベル平和賞をもらうなど、こうした市民による提言活動が(世界では)当たり前になってきているが、当時の日本ではかろうじてボランティアという言葉が流行り始めていた頃。「一体これは何なのだろう?」と、私もそして5000人(人数は最大だったが)を越す日本からの参加者も、あっけにとられてただ呆然とするだけだった。

「このままでは日本は沈むかも。」そんな直感を感じたのはこの時だ。北京会議で呆然としていた5千人の日本人。それは日本の姿そのものでもある。「経済1流・政治3流」といわれる日本。(最近では経済もあやしくなってきたが…)。それは政治家や官僚個人が3流だからいけないということではない。「あんたの国の社会は、そしてあんた達日本人一人一人が3流だね。」と言われているのだと気づいた。「パワー不足の日本人、このままでは日本は衰退してしまう、何とかしなきゃ。」そんな思いで松下政経塾の門をたたいた。

一人一人のパワーを引き出す社会

 こうしたパワーというのは、何も会議や国際舞台での話ではない。それはそれぞれの国内社会での人々のあり方に直結している。学生時代、そして在塾中に何度も北米社会(アメリカ・カナダ)のNPOに触れ、その思いを強くした。

 サンフランシスコ郊外のアフリカンアメリカンとヒスパニックの移民の街、西オークランドのNPOでインターンをした時のことだ。貧困地域でホームレスになる人も多かったこの地域では、住民による民間非営利の市民グループが街の何でも屋として食料・衣料の提供から英語教育、求人紹介、職業訓練、コミュニティーセンターの運営などまで行っていた。そこで一緒に働いていたのがミッキーじいさん。本人もよく年齢を覚えてないというが、ゆうに60代後半は越しているであろう地域の長老だった。この人がよく働く。愛車のボロ車を飛ばして荷物の積み下ろし、搬送とほとんど一人でやってしまう。彼はボランティアだ。正確に言えば食事くらいはNPOから支給されていたが、別にしなくてもいいこの仕事を、いつの間にかオフィスに現れやっていく。仕事が終わると受付の広間でひっきりなしに訪れてくる地元住民がおしゃべりしている横で、ただ静かに座って嬉しそうにしている。無口で自分のことをほとんど語らないミッキー翁だが、かっこよかった。その背中は誰よりも誇りに満ちていた。

 サンフランシスコ、バンクーバーなどの北米の社会でいつも感動したのは、これらの社会が多様性を認める、というよりか多様性から力を引き出す術を持っているということだ。こうした北米地域ではNPOという住民の自立組織のようなものが多かった。そこではボランティアという存在が社会的に位置づけられている。西オークランドのNPOの、ミッキー翁もそうだし、他にも足に障害をおって車椅子生活のローラは配給食糧の仕分けなど、座ったままでできる仕事を、暇な時にオフィスを訪れてはやっている。彼等は日本の社会では会社で給料を稼げるわけでもないし、だから税金も納めず、単なる社会の重荷になってしまうかもしれない。だがここでは彼等の力が求められている場所がある。金は稼げないかもしれないが、彼等はボランティアという形で西オークランドに貢献している。それは社会にとって幸福であるだけでなく、それぞれの人々の幸福でもあるようだった。ミッキー翁の背中、ローラの笑顔はそれを何よりも雄弁に物語っていた。

 このボランティア文化やNPOというのはあくまで一例にすぎない。日本にはあまりなじみがない分野のため、ギャップが大きく目に見えるだけである。実はNPOが育たないということと、ベンチャー企業が育たないということに本質的に差はない。要は今の日本は一人一人が多様な条件、思い、情熱を生かしていけるような、そういう世の中になっていないということだ。

 アメリカ合衆国に世界中から人が集まるのはその魅力があるからである。そこでは人種、出身国籍を超えて、チャンスがある。自分に強い思いと才能があれば、どこまでも上っていける。今の日本では外から人が集まるどころか、そこで生まれた日本人の力さえも発揮できない世の中ではないだろうか。アメリカ人が日本人よりパワーがあるのではない。アメリカにはそれぞれ皆がパワーを発揮する場、仕組みがあって、日本にはないのが問題なのだ。これでは今、日本に憧れの目を向け、来たがっていたアジア諸国の人々にも見捨てられ、あと20年程して中国が経済大国になるころには、ジャパンバッシングどころかジャパンという名前さえ語られなくなっているだろう。

 一人一人の最高の力を引き出せる社会、一人一人の声、思い、パワーを生かす社会に、日本をどう変えていけばよいのだろうか。

日本の民主主義は未成熟?

 日本では個性が伸びない、個人の力が生かされない、こうした問題を突き詰めて考えた時に浮かび上がってくるのは、民主主義の成熟の問題である。いわゆる官と民の関係、政府と市民の関係として論じられている部分だ。政府が何でも抱え込んで、大護送船団を作っているうちに、日本の民間は世界で競う力を無くしてしまった。これは政府と市民の関係でも同じだ。日本はお任せ民主主義に陥ってしまっている。何でも問題があれば市役所に文句を言っておしまい。自分達で何とかしようという知恵も気迫もない。現在の画一的な教育では子供の個性は伸びないし、創造的なアイディアを出せる者もでてこない。何か日本人全体が活気なく、なえてしまっているような印象がある。

 これを全て「政府の力が強すぎた。官僚が悪い。民間の手に、市民の手に力を!」で片付けてしまうのは簡単だ。しかし日本の社会を真に憂えるのであれば、紋切り型の都合の良い言葉をあえて捨て、本当の意味で日本の変えねばならないところ、そして守っていかねばならないところを考えていかなければならない。日本が目指すべき、個人と社会の関係とは何だろうか?そんな課題をもって北米、アジア諸国での市民社会リサーチをおこなった。

 まず先ほどから褒めちぎっている北米多民族社会についてだが、ここが多様性を認め、そこから積極的に力を引き出すことに優れているのは、そうしなければ社会自体が運営できないからである。もともと移民が集まってできたこの社会は、多様性を前提としてスタートした。彼等にとって民主主義というのは、これらの移民による多民族社会が成立するために必須の根幹をなすルールである。バンクーバーでは、アジア、東欧、アフリカなど世界各地から移民してきた人々と出会った。彼等にとっては移民した当初は全くの異世界に紛れ込んだようなものだ。言葉も通じないし、習俗も違う。何よりも宗教や民族の違いで迫害されるかもしれない。そんな恐れを抱いている。だがこれらの国は彼等に国家と民主主義への忠誠を誓わせ、そのかわり彼、彼女がどんな人種で宗教であろうとも、法の下では平等に、フェアに扱う。努力して英語を勉強し、仕事をすれば皆が認めてくれる。それが民主主義のルールである。民主主義とは彼等のような移民にとっては新天地で生きていく上の守護神、生命線なのだ。(*1,2,3) こうした多民族がうまくお互いを尊重して、生かしあっていく風土は、自然と他の多様性にも応用できる。それが西オークランドのNPOで見た年齢や障害を吹っ飛ばした強さであり、もっといけば多様な個性、才能を伸ばす教育にもつながっているのかもしれない。

 日本はほぼ単一に近い民族構成でできた社会、国家と信じられている。(事実は分からないが…。)全く北米のような移民による多民族社会とその成り立ちが違う。そこではわざわざルールなどうるさく言わなくても、何となく共同体は運営できてきた。共同体を維持するために民主主義が必須であった社会とあまりに違う。単純に北米社会の事例を日本に持ち込んでそのまま当てはめても、うまく機能するとは思えない。日本には日本なりの文化にあった、一人一人のパワーを生かした社会の運営の方法があるはずである。

変わるべき日本・残すべき日本

 この点で日本の新しい社会経営を追求する上で興味深い示唆を与えてくれる、2つの例を紹介したい。

 まずはフィリピンだ。この国を見ていると「政府の力が強すぎた。官僚が悪い。民間の手に、市民の手に力を!」などとは安易に主張できなくなってくる。この国の政府ははっきりいって弱すぎだ。軍事力はどうかはしらないが、政府による社会の秩序維持・安定というものが全く機能していない。いまだに残る大土地所有の地主制を撤廃しようと、政府は農地改革令をだしたが、地方の大地主は全く無視して平気な顔である。政府にも法律にもそれに従わせる力はない。しょうがないから市民団体が弁護士グループのNGOが、彼等に法律を守らせようと、政府の替わりに尻をたたいている。一般に政府の統治機能の弱いところほどNPOが発達するようだ。その証拠か、アジア諸国でNPO大国はインドとフィリピンだ。初期の移民国家の北米社会にも似た事情があったものと思われる。現在でも市民権をもたない移民がたくさん居住するため、出身のコミュニティー内で協力し合うことで、その分をまかなっているという現象が、数多く見られる。

 日本は自らの民主主義を遅れているなどと卑下する必要は全くない。少なくともそこで培われてきた、政府による統治機能、規範を守る精神などは世界に誇るべきものだ。この島の大半の人々はシンガポールのように法律で縛らなくても、道路にゴミを投げ捨てない。警察の不祥事が起こり、検挙率が下がっているとはいえども、他国を旅行すれば日本ほど治安がよい国はめったにない。これも社会を運営していく民主主義の遵法精神という一つの側面であり、この点では日本は世界に誇るべきものを持っている。

 もう一つ日本が誇るものは、貧富の差があまりない社会を保ったまま経済発展してきたことだろう。マニラの中心街には、ちょうどお台場のヴィーナスフォートに似たショッピングモールがあり、そこでは日本と変わらず綺麗な服を着て両親と一緒にショッピングを楽しむ子供がいる。だがそこから5分タクシーに乗っただけで貧しいスラム街だ。何十人もの裸の子供に囲まれて物乞いをされた時、何ともいえないこの矛盾に無性に腹が立つと同時に、本当に日本に生まれて良かったと実感した。

 スラムで物乞いをする子に個性を伸ばす教育もへったくれもない。教育を受ける機会さえ保障されていないのだ。政府の統治能力はなく、独力でその子供達を救い出す力もない。一部の金持ちの個人が強い力を発揮して、ひずみを温存している。日本は今、自信を失っているが、その前に自分達が達成してきたことを確認してみるといい。今、日本が直面している多様性を認め、個人を生かす社会システムというのは、成熟段階に入った社会の問題なのだ。ヒステリックに政府、官僚性悪説を唱える前に、もう一度自分達の社会の強みを思い出そう。

 もう一国はモンゴルだ。この国は逆に政府の力が強すぎて失敗した事例に挙げられるだろう。ナランゲル氏(元モンゴル国会議員)は私に静かに語ってくれた。「私は高校時代、ジャーナリストになりたかったの。でもこの国では各高校に割り当てがあったのよ。大工何人、公務員何人、配管工何人って。それで卒業前に校長先生が決めるの。君は配管工になるからどこどこの専門学校に行きなさいって。信じられないでしょ。」彼女自身も結局は命令に従いロシア語の教員になったそうだ。政府による統治が行き過ぎ、個人の自由な発想、思いが認められなくなった社会の末路を見る気がした。ふてくされて仕事をしている人間が多い会社は倒産するし、逆に生き生きと仕事をしている人間が多ければその会社は発展する。それは国でも同じことだ。社会主義国が結局はつぶれていった理由が分かるように思う。

 日本型社会主義などといわれてきた日本のシステムは、貧富の格差の少ない発展をもたらしてきたが、一方でいつのまにか個々人の活力を失わせてきた。ここで改革をおこなわなければ日本はゆるやかな衰退し、夢のない国へと変わっていってしまう。

 以上見てきたように、日本の社会システムは、統治の網が徹底しており、社会の安定を保つという点に関してはすばらしい能力を持っている。また貧富の格差を小さく保ったまま、経済発展した稀有の国でもある。一方でキャッチアップ段階にはいいかもしれないが、先進国には適さない。経済的にも豊かになり、人々の欲求も多様化してきた今日、政府による統治を超えた新しい仕組みが必要とされている。もっと視点を一人一人の人生の充実に移した方がいい。結局はそれは個々人のパワーの発揮につながり、社会全体にとってプラスに働くと思うのだ。

 これは先進国に急速にキャッチアップを遂げた日本独自の問題であるとともに、世界全体の潮流でもある。規格大量生産型の産業社会においては人は政府の措置対象であり、企業の労働力であった。しかし現在の情報化社会においては、一人一人がそれぞれ政府や企業などとかなり同質な程度まで、情報を集め発信することができるようになった。その意味では技術革新による自然の趨勢として、個人と社会的な組織の力関係は以前と比べれば格段に個人が力をつけているのだ。これに対応してもっともっと個人の力を引出すツールを日本の社会にも創り出すべき時期になっている。

 どこかの国の社会システムが正解で普遍の民主主義のモデルなのではない。民主主義の原則は共有しても、その求められる形、行き着く先はそれぞれの歴史、文化を反映し、国によって違うのではないだろうか。他の国にはヒントはあっても、本当に日本にピタリと来るものはない。日本はその美点である貧富の格差の少なさ、和の文化などはむしろ美点として守っていくべきだが、同時にそれが個人の能力、パワーを生かすことを疎外してきた部分は早急に改革していかなければならない。その最良の答えは日本の中にこそ眠っている。地域やそれぞれの組織の中で、小さな改革の成功例を作っていくことこそが、そのモデルになるのだと考える。

(*1)現在のイスラムの一部と米国の対立の根本はこの点から生じているのだと思う。彼等は多様性を重んずるが、そのためのルール=民主主義に反する行為、文明に関しては容赦しない。そこに一切寛容さはない。今のアフガンに対する強攻策もそうだ。彼等の理屈によれば、第2次世界大戦中の日本は民主主義を冒涜するファシズムの国として成敗された。
日本人はこの点、一見、権威主義的な民主主義が不完全な文明、社会のあり方に対しても冷静になれる。無知、無防備からくるある意味お人好しなナイーブさは一つ間違えば、他国への民族主義的なナショナリズムの危険な高揚につながり、逆にうまくいけば他の文明にとって寛容さをもった、世界にとって貴重な資産となるかもしれない。

(*2)ワシントンでアメリカの若者とひと夏を過ごした。彼にとってはフェアだ アンフェアだというセンスが非常に大切だ。お互い暗黙では通じ合えない。だから徹底的に議論し合う。その時にお互いの意見を尊重してぶつけ合うという、公平な土台が重要だ。(これは大きな意味では民主主義のことだ。)日米貿易摩擦が激しく、日本異質論が唱えられていた頃、よく日本のやり方、社会の仕組みは秘密主義でアンフェアだとアメリカ人が憤慨していたのは、実はこの点にあるのかもしれない。
残念ながら世界は一つの多民族社会へと変貌しつつある。異なる社会の間のコミュニケーションでは、国内で同じような社会を体験している北米移民社会の人々にアドバンテージがある。ここは素直に学ばなければならない。

(*3)民主主義のルールと同じように、もう一つ彼等新参者の移民にとって頼れるのは金だ。どういう出自だろうと金だけは裏切らない。しっかり勉強して高学歴になって金を稼ぐというのは彼等にとって新しい社会でポジションを占めるための大切なことだ。何世代もかけてこれを一族で達成する人々もいる。こうして考えると、民主主義・自由主義市場経済が米国の2大ドグマとなったのも当然といえる。  

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森岡洋一郎の論考

Thesis

Yoichiro Morioka

森岡洋一郎

第20期

森岡 洋一郎

もりおか・よういちろう

公益財団法人松下幸之助記念志財団 松下政経塾 研修部長

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