論考

Thesis

“政治家”をめぐる考察

“政治家”とは何も議員のことを指しているのではない。本来議員は必然的に“政治家”であるべきなのだが、今の日本の問題は残念ながら真の“政治家”と呼べる人間が少ないことだろう。
 一方で、民間企業にもNGOにも官僚にも真に日本のことを憂える“政治家”はいる。しかしそうした人物が表舞台には出られないといった状況があるのではないだろうか。本月例では私の“政治家”というものに対する現時点の考えをまとめてみた。

“政治家”という職業

 私の中で“政治家”とは“社会のリーダー”業といった職業の一種だ。社会とは、国や地域であったり、ある一企業であったり、1つのクラスやサークルであったりと様々だが、その中でも特に茅ヶ崎市、神奈川県、日本国、アジア、地球などといった地政学的範囲で区切られた社会をリードする者を“政治家”と私は呼んでいる。
 ちなみに国内の諸社会の“政治家”は議員と重なる部分が大きいが、アジア、地球などになると、地球議会というのはないので、各国の政治家、国連職員、NGOなど多くの人々がそれぞれの場所で国際社会の“政治家”的役割を果たしているのだと思う。
 この“政治家”という職業について、今私が考えられる範囲で定義すると、

①自分がリードする社会に対して結果責任を負う。
②現実の流れに社会をアジャストするように導く。

 まず1点目の結果責任ということについてだが、これは社会のリーダーである以上、その社会に起こったことには、自分がどうだったかを抜きにして、全て責任を持つということだ。友人が口にしているのを聞きその通りだと思ったことだが、橋本元総理が6大改革を行おうとして失敗した時に、私の政策は間違っていなかったが状況が許さなかったというのは、日本のリーダーとしては通用しない。その人のビジョンがいくら正しかろうが、政策が良かろうが結果として日本が景気回復できなければ、総理は日本のリーダーとしての務めを果たしていないのだ。

 これはNPOや社会起業家などでも同じである。善意で何かの事業を始める場合でも、そのリーダーは自分の事業が社会に及ぼす影響に責任をとる覚悟でやるべきである。無理な植林計画でかえって生態系をおかしくしないか、本当に必要とされているのは日本の高度技術なのか、など先に煮詰めてあるべきだ。また被災地復興など、どこまでいっても終わりが見えない援助であっても、本物のリーダーは活動が始まった時点で、終わりを考えると聞いたことがある。それを聞いた時はなんのことやらさっぱり分からなかったが、つまり自分の事業の社会に及ぼす結果を常に意識しているから、始める時点から何を達成したらその事業がゴールするのかをきちんと設定してあるということだろう。

 2点目に現実の流れに社会をアジャストしていくということについては多少説明を要する。人間の暮らしの現実というのは、技術革新などにより日々変化していく。これは誰も決まることのできない一本の川のようなものであると思う。だがその人間達が集まって作っている社会というのは、川と同じように流れていけるわけではない。無意識に変わっていく人間の現実を、意識化したところではじめて変えていけるものだ。それが顕著なのが社会制度である。現実の変化が認識され、法律という形になってはじめて制度が現実においついていく。
 “政治家”の仕事は、この人々の川がどこに流れたがっているのかを把握して、その川をせき止めている土手(今まで意識化されていた社会)に水路を掘っていくような作業だと思う。この川がどこに流れたがっているのかを把握する作業が、“政治家”が現実をどう把握しているかということであり、その時の基準になるのがその“政治家”の歴史観であり、人間観であると思う。この認識をまちがって、違う方向に水路を掘ってしまえば、その川は決壊してしまうのである。

 19世紀のイギリスは第1次産業革命によって蒸気機関による新しい産業を作り上げた。しかしその産業を作り上げたカントリージェントルマンを中心とする貴族制度が改革されなかったため、新しい産業資本家が台頭できず、その間にアメリカ、ドイツ、日本などに追いぬかれ衰退してしまったそうだ。これは現在の日本にとって示唆に富む例と思う。通信技術革命の生み出す急激な変化にも関わらず、官僚の産業政策と大企業が連携する一時代前に効力を発揮した社会システムをいまだに変革できず、だんだんと沈みつつある今の日本は19世紀のイギリスによく似ている。

 人々の現実の流れに社会を追いつかせる水路を早く掘らねばならない。また川が山から海へ流れるのは誰でも分かるが、具体的に今水路を右前にほるのか左前にほるのかを、責任ある判断をしていきたい。グローバリゼーションに日本の社会をアジャストさせていかなければいけないのは誰でも分かるが、その中で何が変えなければいけない部分で、何が日本の良さ、強みとして残すべき部分なのかという判断をしなければならない。

“政治家”の資質

 正直と義理、そして人間が営んでいる社会を愛し信頼していること、だと思う。もちろんその根底に自分自身への愛と信頼(つまりその人の生命力)があることが前提だ。
 大韓民国の元大統領金泳三氏が政治家にとって必要な資質はと聞かれ、正直と義理だとおっしゃった。金氏がこの言葉に込めた意味を全ては吸収できないが、私なりに心にストンと落ちるところがあった。選挙を手伝ったり“政治家”志望の同世代の若者と会いながら、“政治家”は命のやり取り、義理の貸し借りのようなものをやらざる得ない仕事なのだと感じた。うまく言葉では言えないがそういうオーラを感じる。
 そこでは何よりも「筋を通す」ことが重要である。こうした世界では後ろに積み残してきたものは必ず自分の身に降りかかってくる。なかったことには何もできない世界だと思う。筋を通すことを何回も続けることでその人間の屋台骨が太くなっていくのだろう。それが細い人間はいかに頭が良かろうとビジョンがあろうとことはなせない。

 もう1つは社会に対する愛と信頼だ。好きだから自分と社会を一体化できる。社会の痛みを自分の痛みにできる。村山元首相が阪神淡路大震災が起こった時、涙流して懊悩しているのを見たと誰かがしゃべっているのを聞いたことがあるが、“政治家”とはそういう仕事なのだと思う。この愛がない限り、結果責任など負えるわけがない。

 選挙になれば、本当にその候補者という人間のために働いてくれる人間はほんの一握り、後の大半は事務所に出入りしていても、自分のためでありメリットがあると思うから来るのだ。当然負けそうになればみんな逃げ出す。責任のなすり合いだ。だがそんな人間の性まで含めて、全部ひっくるめて「おれはニッポンが好きだ。」と思える人物でなければ、“政治家”などできないように思う。

 また人々の営んでいる社会を信頼するというのは、先の人々の現実の流れに社会をアジャストさせていくという話でいえば、川の流れを信じるということだ。人々の総体が流れていこうとする方向は、最終的には正しいのだという確信だ。これがないと民主制の国での議員という形での“政治家”はつとまらない。

 私はブルーハーツという昔のバンドの「Train Train」という曲が好きだ。この歌に、何か限りない人間への愛、人々が営んでいる社会への信頼のようなものを感じるからだ。

 「人間はみんな嫌らしさも汚らしさも抱えていて、そんな人間達が営んでいる社会は天国ではなくて、悪い奴もいるし自分より弱い奴を叩き合って生活している。そんな人間だけど、その生きている今は意味がある。自分も聖者ではないけど、はだしのままで飛び出してみんなで走りつづけよう、その先には栄光があるはず。」というのが彼等のメッセージだと私は思っている。
 民主制国家の“政治家”は自分だけが真実を知る聖者ではないし、川の流れの終着点を知っているわけでもない。だが川の流れを信頼し誰よりもそれを愛し、その流れたがっている先に水路を掘っていく人間になりたいと思う。

以上

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森岡洋一郎の論考

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Yoichiro Morioka

森岡洋一郎

第20期

森岡 洋一郎

もりおか・よういちろう

公益財団法人松下幸之助記念志財団 松下政経塾 研修部長

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