論考

Thesis

幕末開国の積極的意義~開国150周年を迎えて

1854年の開国からちょうど150周年を迎える時期にあたり、歴史におけるその重要性を再考する。日本の外交指針の明確性が求められる現在において、改めて近代日本の原点ともいえる幕末開国から学ぶべきところがあるのではないだろうか。

泰平の 眠りをさます 上喜撰 たった4はいで 夜も眠れず

 徳川時代における泰平の夢にひたっていた日本は、1853年、アメリカのペリー(Matthew C.Perry)提督率いる黒船が来航したことにより、開国を強いられることとなる。

 翌1854年、幕府はアメリカとの間で日米和親条約を結び、ここにおいて日本は、西欧の国と初めて正式の国交を持つことになる。その後、幕府はほかの西欧列強とも次々と条約を結び、国交を開いていくことになる。現代国際社会において、日本にとって最大のパートナーとなっているアメリカが、日本が最初に国交樹立をした国家であったことは、今日からみて非常に象徴的な意味を持っているように思われる。

 2004年3月は、幕府とペリーの日米和親条約締結150周年、つまり開国150周年であった。このような時期に、改めて幕末における開国の国際的意義を検証してみる必要性があると思われる。そして、冷戦終結後、単なるアメリカ追従にとどまらない日本の外交方針の明確性が求められている現在において、近代日本の原点たる開国を見直すとともに、現代に通じる日米関係の原点を明らかにしていく。

 まず、開国当時の時代背景について考察する。当時の世界は、西ヨーロッパが中心であり、その中でもイギリスが経済的にも、軍事的にも覇権的地位を占めており、パックス・ブリタニカと呼ばれる状況であった。イギリスは世界各地に植民地を持ち、その更なる拡大を求めて、帝国主義的膨張政策を展開していた。そのイギリスにとってグローバルな面で対抗するパワーが、帝政ロシアとフランスであった。ユーラシアに拠点を占めるロシアは、シベリアから北太平洋方面への勢力拡大を図っており、日本への関心を強めていた。また、フランスは、アジアでの植民地支配の拡大を広げており、日本における影響力を浸透させようと、幕末の内争の情勢を注意深く見守っていた。このような状況の中で、東アジアにおける覇権を確立しようともくろむ列強諸国からパワーポリティックスの重要拠点として捉えられるようになっていた。

 一方、アメリカは当時世界のなかではいまだ後進国であり、世界の中心ヨーロッパから見ると「辺縁国」の1つでしかなかった。アメリカは当時、中国を中心としたアジアとの貿易・海運に関心を持っていたが、その際の中継寄港地を太平洋に求めていた。太平洋を渡る蒸気船の石炭補給基地としての日本に目をつけたわけであり、アメリカが日本に開国を強いた主な目的は他の西欧列強とは異なり、経済的な要因が大きかったといえる。日本に対する開国を求める動きは、1872年のロシアからのラクスマンを筆頭にイギリス、フランスと続き、アメリカとの関係は列強のなかで一番最後に始まっている。それにもかかわらず、条約締結をどの列強よりも早くアメリカと行ったのは単に黒船のインパクトの強さからだけではないと考えられる。

 黒船来航と日本の開国に関しては、「無能な幕府が、強大なアメリカの軍事的圧力に屈し、極端な不平等条約を結んだ」という歴史評価が行われることが多い。もちろん、開国を約束した日米和親条約は、最恵国待遇をアメリカ側のみに付与するなど片務性があるなど不平等な内容があることは否めない。しかし、この条約を通じて日本は国際社会にソフトランディングすることに成功し、このことを前提にして幕末における政治・社会の改革が進展していったというプラスの側面は見逃してはならない。また、イギリスなど強大な列強がアジア諸国に対して、植民地支配を行い、または敗戦条約を通じて明白な主従関係を結んでいた状況の中で、日本は「超大国」たるイギリス・フランス・ロシアではなく、「新興国」たるアメリカとの関係を意図的に模索していたといえる。国際社会の辺境の地に存在した「発展途上国」日本が、西欧列強とすくなからず対等な条項を含んだ「交渉条約」により国際社会への参入が出来たのは、パワーポリティックスよりも経済的な利害関係を重視したアメリカとの条約締結が最初に行われたところに大きな意味があったといえる。

 当時、列強とアジア諸国との関係が「懲罰」的な条約にもとづく従属関係が当然であった時代に、不平等性・従属性が最も弱い「交渉条約」を締結できたことは日本にとって多くの利益をもたらした。新しい思想や技術の存在を知ることが出来たうえに、そのいくつかを日本独自の環境に合わせて転化していくことも可能となった。ペリー来航以来、浦賀での外洋帆船の製造、各地での新しい武器類の製造、蒸気船の発注と導入、そして外国の学問・芸術・社会制度への関心が強く高まってきた。交渉条約を機会に、留学生の派遣や教育・産業育成の分野におけるお雇い外国人の招聘などが活発に行われるようになり、明治へと継承されていった。

 また、日本とアメリカが結んだ「交渉条約」は当時の国際社会にとっても大きな意義をもつものであったといえる。列強による弱肉強食が基調であり、戦争という手段をとった支配が国際政治の主な趨勢であった時代に、戦争によらず、平和的な交渉により政治的解決の道を開いたことは意義深いといえる。欧米列強主導でつくられてきた国際法秩序の固定化された状況に、アジアの一国である日本が「交渉条約」の結果として参入したことは国際社会の新しい一歩を踏み出す歴史的な重要性をもつ出来事であったといえよう。

 この「交渉条約」を生み出す過程において、幕府の高い外交能力は見逃すことはできない。当時の交渉における資料を検証すると、老中阿部正弘を中心に、交渉にあたった林大学頭、その他奉行・与力・同心にいたるまで、交渉相手に対して劣等感を抱くこともなく、慎重にかつ積極的に条約草案の交渉を行っていた。外交の3要素といわれる情報収集・分析・適用を見事に駆使し、条約に多くの対等性を持たせている。例をあげると、当初アメリカ側の草案で「アメリカ人漂流民の救助に要する経費は、これを合衆国が支払う」とあったのを、林を筆頭とする応接掛が双務性を最後まで主張し、その結果日米和親条約第3条は「アメリカ人及び日本人が、いずれの国の海岸に漂着した場合でも救助され、これに要する経費は相殺される」となった。また、4条においては、アメリカ人が「正直な法度に服す」という条項を明記させることで、形式的には治外法権の排除を明記させることとなった。これらの条項は、ペリーが交渉の中で最も苦労させられた部分であるとアメリカ本国宛の報告に書いてあるが、幕府側が交渉において民族の対等性を可能な限り認めさせる外交姿勢を貫いたことの成果であるといえる。

 また、アメリカ外交史のなかでも、日米和親条約は平和裏に結ばれた貴重な外交政策の一つであるといえる。「発砲厳禁」という大統領命令を受けて、新たな重要な補給地点を得るために、軍艦9隻、約二千人の艦隊員を司令長官として地球の4分の3を回って「最遠の国」を訪れて非常に困難のなかで、重要な使命を果たしてきたペリーの功績は大きく評価されるべきである。

 冷戦終結後、これまで大国間の固定化された枠組みで抑えられてきた「低強度紛争」が世界各地で噴出するようになった。近年、そのような「低強度紛争」を解決する方策として、大国が外交的な平和的解決よりも軍事的解決を優先する趨勢がある。もちろん、現実政治と150年前の日本開国当時を同じ基準で考えることはできない。しかし、パワーポリティックスでの問題解決が当然の19世紀において、日本・米国双方が「交渉」というツールを外交手段として用い、平和裏に利害調整を行った歴史から学ぶべきところは多いのではないだろうか。この開国150周年という時期を迎え、日本が「世界の繁栄幸福に資する国家」として国際社会に対してどのように関わっていくべきなのか。改めて歴史の中から見出せる叡智を集めて、日本の取るべき進路を考えていく必要があるといえる。

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山中光茂の論考

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Mitsushige Yamanaka

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第24期

山中 光茂

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