Thesis
徳富蘆花は日露戦争後の日本を評して「ああ日本よ、なんじは成人せり。果たして成長せる乎。」としている。開国後、半世紀を経ずして、国際社会のパワーポリティックスのなかで重要な役割を担うようになった日本。「成熟」する間もなく、「成人」してしまった日本が世界大戦での敗戦、そして復興後の経済大国化とその後の歴史が紡がれて行く。国家としての真の「成長」とは何か、日露戦争後の日本の歩みを紐解きながら現在へつながる日本の外交ビジョンのあり方を考えていく。
「ああ日本よ、なんじは成人せり。果たして成長せる乎。」
冒頭に記した言葉は、小説家であり、思想家であった徳富蘆花によって日露戦争終結後まもなくして記されたものである。蘆花は、開戦当初は主戦論者であり、ロシアへの「懲罰」の必要性を述べていたが、戦争が続くにつれ、理屈ではない戦争の愚かさに気づき、戦後はキリスト教的平和論者として国家のためという名目で戦うことの愚をいましめ、「人間最奥最自然の情」に基づいた平和と人間愛こそが日本人そして日本がとるべき道であると主張し続けた。
もちろん、蘆花のこのような思想は極端なものであることは否めないし、当時にしても現在にしても蘆花のような思想を語るものに対しては現実味のない夢想論者として片付けられがちであることは事実である。しかし、日露戦争の結果、国際社会のなかで「成人」していく日本がその後どのような歴史の道筋をたどったかをみてみれば、蘆花の言葉は実に示唆に富んでいるように思える。
日露戦争により、アジアにおける新興帝国主義国家としての位置づけを確保し、その後の世界大戦へ繋がる道筋のなかで国際社会全体に対して大きなインパクトを与える国家となった日本。開国後50年を経ずして、外交とは何たるかを知る前に国際社会の中心的アクターとして波に飲まれていった日本は、まさに「成長」せずして「成人」してしまった国家であったのではないだろうか。
日露戦争前後の日本外交の進んできた歴史を紐解いていくと、徳富蘆花の言葉が当時の日本の状況をいかに適確に把握していたかを感じるとともに、現在の日本外交に対しても大きく示唆に富んでいるといわざるをえない。以下においては、日露戦争後の外交状況を検証しながら、現在の日本へつながる道筋を考察していく。
日露戦争以前の日本の外交政策は、条約改正、朝鮮半島への支配の確立など具体的な目標を追及していたという点で一貫性を持っていた。幕末の経験を通じて、西欧諸国が軍事力において日本と格段の違いをもっていることは周知の事実であったし、軍事力の充実が明治政府の緊要の課題であることは当然のことであった。しかし、そこで明治政府がいたずらに軍備を拡充するのではなく、その軍事力の背後にある一国を強固ならしめるものが何かという探求をした点が特徴的であったといえる。大久保利通は、「政治的には民衆のエネルギーを結集させ、教育を通じて国家意識を高揚し、一方経済的には産業を発展させて国富を築いていく。このような改革を行わない限り、いたずらに軍備を充実したとしても国勢を発展させたことにはならない」と述べている。フランス革命以降、世界的な趨勢として政府奨励による産業の発展と大衆の政治参加が近代化の二大指標であったことを考えると、大久保をはじめとする明治指導者は実に現実的で、正確な観察を行っていたといえる。
条約改正への取り組みもそのような現実的な観察にもとづいていたものであるといえる。関税自主権のないため、輸入品は低関税で日本に流入し、また、治外法権制度のため、輸出に関しては日本の法律の外にある外国商人の手を経て行われざるをえない状況であり、彼らによって日本の貿易を左右されていたのである。条約改正は、単に恥辱的な条約の撤廃を求めたというだけではなく、日本の国力の基礎としての経済力充実の問題と密接につながっていたといえる。表面的な文言上の事象にとらわれて条項を変えることのみを目的としていたのではなく、国力の本質とは何かとの現実主義的信念に基づいて、国家の勢力発展の一過程として治外法権の撤廃や関税自主権の回復を行ったところに明治政府の現実主義的路線を見てとれる。
日露戦争直後より、日本は中国本土に対して積極策に転じていった。それまでの朝鮮半島における支配権の確立や南清における経済的進出という従来の国家方針を超えて、南満州をも日本の勢力圏としていくという大陸国家への道を歩みはじめた。時をおなじくして、中国国内においては国権回復運動が沸き起こり、中国の内政は複雑化していった。このような事態のもとで、日本外交は多様な課題を抱え、新たなる国の進むべき方針について改めて考えねばならなくない状況になった。日露戦争直後において、永井荷風が「吾々は各自にそのいきつつある『時代』に対して、根本的解釈をなさねばならぬ時期に到着した」という言葉を記しているのはまさにその状態を示しているといえよう。
日露戦争以後の世界外交の変動には、これまでの日本における外交思想を大きく混乱させるほどのインパクトがあった。その一つが日英同盟の変遷である。日露戦争後、イギリスとロシアが協調に向かうにつれて、アジアにおける同盟の意義は減少し、イギリスにとってはアメリカとの協調が何よりも重要な外交理念となっていった。ところがその時期に移民問題をめぐって日米間に緊張した空気が漲り始め、親米政策をベースとするイギリスと日本の間が次第にこじれていったという現象が生じていた。また、中国におけるナショナリズムに対してアメリカが次第に同情的な姿勢を示し、イギリスもそれに同調するという状況もさらに輪をかけて日本外交に対して怪しげな黒雲を覆うようになっていった。
そのような状況のなか、日露戦争後の日本外交の指導理念は、従来どおりの現実主義的帝国主義路線を継続していた。つまり、諸列強の意向に注意を払い、できるだけ協調を保ちながら、日本の地位を維持し、権益を発展させようとするものであった。このような国際環境のなかで、日本外交の思想的ドグマは自国の国防、貿易といった実利的なもの以外には「東と西」という短絡的な思想概念しかなかったことがすでに国際社会のなかでの「思想的敗北」をしていたといえる。
日露戦争後の世界においては、欧米諸国においてはすでに東洋と西洋という観念を超えた「国際主義」といわれるウィルソンやレーニンの新外交思想が出現し、また人種差別や武力による現状打破をはっきりと国際的に標榜したヒットラーの外交思想が現れた。そのなかで、西洋というもの自体があいまいなものとなり、共産圏対資本主義圏、全体主義対自由主義というように、西洋そのものが分化していった結果としてという「東と西」という概念が弱まっていった。日本においても、「世界の大勢」に加わるためにワシントン体制などを通じて一時的に国際的、普遍的な原則を外交政策の根底にしようと試みたが、それが持続しないうちに、満州侵略が始まり、1930年代からはアジアから欧米勢力を駆逐しようという考えが復活してくるのである。
日露戦争にいたるまで現実主義的路線のもとで急速に国家の発展を進めてきた日本であったが、初めて「成人」として国際社会の複雑怪奇な渦に巻き込まれたときに、短期的な現実への対応を超えた「国家ビジョン」「外交ビジョン」を「成長」させることができなかった弊害が短絡的な「東と西ドグマ」への執着となり、国家の根幹となる思想背景をもって外交を行ってきた欧米諸国に対抗できなかったといえる。
明治以来、日本外交はほとんど常に実際的で、現実的な外交戦略をとっており、国土の安全、貿易の進展という軍事経済両面からの「ナショナル・インタレスト」が日本外交の大きな枠組みをつくってきたといえる。条約改正のような平和的事象にも、大陸進出のような侵略政策にもそれらを正当化し、合理化するイデオロギーは、日本国の安全と経済発展に基盤をおいていた。日本の帝国主義が、きわめて現実的な軍事・経済的な必要性から動きつづけたことは、西欧諸国のように、宗教的・人道的・理想主義的色彩を帯びた外交政策(それが現実を正当化する建前であるとしても)とはあまりにも対照的であったといえる。
1910年末から1920年代にかけては、国際社会が新段階に入ったという認識を政府上層部が持ち、一時的に新外交思想への展開が模索されたが、結局は「アジア主義」なる純粋に軍事的経済的合理性を追求する外交思想にとって代わっていった。日本外交を貫く普遍的な概念としては、ただ「東と西」思想のみであり、時には東西協調、時には東西対抗の宿命論となり、アジアの一国としての特殊性を協調する場合と東西文明融合の使命を帯びたものとしてとらえる場合があり、いずれにしろ、他のアジア諸国やヨーロッパ諸国の変化に調子をあわせていく手段としての思想でしかなかった。いずれにしても、日本中心の考え方でしかなく、世界史上の日本、国際社会のなかでの日本といった普遍的概念のなかにたった思想たりえなかった。「短期的」な現実への対応は国家の外交政策として不可欠であるのは当然であるが、あまりにも急速に国際社会に対応する必要性があった日露戦争以後、「成長」するための「国家ビジョン」の形成をおこなう余裕を持てなかったことは現在の日本外交の「超短期的」現実志向外交にも反映しており、21世紀になっても明確な外交ビジョンのないままに「ナショナル・インタレスト」のみを追求している日本の先ゆきを歴史が暗示しているように思われる。アメリカ外交がその思想的根幹に、「軍事力による平和維持」「経済政策を通じて人類の福祉をはかれる国際秩序の形成」という道徳主義的一元論的世界観を持っていることは、その評価はともかくとして「国家ビジョン」を明確化し国際社会のなかで超大国の位置づけを保つことのできている大きな要因であるといえるのではないだろうか。
戦後日本は国防をアメリカに委ね、国家として経済の発展に集中するという「現実主義的」な政策をとってきた。この方針が、国際社会の諸条件と調和したこともあり、戦後の荒廃から驚異的な経済発展を遂げてきた。国際政治におきえる日本の発言力が弱かったこともあり、国際社会における諸問題への責任をとらされることもなく、自国の社会開発にはげむことができた。このような国際社会の諸条件に恵まれ、現実的なナショナル・インタレストを追求した日本外交の成功は、日露戦争以前の明治期における外交状況を思わせる。
日露戦争以前の外交政策の成果が長続きしなかったのと同様に終戦以来、現在まで根っこをもっている「超現実主義的」外交政策がいつまでも通用するとは思えない。これまで日本が受けてきた国際環境の好条件がいつまでも続くとは限らず、現在の国際環境は、テロ、環境問題、感染症、エネルギー危機など平和と安定を脅かす「地球規模での課題」にあふれている。
いまこそ、歴史から学び「現実主義」を超えた新たなる外交の思想的基盤をつくるべきではないだろうか。これからの日本外交に必要なのは、日本の安全だけを考え、日本の経済的利益のみを考慮したものであってはならない。国防は重要なことはいうまでもなく、貿易・海外投資の発展による国富の増大を志向する外交政策の重要性も当然のことである。しかし、国際環境のなかで生きざるをえない国家である日本は、短期的な現実主義的外交戦略を超えた新しい「国家ビジョン」「外交ビジョン」をつくらねばならないといえる。戦前の日本は、国益にもとづいたアジア主義の思想を追求し、不成功に終わっている。今後の日本に必要なのは、より具体的であり、国際社会のなかで誇れる日本という国家の軸となる思想でなくてはならない。幸之助塾主が「日本の平和と繁栄」ではなく、「人類の繁栄幸福と世界の平和」を志向したように、自国の安全と繁栄のみをせせこましく追及するのではなく、世界の一国としての生きがいを感じ、国際社会に自らをささげていくような思想が必要なのではないだろうか。私は日本の外交における思想的基軸としては、「地球規模での課題」に積極的に取り組み、国際社会の視点から「人類の悩み」に対していつも寄り添える国家として人類の福祉に貢献するというビジョンを提示したい。日本人が日本人としての誇りあるアイデンティティーをもつために、私達日本人が人間として人間に情愛をもって接していくために、そして日本という国家が真の意味で「成長」した国家となるために。
Thesis
Mitsushige Yamanaka
第24期
やまなか・みつしげ
Mission
「地球規模での課題」に対する日本の外交政策