論考

Thesis

欲望に包まれた人間の生きる道 ~「本能はエンジン、理性は舵」~

松下幸之助塾主は、人間が当然もっている「本能」から生まれいずる欲望を否定するのではなく、その「本能」によるエネルギーとそれをコントロールする人間たる「理性」がうまく機能してこそ、人類の真の繁栄と幸福につながるとしている。「欲望」を捨てられない普通の人間が描く人間観レポート第一弾。

「人間の本能は自然に備わっているもので、これをなくすることは絶対にできません。これを無視した政治、経済、宗教は、ムダであるばかりではなく、かえって人間を苦しめることになります。」

 人間の繁栄、平和、幸福の実現を目指した幸之助塾主は、決して人間の「欲望」を抑えることで理想の人間、世界を作り出していこうとしたわけではないといえる。人間の本来あるべき本能を無視した政治システム、経済システムはなりたたないのは当然であろうし、本能を生かせない宗教が魂の救済の役割を果たさないのは自明であるように思われる。

 人間が人間として生まれたときのあるがままの本能は、捨てようにもすてられない。自分の心をゆがめてまで、その本能を捨てようとするのではなく、その本能をあるがままに受け入れたうえで、もうひとつの人間の特徴である「理性」でその本能をうまく操縦していくことこそが人間が人間たるゆえんであると考える。

 私は、政経塾入塾以来、自分は人間として「永遠の偽善者」になりたいといい続けている。自分の体の奥底から湧き出てくる欲望に抗し切れない私自身は決して真の「善人」はなれないと自覚している。しかし、多くの欲望の中で「痛みを背負った人々のために自分の人生をかけたい」という自己実現の欲望は自分自身のなかで最も大きいものとなっており、そのためには目先の瑣末な欲望を「理性」でおさえることができるという自信もある。自己実現の欲求の根幹にあるのは、「他者の痛み」を自分の痛みと感じる人間のひとつの本能に導かれたものであり、「正義」とか「人類愛」とかそんな崇高な思想から生まれたものではない。簡単に言ってしまえば、自分自身は単純にやりたいからおこなっている、その行動が「偽善的」であったとしても結果が「善」なるものを生み出しているならそれでいい。「偽善」も一生つづけていれば、「善」なるものになるのではないか、という価値観をもっているのである。さらにいえば、私自身は、「欲望」がとにかく強い人間であるため、そんな形でしか「善なるもの」に近づけないと考えているのである。

 「善なるもの」というのも、また定義として難しい。私は、最も単純に考えたい。「人の幸福に資するものが善」というように。幸之助塾主は、「一つの主義や立場にかたよって善悪を定めると、人間にムダな努力をさせるばかりではなく、かえって苦しめることになります。」としている。私が、自分自身の志を実現する手段として松下政経塾の門を叩かせていただいくきっかけになったのは、幸之助塾主の「鳴かぬならそれもまたよしホトトギス」という言葉の影響が非常に大きい。

 「善」とは何か、「正義」とは何か、これを哲学的に悩むことが不必要だとは思わない。その中身を考え抜いてきた歴史のなかで人間の叡智は成熟し続けてきたはずであるから。しかし、幸之助氏は「善」とは何か、「正義」とは何かを考え続けることの重要性とは別に、「現実の人間の幸福」それを追求してきた人間であるように思われる。鳴かないホトトギスがいてもいいではないか。鳴かないホトトギスは鳴かないホトトギスとしてこの世界のなかで意味をもっているはずだ。鳴かないホトトギスがこの世に存在する意味を考え、鳴かないホトトギスの幸せとは何なのか、必ずしも鳴くことが幸せとはいえないのではないのか。このような現実を直視したうえでの「寛容な精神」こそ幸之助塾主が塾主たる所以であると考えている。ホトトギスは鳴くものである、という世間的な常識と思われるような「価値観」にとらわれない「価値観」を幸之助塾主に感じたからこそ私は自分自身の志を成熟させる場所として政経塾を選んだという経緯がある。 ここで「人間の幸福に資するものが善」と考えたときに、私は改めて「偽善者」が「善人」になれる可能性を感じるのである。日常生活のなかで、現世的で、刹那的で、独善的なあまりにも大きな欲望が自らの身を包み込んでいることを感じることは少なくない。包み込んでいるというよりは、体の奥底から湧き出てきていると表現したほうが適切かもしれない。しかし、私は「万物の王者」たる人間であるからこそ、その欲望の根源たる「本能」を「理性」でコントロールすることもできている。その理性の根幹にあるのは「人間の幸福に資する」という行動をとることが、結局は人間の生存そのものに関わってくるからという「理性的本能」であるのかもしれない。幸之助塾主は、「本能はエネルギー、理性は舵」としている。「人間の幸福に資する」という「理性」にもとづく「善行」は、人間の自己保存と繁栄を枯渇する欲望から生み出された「偽善的エネルギー」によるものではないかと考える。

 私は、この8月から12月までアフリカにおけるNGOの活動として、医療支援、スラム孤児支援活動を行ってくる予定である。その行動が「善」なのか「偽善」なのかはわからない。ただ、現地にはその活動を求めている人間がおり、人間の幸せを生み出すことに関わることには間違いがない。そして、私自身自分の志そのものの活動を行っているという自己満足にあふれた欲望に浸ることができるのである。もしかすると、自分の活動に酔っているのかもしれない、誰かにその活動をみとめてもらいたいのかもしれない。私が行動を起こしている自分の潜在的な心の動きは自分でも理解できていない部分もある。ただ、結果として「人間の幸福に資する」行動をとりたいという強い「理性的本能(もしくは「偽善的本能」)」が自分のなかにあることは疑いようがなく、それでいいではないかと自分のなかで解決づけているのである。

 冒頭にも述べたように、人間が人間として「本能」から生まれいずる欲望を押さえ込み、消してしまうことは不可能であろう。欲望のなかで生きざるをえないごく普通の人間としては、人間らしく湧き出でる欲望の泉を抑えようとするのではなく、それを人間の幸福につなげるための「エネルギー」に転換していくことこそが「欲望」も「理性」も併せ持つ人間の生きていく道なのではないかと考えるのである。

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山中光茂の論考

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Mitsushige Yamanaka

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第24期

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