Thesis
「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、我らの安全と生存を保持しようと決意した」この日本国憲法前文のように、「諸国民の公正と信義に信頼」していては自国の安全が保てない国際社会となっている。今こそ求められている国際社会における日本の役割とはなんだろうか。
「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、我らの安全と生存を保持しようと決意した」(日本国憲法前文)
冒頭に挙げた日本国憲法前文の「国家としての決意」を読んだときに、美しき響きを持って受け止める人も少なくないであろう。第二次世界大戦における国家としての反省を通じて、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼」することは、日本国が「平和国家」として国際社会で「平和と安全」を享受する一つの手段であったとともに、他のアジア諸国に対して自国の「平和国家」としての戦前とは異なる日本外交のスタンスを示すという意味で意義があったといえる。
ただ、現実の国際社会をみたときに「諸国民の公正と信義」に依存していては自国の平和と安全が維持できないということは明白である。特に、冷戦後の国際社会をみると「常態としての国際社会」がいかなるものかがよく理解できる。冷戦下においては、大国間の圧力により抑えられていた内戦や紛争、特定国家を背景にもつテロリズムの存在が顕在化してきている。これは、絶対的な国際法と上位権力をもたない国際社会において、本来自律的な国家意思をもつ主権国家が並存していれば当然起こりうる事態であり、冷戦下における「異常な抑圧」に基づく「緊張感のある安定状態」から、「抑圧から解放」された「正常な危機状態」になったといえる。人間社会に例えてみると、強大な権力者により「犯罪を行なう自由」を絶対的に制約される社会がいかに異常かは想像にかたくないのではないだろうか(けんかをして殴りあうことも信号無視することがどうしてもできないような社会は果たして健全であろうか)。
そのような「危機が常態」という国際社会を前提としたときに、改めて冒頭に挙げた日本国憲法前文を読んでみると、国家の「決意」としては非常に無責任なものであると感じざるを得ない。一人の「人間」に例えれば、「私は皆さんの良識に信頼して殺されたり、暴力を受けたり、物を盗まれたりしないで、幸せな生活を送ることを決意いたしました」と言っているようなものである。一個人のレベルにおいては、そのような決意を持つことは個々人の信条の自由でもあり、そのこと自体を否定するつもりは毛頭ない。ただ、国民の生命と財産を預かる責任をもった「国家」にはそのような「無責任な決意」は許されるべきではない。
主権国家の自律的な行動に委ねられた「常態」としての国際社会のなかでは、楽観的な「平和主義」に陥るのではなく、あらゆる起こりうる危機を想定したうえでの「平和」を創りだしていく努力をすることが国家としての責任ある対応といえる。特に、冷戦後の国際社会のなかで国境を越えた人、物、資本の移動が激しくなった現在においては、多くの国家は20世紀において想定することが困難であったような様々な「新しい脅威」にさらされている。このような危機を克服するには、各国家おのおのが自国への影響だけを考えて対応すればいいものではない。「正常な国際社会」から生ずる「新しい脅威」に対して、各国家が協調するなかで叡智を生み出していかねばならないのである。新しい脅威への対応としては、主権国家を超えた上位権力を創るといった非現実的な対応を求めるのではなく、各諸問題に対して主権国家が「機能別・分野別に分化した共通枠組み」を創るなかでそのような枠組みをいかに各国家の国内的秩序に取り込んでいくかということが重要となる。
グローバリゼーションが進むなかで各主権国家の役割は縮小しているといわれることがあるが、私はそうは思わない。グローバリゼーションが進むなかで生じる「新しい脅威」が顕在化している現在においては、より主権国家の「国家としての新しい役割」が求められているようになったといえる。これまでは、国内問題と調整的外交に対応していればよかったのが、今後は自らが国際社会のなかで生存するために果たすべき国際的義務の分担を「国内的に」果たしていく必要性が生じているのである。巨大企業、NPO、テロ集団など国際社会において国家以外の主体が大きな影響を持つようになった現在においても、やはり所属する「人間」に対して最終的な国際社会における責任を負うことのできる主体は国家以外にはありえない。また、非国家主体が国際社会において生み出す「人間」に対してあまりにも無責任な「新しい脅威」に対して、効果的な対応策が取れるのもやはり「主権国家」でしかありえない。
このような国際社会のなかで日本という国家が担うべき役割とは何なのか。本当の意味での「平和国家」を目指すうえで何ができるのか。国際社会の趨勢と日本の置かれた現状をみていくなかで考察する。
国連憲章2条7項には、次のような規定がある。
「この憲章のいかなる規定も、本質上いずれかの国の国内管轄権内にある事項に干渉する権限を国際連合に与えるものではなく、また、その事項をこの憲章に基づく解決に付託することを加盟国に要求するものではない」
この規定は、第2次大戦後の国際社会においては「主権国家に対する内政不干渉義務」という文脈で用いられてきた。つまり、各主権国家がもつそれぞれの事情に応じた「国内管轄事項」に関しては、国際組織および他の主権国家が干渉することはできないということである。この規定が特に注目されたのが1989年中国における天安門事件であり、「人権への侵害」という問題が国内管轄事項かどうかという議論がなされた。一口に「人権」といってもその内容が必ずしも普遍性をもったものであるとはいえず、死刑を個人の人権への大きな侵害とみなす価値観を持つ国家もあれば、残虐な刑罰も国家の治安維持のためには不可欠とみなす国家もある。天安門事件においても、中国サイドは「人権」の国内問題性を強く主張し、他国の干渉の不適切性を国連憲章のこの条項を用いて主張し、現実問題として国連をはじめとする国際社会はこの問題に効果的なアプローチはできなかった。
しかし、湾岸戦争以後はこの条項の解釈に変化が生まれている。もちろん、「本質上いずれかの国内管轄権内にある事項」に対しては干渉することができないという原則の重要性は変わらないが、逆に「本質上」国内管轄権内にない事項に関しては「国際関心事項」として積極的な国際社会による関与が許容されるという解釈をするようになっている。「国際関心事項」とは、ある主権国家内で生じた事柄であっても、その内容が国際社会にとって普遍的に重要と認められる事項であり、その生み出す結果が国際社会全体の利益に影響を及ぼす事項である。もちろん、その「国際関心事項」の中身に関しては一概に決定できるものではなく、各主権国家間の価値観や利害関係のなかで相違が生まれてくるであろう。ただ、「民主主義」「人権」などそれらが守られないことで国際社会の不安定性を増大させることが明らかなものに関しては、「国際関心事項」として各主権国家またはその意思の集合体としての国際機関が積極的に介入・干渉をして解決していく方向性を創っていく事が望ましく、また、それが国際社会の趨勢であるといえる。湾岸戦争における「多国籍軍」に対する国連決議678による「権威付け」やソマリアへのPKF派遣などは、ある一国への特定の価値観への干渉でありながら、国際社会の平和や安定へ貢献するという意思をもった「国際関心事項」へ向けての適切な干渉であったといえる。
以上のような国際社会のなかで、日本という国家はこれまでいかなる役割を担ってきたであろうか。もちろん、1970年代以降の東アジアに対する多額のODAが現在のアジアの発展に寄与したということは否めない。また、その発展が結果として日本の経済成長をさらに促しながら、アジア地域の経済活動の牽引役としての役割を担ってきたことは日本の大きな功績として誇れるといえるだろう。また、日本がもたらしたインフラ整備や産業育成はアジア諸国の政治的安定をもたらしたともいえる。これらは、戦後、アメリカの軍事的庇護のもとで高度経済成長を果たした日本が自らの国家としての特性を生かした適切な国際貢献であったといえる。
その一方で、冷戦以後の国際社会が「大国日本」に対して軍事的貢献を求めるようになって以来、日本の「国際貢献」の軸となるスタンスが見えづらくなっている。湾岸戦争においては、国連決議の「権威付け」の下で多国籍軍が編成され、国際社会の後押しのもとで行われた軍事活動が行われた。それに対して日本は多額の資金援助が中心となり、積極的な軍事的援助は行なわなかった。一方で、イラク戦争においては、安全保障理事会において常任理事国3国および過半数の非常任理事国の反対という国際社会の「権威付け」がないような状況であるにもかかわらず、日本は特別措置法まで立法することで軍事的後方支援を積極的に行なった。私がここで述べたいのは、軍事的支援の是非ということではない。冷戦後生じてきている新しい状況に対して、日本が外交の「軸」をもって対応できていないという部分に大きな問題を感じるのである。アメリカに関していえば、その行動の正統性はともかくとして、「民主主義の擁護のためには武力行使も辞さない世界の警察となる」という外交思想としての「軸」は強く感じることができる。一方の日本は、アメリカの意思への追従という「したたかさ」は見出せるとしても、国家としての国際社会へ関わる上での明確な「思想軸」は決して感じることができない。先月のレポートにも書いたように、今後の日本が持つべき「思想軸」とは、これまで国際環境の恩恵に浴してきた日本が今後アジア諸国間の「紐帯」としての役割を果たすと共に、「国際関心事項」に対してイニシアティブをとった政策提言と実行を行なっていくことが重要であり、真の意味で国際社会において「名誉ある地位を占める国家」になるといえる。
「国際関心事項」に対して、日本という国家が積極的な役割を担っていくためには今後政治分野における様々な取り組みが必要であるといえる。冒頭に述べたように現在の国際社会においては、主権国家に「新たな役割」が課されるようになってきている。それは、「国際関心事項」に関して各国間で条約体制を創ったとしても各国の国内体制のなかで受け入れることができなくては結局実効性を持たない。例えば、京都議定書による各国の二酸化炭素排出の数値目標を定めたとしても、環境税や排出制限などの国内的義務化が行なわれなければ結局は実効性がないものとなる。様々な「国際関心事項」が生まれるなかでの主権国家の「新たなる役割」とはまさにそこにあり、国際法規の国内的受容体制・実施体制を創るということである。現在の日本は、その分野における法整備が非常に遅れており、国際法規を憲法秩序で直接受け止めるドイツや法律レベルで受け止める包括法と個別法が存在するアメリカなどに比べて、条約に対する政治レベルでの対応が制度化されていない。国際社会で起こる問題に対して、措置法、暫定法などで対応せざるを得ず、一貫した対応が取れないのもここに起因する部分も少なくない。今後は、各「国際関心事項」に対応するための個別法を整備し、起こりうる事象に一貫した迅速な国内対応がとれるようにする必要がある。
また、今後国際貢献をより効率的・実効的なものにしていくためには、国際支援機関の一元化が不可欠であるといえる。現在、外務省のみならず1府12省庁にまたがる援助行政のもとでは、予算、人材、情報が分散されており、非常に非効率な典型的な「縦割り行政」が生まれている。国際支援機関の一元化は、予算の効率化のみならず、国際支援のスペシャリストとしての人材育成が行なえるとともに、自国の国益にも直結する支援に関する「情報」を一元化して扱えることも大きな意味がある。
私自身、将来は政治の場において「国際関心事項」に対して日本国の特性を生かした役割を果たしていくという部分で貢献していくつもりである。「国際関心事項」に関しては、時代の変遷、国際情勢の変化によってその内容も変わってくる。その場その場で「現場」に応じた外交的対応が求められることもあるであろう。そのようなときにでも、日本という国家の「軸」をしっかりと保ち、その軸にぶれることなく対応をしていくことが重要であろう。幸之助塾主のいう「世界の平和と繁栄のために」しっかりと取り組むことができる国家日本そしてその国家を創るために私心を捨てて初心を忘れることなく取り組む私自身の「軸」を守っていく。これは私の「決意」であり、自分への「契約」でもある。
Thesis
Mitsushige Yamanaka
第24期
やまなか・みつしげ
Mission
「地球規模での課題」に対する日本の外交政策