Thesis
憲法が「現実」を創るのか、よりよい「現実」を創るために憲法があるのか・・・ 日本国憲法第9条を改めて読み直し、様々な「現実」を抱えた国際社会において憲法第9条をもつ日本国が果たしていく役割を考える。現在、ケニアに滞在し日本とは異なる「ひとつの現実」をみつめながら描いた国家観レポート第二弾。
憲法改正を語るうえでの憲法第9条の問題は、理屈からいえば数多くある憲法問題の「ワン・オブ・ゼム」に過ぎないといえる。それでいて、やはりこの問題を実質的には「ワン・オブ・ゼム」ではなく、「大文字の憲法問題」としてとりあげなくてはならないのは、まさに近代憲法の考え方の根本にある「個人の尊厳」という価値そのものを日本社会がどのようにとらえていくのかを内外に示す国家の基軸となるものであるからである。
これまで日本が国際社会に対して軍事的アプローチからの貢献を避けるエクスキューズとして、「9条があるから」という基準のもとで議論がなされてきた。「9条があるから」、「非戦闘地域」における「後方支援」を「自衛のための最小の武器携帯によって」行うというカギ括弧付きの限定だらけの国際社会へのアプローチしかできない状況となっている。
近年よくマスメディアなどにおいて「現実路線」という言葉が使われる傾向にある。ここにおける「現実的な」方向性とはどのようなことなのであろうか。本当に国際社会が「現実に」必要とし、日本が本当に「現実に」行わねばならないことを真摯に議論を行い、そのような状況に対して「現実に」対して必要な手段をとるというのは本来の正しい意味での「現実路線」であると考える。しかし、現在の使われている「現実路線」はどうもそうではなく、なんとなくなりゆきがそうであるからそっちにあわせる、という議論に基づいた薄っぺらい国益概念を「現実」を判断するベースにしているように思えてならないのである。
9条が「あるから」なにもできなかった、限定的にしか動けなかったではなく、9条が「あるのに」できなかったこれまでの日本をみつめなおし、9条が「あるから」こそできる、そして真摯に「現実」にアプローチするべき国家としてのビジョンを創っていく必要があるのではないだろうか。
憲法9条は、第1項に戦争放棄を、第2項に戦力をもたないこと、そして駄目押しに国の交戦権を認めないことという組み合わせで成り立っている。この憲法の条文の読み方に関しては、憲法学上そして現実の政治上において従前から2通りの読み取り方が考えられてきた。
第1は、少なくとも1931年の満州事変までにさかのぼる戦争において「悪い」ことをした、だからもう悪いことはしないという意味を含んだ読み取り方である。この間の戦争が侵略戦争であったという意味で、また、その戦争のなかでここにも悪い行為、残虐行為や戦時国際法で禁じられている行為をしたという2重の意味で悪いことをしたという認識の前提の下で、「よい戦争」もありうるという解釈のもとでの理解である。これは、「よい戦争」がありうることを念頭においたうえで、日本は許しがたい、許されがたい戦争を行った、だからそれを2度と繰り返さないという意味が9条に託されていると読み方である。法律論的にいえば、『日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力による行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する』という文章のうち、「国際紛争を解決する手段としては」という言葉の意味を非常に重視して、国と国との間の争いを戦争に訴えるということはしないが、「正義のため」には戦いうる、また戦わねばならない戦争というものがありうるという第1項の読み方を行う。そのような読み方をしたとしても、第2項において戦力の不保持と交戦権の否認をおこなっていることと、他の条文において宣戦や軍の指揮権などについての規定が全くないことを考えると、9条1項からだけすれば「やっていい戦争」があるとしてもそれを実際にやる余地は憲法上ないといえる。しかし、この読み方の前提にあるフィロソフィーからすると、「悪い戦争」をしなくなった日本が、憲法を改正することで「よい戦争」をできるようにするという選択肢に結びついていくといえる。
第2の読み方としては、正義の戦争はもはやありえない、およそ戦争そのものが悪であるため、いかなる大義名分のもとであれ、いかなる戦争をも行わないという読み方である。これは、第2次大戦直後における憲法起草当時の一般的な解釈の方法であり、当時の芦田均憲法審議会委員長は「もはや正義の戦争というものはありえないものとなった、戦勝国、敗戦国の区別もなければ、大義名分の区別もない」という有名な演説を行っている。また、当時の吉田茂首相も9条審議における議会の中で同様の内容を答弁している。共産党の野坂参三議員の「正義の戦争はありうるのではないか、それをも等し並みに放棄してしまうのはおかしいのではないか」という質問に対して、吉田首相は「それは間違った考え方だ。わが日本をとっても、満州事変しかり、シナ事変しかり、大東亜戦争しかり、正義の戦争がありうるという考え方自身が、まさに戦争を引き起こしてしまうのだ」ということを力説していたのである。これらの読み取り方は法律論的には、第1項でそもそもどのような形での戦争をも否定したうえで、2項において、そのためにやる気になりさえすれば戦争することができるような能力、つまり戦力を一切持たないことにするという解釈に基づいている。
ここにおいて、実質的に第1の解釈に基づいた「よい戦争、わるい戦争」に対する価値観を第2次大戦後の国際社会において政治的、法制度的に実践してきたのがドイツ(旧西ドイツ)である。西ドイツは1950年代に入り、正規の憲法改正を行ってきた。軍を正式に設けることを憲法上規定し、その下で徴兵制の法律を敷き、一方で様々な条件の下での良心的兵役拒否をも認める自由を法制度上認めている。過去の戦争における過ちをはっきりと認めた上で、場合によってしなければならない戦争という可能性をしっかりとした「憲法上」の筋を通したうえで国家の方向性を提示しているのである。そのような部分において、同盟国のアメリカが派遣したから日本の「国益」を守るために「政治的意図」のもとで「暫定的な法形成」の下で海外派遣される日本と国家の指針を決める「憲法の枠組み」に基づいて派遣がなされるドイツとではその政治的選択を行う土台の重みがあまりにも違いすぎるといえる。
以上のような日本国憲法第9条の法解釈的意義を見たうえで、政治的に考えていかねばならないのは国際社会に対して実質的にどのようにアプローチをしていくのか、日本という国家の特性を生かしてどのように具体的・現実的な行動をとっていくべきなのかということである。
結論からいえば、日本は「地球規模での課題」に対して個別・具体的な機能的に分化した国際社会に対してグローバル・イニシアティブをとっていく国家を目指すべきであるといえるだろう。歴史的に、戦後国際社会から多大なる恩恵を受けて経済成長を遂げた背景とともに、緊密化した国際社会のなかで現実問題として食料・エネルギー自給率が低く、平和で安定した国際社会との連関なくして生きることのできない日本という国家が「地球規模での課題」に取り組み、国際社会の平和と安定に積極的に寄与するということは当然のことであるといえる。それが、単なるスローガンに終わらないためにも、感染症、環境問題、難民支援などの非軍事的貢献のみならず、そして国際社会の安定に不可欠な内戦・テロへのアプローチとしての軍事的な貢献の可能性をも含めて模索していく必要があるといえる。
国連憲章2条7項には、以下のような条文がある。
「この憲章のいかなる規定も、本質上いずれかの国の国内管轄権にある事項に干渉する権限を国際連合に与えるものではなく・・・」
国連憲章を含めた国際法規はそもそも古典的な近代国民国家の国民主権を前提としているため、この規定は第二次大戦後の国際社会の組織化への方向性の中でも、「国内管轄事項」に関しては主権国家に干渉することは許さないということを明言したものと長くとらえられてきた。1981年12月9日の国連総会決議において、わざわざ念をおして「国内事項に介入する目的で人権に関する事項を利用することを慎むものとする」としているのは、2条7項を「国内管轄事項」に対する内政干渉の禁止を強く謳ったものと考える従来型の国際社会に対する考え方の典型であったといえる。
冷戦が融解していくなかでその国連憲章「国内管轄事項条文」に対する解釈に変化が訪れたのが、1991年4月5日の安保理決議である。クルドの問題についてイラク住民への弾圧を公然と非難する決議が採択されたのである。ここでは、これまでのようにたとえ人権を盾にとっても「国内管轄事項」には介入できないという言い方が通用しなくなってきていることを示している。1991年4月5日の安保理決議は、当然国連憲章に基づいたものであるため、憲章2条7項を否定しているわけではない。むしろ、憲章2条7項の「本質上」という言葉を重視して、人権問題は「本質上」国内管轄事項に含まれるものではなく「国際関心事項」として国際社会及び各主権国家画積極的に関与すべきものであるという解釈がされるようにまでなっている。ここにおいて、時代の変化に対応して憲章2条7項は、「国内管轄事項への絶対的な干渉禁止条項」から「国際関心事項への国際社会の積極的関与促進条項」への変遷がなされているといえる。
「権力に対する抑制的規範」であり、また「国家の積極的ビジョン」でもある憲法に対する議論は、今後も進めていくべきであり、国民議論の成熟を喚起しながら、現実に適応した改憲を行っていくことは、政治の役割として不可欠なものであるといえよう。
しかし、「硬性憲法」という形式をとり、「具体的審査制」をとる日本国憲法の形態上、ドイツのように現実に応じた憲法改正を容易に行うことは困難である。政治の役う割としては、長期的な視点からの憲法改正への取り組みを行うとともに、「今の今の現実」に対応した「法律」レベルでの枠組みつくりを行っていく必要がある。
具体的に例を挙げると、安全保障理事会決議において「多国籍軍」が「権威付け」されて各国に協力が呼びかけられたとする(国際法上は「執行条約」の発効とみなされる)。そのような国家の憲法秩序に直接インパクトを与えるような国際法規が創られたときに本来ならば、憲法の枠組みで受け止めるのが妥当なのであるが、国家の重要事項(本来憲法マター)でありながら憲法上判断がつきにくい状態において、「法律」レベルにソフトランディングさせるという手法で、現実に対して迅速・効果的に対応するとともに、国内法上の法的正統性も確保できるということである。
アメリカにおいては、「大統領権限法」という包括的基本法によって、国際法を国内的に受容するときに「法律」レベルでソフトランディングさせている。実質的には憲法マターであり、本来その行為の正統性を憲法上問う必要があるのだが、緊急事態や迅速な国内法的受容が必要な際に効果的に動けるように大統領に対して法的正統性を与え、事後的に三権分立のなかでその行為の是非が問われることになるのである。
日本においては、国際社会からのインパクトに対してこのような「包括的基本法」の整備もなければ、恒常的な「個別具体法」の整備も行われておらず、有事が起こってから暫定的・事例限定的にその場しのぎの「特別措置法」が創られる。「特別措置法」が憲法精神を尊重した一貫した内容のものであるならともかく、現実にはその場その場の政治的条件に応じたものでしかなく、「国家」としてのビジョンの一貫性にあまりにも欠如したものになっているといえる。
今後、9条に対する議論の必要性と平行して、日本国憲法そのものを生かし、一貫性ある国際社会への対応を行っていくための「法律レベル」での議論を行っていくことが政治の大きな役割なのではないだろうか。
これまでの日本は、国際社会へアプローチする上で「軍事貢献」の賛否双方の側ともにあまりにも9条論に固執をおこなってきているように思われる。今、本当に重要なのは憲法の法的解釈論にこだわることではなく、9条を含んだ日本国憲法の精神をいかに具体的な現実レベルに落とし込んで制度的に体現していくかが重要であるといえる。
時代の不可欠な要請のなかで、国際社会において正統化されつつある「国際関心事項」への取り組みこそが今後の日本が「国際社会における法の支配」の内側において果たしていく役割なのではないだろうか。湾岸戦争における678決議において「法的権威(authorization)」をつけられた多国籍軍には参加せずに国際社会の非難を浴びた日本、今回のイラク戦争で国際社会の「法的権威」が得られず、国際社会の非難の対象になっているアメリカ軍に協力した日本、単純な9条論による軍事的貢献の良し悪しを議論するのではなく、何が真の意味での「国際関心事項」なのか、国際社会における利益を真に体現できる国家としてのメルクマールをしっかりと創らなくてはならない時がきているのではないだろうか。
私が将来、政治分野において果たしていくのはこのような「国際関心事項」に対して恣意的ではない「法的判断」ができる基本的な政治的枠組みを創ること、そして誇りある日本国の一員としてその枠組みに基づいた決断・執行を具体的現実的な「地球規模での課題」に対して行うことで「地球規模での未来」を創ることに貢献していくことであると考えている。憲法第9条があるからこそ日本国ができることを理想論でもスローガンでもなく、現実論のレベルにおとして考えていくことこそが、本当の意味で9条精神を体現していくことになるのではないだろうか。
Thesis
Mitsushige Yamanaka
第24期
やまなか・みつしげ
Mission
「地球規模での課題」に対する日本の外交政策