Thesis
2004年8月13日、沖縄県宜野湾市の沖縄国際大学構内に米軍ヘリが墜落した。今回のヘリ墜落における、事故の衝撃、そして事件の処理、この一連の動きに関して、「沖縄は本当に日本なのか」、そんな問いかけが県民のなかに巻き起こっている。ヘリ墜落事故から、国家の役割とは何か、日本とは何かということを考えてみた。
米軍ヘリ墜落事故から考える国家観
2004年8月13日、沖縄県宜野湾市の沖縄国際大学構内に米軍ヘリが墜落した。
恐れていたことがとうとう現実に起こったのだと思った。大学が夏休みであったということもあり、墜落したヘリの乗員3名が重傷を負うというだけで奇跡的にも大惨事にいたらなかった。しかし、今回のヘリ墜落における、本土マスコミの反応、事故の衝撃、そして事故の処理、この一連の動きに関して、「沖縄は本当に日本なのか」、そんな問いかけが県民のなかに巻き起こっている。沖縄で生活している者にとって、そう考えるのは当然のような気がする。今回の月例レポートでは、ヘリ墜落から国家とは何かということを述べてみたい。
最初に述べておくが、私は、「沖縄は日本である」とずっと主張してきたし、特殊な地域をも包含する多様性を持つ地域が日本であると考えてきた。しかし、今回の事故の衝撃と事故の処理を見ていると、国家の役割について疑問が湧いてくる。また、そもそも国家とは何だろうと感じる。仮に国家というものが国民の生命、財産を守るもの、であるならば、少なくともこの沖縄では国家の役割は果たしきれていない。
事故の衝撃
この事故の一報を聞いた県民なら誰もが思ったのが、とうとう事故が起こったのか、ということである。住宅地と非常に近い普天間基地はいつ事故が起こるか、心配されていた。その最中にこの事故が発生した。おりしも、宜野湾市の伊波市長が普天間基地の整理縮小を訴えて訪米したばかりである。
マスコミの反応
この事故の重大性は県民、とりわけ宜野湾市民にとって非常に大きかった。しかし、県内マスコミ以外のこの事故に関する反応は大きく異なっていた。幸いにも死者が出なかった、このことがマスコミにとって、あまり話題にならないと思ったのであろうか。ヘリ墜落当日のテレビニュースでは、冒頭のニュースが、ある野球球団のオーナーの辞任であった。死者がでなかった、ということがオーナーの辞任よりも軽かったということに憤りを持っている県民は新聞の投書や会話の中から聞かれた。県民、宜野湾市にとって、このヘリ墜落は本当にわが身が凍る思いで聞いたはずだ。と、いうのも、墜落した現場は、県道とすぐに隣合わせであり、また道を隔てて住宅密集地があるからである。自分の親戚、知人が住んでいる場所がヘリ墜落現場とならなかったものの、その機材の破片が大きな損害をもたらすことになるのではないかと普通は考える。しかし、県外のマスコミはこのことについてとりわけ大きく報じることはなかった。
危険と隣合せの住宅
昨年、来沖したラムズフェルド国防大臣が上空から、普天間基地を視察した際、「いつ事故が発生してもおかしくない」と述べている。今年1月、私が企画した沖縄スタディーツアーで普天間基地を訪問したが、ヘリや飛行機が飛び立つ滑走路のすぐ側のフェンスを隔てた向こう側にアパートが建っているのを目にした。「米軍機がもし離発着に失敗したら、大惨事となるだろう」、普天間基地付近で生活している者なら、わざわざ上空から視察しなくとも、誰もそう思うであろう。この危険を除去するために、9年前のSACO合意で返還、移設が約束されている。ただ、移設先を県内としているため、なかなか移設されずにこの事故が発生したのだ。いつ米軍機が墜落するかもしれない、という生命の危険を脅かされながら生活している基地周辺の住民にとって、一体生存権とは誰が守るのだろうか。
国民の生命の危険を除去するのが、国家の役割であり、その危険除去のための権利を行使できるのは国民である。しかし、それは果たされていない。
確かに米軍基地の存在は日米安保の実務面の運用であるが、その日米の安全保障の傘に日本国民だけでなく、沖縄県民、宜野湾市民も入っている。しかし、その安全保障の傘よりも、その中の方が実は危険である、というのは皮肉なことである。国民の生命、財産を守る、または国民が生命、財産を守ることは憲法でも保障されているにもかかわらず、それが行われていないとすれば、普天間基地の存在は憲法違反であるか、憲法がそもそも間違っているかどちらかしかないだろう。ただ、国民の生命、財産を守らないという国家があるのはおかしいことで、基地の存在は憲法に違反していると言えるのではないか。
事故の処理
今回の事故について、その衝撃は確かに大きかった。とりわけ住宅密集地のすぐ側に墜落し、大学の職員校舎の壁を大きく削った生々しいあとを見ると、そのことを感じる。しかし、私が驚いたのは、事故発生後に何の断りもなしに、事故現場を占拠した米軍の振る舞いである。事件発生後、普天間基地に配属されていた米兵はフェンスを乗り越え、大学敷地という私有地に無断で入り、その上占拠した。日本の憲法、法律のどこをひっくり返してみても、無断で他人の所有地に入り占拠してもよい、というものはない。であるなら、不法に占拠したことは明らかに憲法や法律に違反しており、そのことを訴えることもできるであろう。それ以上に問題なのは、不法占拠を目前で黙認している県や政府の対応であろう。もし、普通の民家を無断で不法占拠した場合、民家に住んでいる住民から通報されれば、もしくは通報されなくともその状態を排除するのが警察の仕事ではないか。しかし、目の前で占拠しているのが米軍であれば、何もできないとするならば、これは明らかに職務の遂行を放棄しているか、もしくは憲法や法律がそもそも間違っているかどちらかしかないだろう。ただ、不法占拠を許すという国家があるのはおかしいことで、明らかにおかしいのは不法占拠を許すということである。
国家の役割
このようにこの一連の動きをみると、国家の役割について考えることになる。国民の生命や財産をまずは除去するという役割、それを果たすための実力、つまり軍事力や警察、といった機能が果たされていないならば、それは国家における重大な欠陥であろう。欠陥があるならば、そこをしっかりと指摘し、是正に努めることが必要である。
ただ、米軍機が実際に墜落したり、その墜落現場を米軍が占拠したりするのは、この沖縄だけなのだろうか。この墜落が、塾のある神奈川県茅ヶ崎市で起こっていたならば、マスコミの対応から、事故の衝撃、処理にいたるまで、全て変わっていくだろう、そんな思いが県内で生活をしていると感じる。日本の中で、沖縄とその他の地域における、国家の役割がこれほど違うのは、国家の役割に欠陥があるからだろうか、それともそもそも沖縄が日本の一部ではない、ということなのだろうか。私は、沖縄も日本なのだから当然、国家の役割に欠陥があると考えている。特に生命を脅かすものを除去しなければならないのは、日本全国同じことで、それが地域によって違うようになると、これは国家の態をなしていないといえるだろう。
課題
日本が国家の態をなしていない、または沖縄が日本という国家の傘に入っていない、だから日本から独立しよう、そんな短絡的な意見に県民がまとまるとは考えられないが、しかし、度重なる事件事故に対して憤る県民は多い。まずは、国家の役割、つまり沖縄に生活する人々の生命、財産を守るような取り組みが必要だ。そうなってくると、普天間基地の移設は一刻の猶予も許されない。または県内の他の地域への移設に関しても同様な視点が必要であろう。このことを考えるのが国家というものかもしれないが、その国家の主権者である国民にも考える必要がある。
今回の本土マスコミ報道を見る限り、主権者である多くの国民に、沖縄に住む日本国民の現状を残念ながら訴えることができなかった。全て日本に住む人間が等しく、安全で自由に活動できる環境を整えるということが国家の役割ならば、それを国民の間でどこまで共有できるか、ということも重要であるといえるだろう。
ヘリ墜落によって幸いにも死傷者が出なかった、このことについてほっと胸をなでおろせるが、この事故の衝撃と事故の処理への政府の態度をみると、まだまだ課題は山積しているといえよう。
Thesis
Tadashi Uesato
第23期
うえさと・ただし
沖縄県那覇市議/無所属