Thesis
日本は「明治維新」と「第二次世界大戦後の復興期」において過去二度の大きな開国を達成した。2010年末来の環太平洋戦略的経済連携協定(TPP)をめぐる「第三の開国」論争は、これからの日本農業のあり方への問いでもある。本稿では、日本の伝統精神に基づく日本農業のあり方を考察し、日本の進むべき方向を明らかにする。
2010年末来、日本は、環太平洋戦略的経済連携協定(TPP)をめぐって「第三の開国」論争が沸き上がっている。日本は、過去二度の大きな開国を達成したと言われている。第一の開国は、明治維新において長きにわたる幕藩体制に終わりをつげ、中央集権国家体制を確立し、アジア初の議会制民主主義国家として近代化を推進していった時期である。これにより、政治、行政のみならず、郵便、鉄道、通信、産業、文化などの西欧の制度や技術を国内に導入した。第二の開国は、第二次世界大戦後の復興期において、閉ざされた諸外国との交流を回復させた時期である。国内産業の輸出先として外国との結びつきを強めていくことで、日本は大きく成長してきたのである。
このように日本人は、巧みに国のかたちを「開国モード」「鎖国モード」に切り替え、長きにわたる独立と繁栄を持続してきた。過去二度の開国はいずれも外圧による開国であったが、世界的なグローバル化が進む現在、日本が対峙している「第三の開国」という歴史的な問いに、これから日本はどのように対応していくべきであろうか。「開国」すべきなのか、それとも「鎖国」を続けるべきなのか。
松下幸之助塾主は、著書『日本と日本人について』の中で、次のとおり指摘する。
「まずわれわれ日本人自身が、日本と日本人というものについて考えておく必要があるのではないかと思うのです。日本というものはどのような国なのか、日本の伝統とはいかなるものか、日本人の国民性、日本精神とはどういうものなのか、そういったことを日本人自身で知らなくてはならないと思います。そういうものを正しく知ってはじめて、そのような日本独自の国民性に基づいた政治なり、その他の諸活動はいかにあるべきかということが、正しく考えられると思うのです」
これからの日本の進むべき道が明らかでないからこそ、改めて日本の伝統精神を紐解き、それを正しく知る必要があるのではないだろうか。
「開国」か「鎖国」か。その核心は国内農業にある。自由貿易を目指す産業界と、関税撤廃に反対する農業関係者の対立である。そこで、日本の伝統精神に基づきこれからの日本農業のあり方、そして日本の進むべき方向を考察していくことにする。まずは、日本の伝統精神が「稲作」を通して育まれてきたとの仮説のもと、日本の稲作の歴史を振り返りたい。
日本人と稲作の歴史は深い。日本の稲作は、中国長江下流域に起源を持ち、朝鮮半島を経由して北九州に伝えられ、弥生時代から本格的に始まったとされる。日本特有の湿潤な風土と豊かな河川は、稲作を日本全国に広げていくことになったが、山地丘陵の起伏に富んだ地形は初めから稲作に最適であったわけではない。弥生時代から歴代の日本人は、狭い原野に水田を拓くために、まず山の森林を大切に水源涵養林とし、営々と土質を改良して農地の生産力を高めることに人力を注いできた。日本の稲作農業は、自然になじみながらも、人力を尽くして自然を豊かにすることで土地生産性を高めてきたのである。
この稲作農業により、日本の「村社会」は形成されたと言われる。稲作では水田とともに灌漑用水路が重要になる。灌漑用水路が、村全体で共有・管理されたことにより、村は知識や知恵を集め、共同生活における様々なルールをつくる場となっていった。灌漑用水路を使用する権利は、村が総出で行う水路の管理や修理に参加してこそ生まれるものである。この水路管理は、日本人の性格や行動様式に大きな影響を及ぼすことになった。
また、日本人と稲作の深い関わりを示すものとして、田遊び・田植・田植踊・御田祭・御田植・御田舞等、豊作を祈るための多くの儀式・祭り・芸能が伝承されている。宮廷でも天皇は新嘗祭として、皇居の御田で収穫された稲穂を天照大神に捧げる儀式を行う。自然を八百万の神として崇う自然観が醸成されていったのである。これも日本の伝統文化の一つと言える。
京都大学の渡部忠世名誉教授によれば、日本の稲作文化は、「稲の栽培にかかわる農法あるいは技術、米の食文化、そして豊穣の祭りや信仰などに象徴される民族と儀礼あるいは宗教、さらには社会組織から国家の体制にまで及ぶ、私たちの日常の営為とその周辺の大方の総体に関わる一つの文化の体系に他ならない」ものであり、「私たちの日常生活は、今なお、この稲作文化の伝統の中に包摂されている部分が極めて多い」と言う。
このように、日本人は、稲作を通して、自然や美を愛する心、礼節を重んじる心、自然を畏れ自然と人間の調和を重んじる風土、報恩の念、きめ細かな心くばり、勤勉さなど、独自の価値観、倫理観を育んできたのである。こうした日本人の優れた特質は、日本特有の気候風土や長い歴史上の様々な体験によって磨かれ、先祖代々の伝統として受け継いできたものと言える。
一方で、松下幸之助塾主は日本の伝統精神をどのように見ているのであろうか。
松下塾主は、日本の伝統精神として「衆知を集める」「主座を保つ」「和を貴ぶ」の三つを挙げている。
すなわち、「衆知を集める」とは、広く多くの人々や国々から知識や知恵を集め、学ぶべきところは学び生かしていく姿勢・態度である。天照大神の頃からの八百万の神々による衆議、仏教を取り入れるときの過程、聖徳太子が定めた十七条憲法の第十七条の条文、鎌倉幕府時代の評定所、戦国時代の軍議・評定、五箇条の御誓文の第一条・第四条、江戸幕府時代の複数の老中による合議制などに、衆知を集める日本人の姿勢が表れていると説く。
「主座を保つ」とは、周囲の環境がどのように変化しようと、常に自分の立場を見失うことなく自主性・主体性を保ち続けるということである。建国以来二千有余年にわたって、天皇を中心にした国家体制を継続してきた中で、様々な宗教の受容に際し、いずれをも国教としなかった天皇の姿勢や、隋の煬帝と対等に関係を深めようとする聖徳太子の態度などにそれが表れている。
「和を貴ぶ」とは、平和や調和を大切にする共存共栄の精神である。日本は長きにわたって、国内外の戦争の経験が比較的少なく、日本人には世界の他の国民にもまして平和を愛する心があった。これはまさに、十七条憲法の第一条の「和をもって貴しとなす」の精神であり、日本人の精神の根底の一つとなっている。
ここまで、「稲作の歴史と伝統精神」と「松下幸之助塾主が考える日本の伝統精神」について述べてきたが、稲作を通じて育まれ継承されてきた日本の稲作文化は、まさに松下塾主の考える日本の伝統文化、伝統精神であることに気付く。
稲作によってできた「村社会」は、その風土が凝縮された場所に「神」が宿るとして神社をつくり、村人は神社で神事を行うことで、自分たちの氏神や祖霊を大事に守り継承してきた。そして、人々は、村の祭礼や入会などについての決まりを決める場として「寄合い」を形成した。誰もが同じ土俵で知恵を出し合う姿は、「まさに衆知こそ、自然の理法をひろく共同生活の上に具現せしめ、人間の天命を発揮させる最大の力である」とした松下塾主の「衆知を集める」という伝統精神に合致するものであった。
また、同時に「自然から与えられたすべてに感謝する気持ち」を持つという稲作文化が、日本人の伝統精神の源泉であったことから、万物に八百万の神が宿るという日本独自の宗教観が、仏教をはじめとする他の宗教に立場を損なわれることなく根付いたのである。塾主の説く「主座を保つ」という日本人の伝統精神がここにあり、その類まれな日本人の精神は、今なお「もったいない」という言葉で世界中にその普遍的な概念を投じている。
そして、自然は神から平等に分け与えられたものであるという「和の心」は、村社会の根底をなす概念である。豊作の時は共に喜び神に感謝し、不作の時のために皆で備蓄し合う。このような共存共栄の精神が稲作を営む村社会において大切にされてきたのである。まさに塾主が唱える「和を貴ぶ」の精神である。
稲作文化を継承していくことこそ、日本の伝統精神を守っていくことである。塾主の「衆知を集め、主座を保ち、和を貴ぶ」という日本の伝統精神に基づき、これからの日本の農業のあり方を考えていきたい。まずは、日本の農業の現状を確認する。
民俗学の先駆者である柳田國男は、1900年代当時、中国からのコメの輸入自由化が問題となっていたとき、日本の農業保護政策に対して、以下のように問題を投げかけている。
「要するに日本の農戸数は耕地の面積に比して甚だしく多きに失せり。その減少はいかにするもとうてい避くべからず、目下の問題はこれを自然に放任して各戸の実力を減じ表面上の数を維持すべきか、はたまずその数より減じて実力ある農戸を作るべきかという点にあり。しこうして一国人口の増加に伴い衣食材料の国内供給を増加することを必要とせず、かつ外国農産の侵略に対抗して自国農業を防衛するを要せざるならば、耕地の細分のごときは毫も苦慮するに及ばず。(略)ただ一個の営業として農を存立せしめんとすれば、その売買の事を考えざるべからず。販路市場の関係、競争国の貿易趨勢を察せざるべからず。今の農政家の説はあまりに折衷的なり。(略)無期の保護税策のごときは商工業者の承知せざるは当然の事なり」
100年以上前から日本の農業の構造的問題はさして変わっていない。農家の経営規模の拡大が進まず零細農家が温存され、農地集約化と生産性の向上が依然として進まない状況。減反で生産量を抑え、人為的に値段を高く維持することを主眼としてきた保護政策と、その状況に甘えてきた農家自身の問題もある。そうした背景には農家=票田と言われてきた政治的構造がある。高い価格で農家の所得を確保する一方、負担を消費者に回してきたのだ。さらに現在では、農業従事者の高齢化と後継者不足、人口減少による集落機能の低下と農村の疲弊など、日本の農業は構造的に多くの課題を抱え、国際的に見て比較劣位の立場になってしまった。このまま日本の農業は衰退の一途をたどってしまうのだろうか。
私は、日本の伝統精神に基づく農業のあり方を考えれば、「第三の開国」による貿易自由化と国内農業の振興の両立は可能であり、農業再生の道は必ず開けてくると考える。では、これからの日本農業のあり方とはどのようなものであろうか。
第一に、人間の本性に基づいた農業であるべきと考える。松下塾主はこう言っている。「人間というものは無限の能力を持っている。しかし、その能力も発揮できるような環境におかれなければ、なかなか発揮できるものではない」。人間の本性を考えつつ、農家一人ひとりの意欲と能力が最大限に発揮される自由な経営環境を整備することが大原則である。農家をただ保護していくことは現実的でない。保護され続けた産業が弱体化することは万古不易の法則である。農家も一人の人間だからである。
第二に、日本の伝統文化が継承される農業であるべきと考える。日本の伝統文化は稲作を通して育まれてきた。この稲作を営んできた村社会や地域コミュニティが崩壊するような農業は考えられない。なぜなら、村社会こそ、先祖代々の土地を守り日本の伝統文化を継承してきたからである。さらに、農産物の生産による食糧確保はもとより、自然環境や良好な景観の保全、地域経済の振興などの多くの役割を果たし、日本人が暮らす基盤となってきたからである。
第三に、共存共栄・発展生成で日本を真に豊かにする農業であるべきと考える。これまで、農家、消費者、政治家、農業組合など個々の利害が対立し、結果として国全体の利益になる農政が実施されてこなかった現実がある。表面的な対立の構図にとらわれることなく、共存共栄、真に調和ある生成発展を目指すことが本来のあるべき農業の姿ではないか。現実の農業をありのままに見て、衆知を集めてその特性を知り、相互に理解し協力し合って、ときには痛みを分かち合えば、必ず解決策は見えてくる。
第四に、世界に貢献できる農業であるべきと考える。日本の農産物は高品質で栄養価が高く食味がよい。有機栽培や無農薬などの農法技術のレベルも高い。これら日本の農産物の品質や農法技術は世界トップレベルに位置する。また、食に対する繊細な意識は、日本人が独自に作り上げてきた世界に誇れる伝統文化である。日本の農産物と食文化を合わせて海外に発信できれば、農業を思いきって輸出産業にすることも可能だ。和を貴び、共存共栄で各国が得意な農産物を作って相互に輸入し輸出し合う関係が構築されれば、日本の農業が世界に貢献できるのである。さらに、日本は農業を通して世界の貧困を救う役割を担っていくことも可能だと考える。
日本の伝統精神に基づく農業のあり方を考察してきたが、上記の四点は農産物の貿易自由化と両立可能だと考えている。貿易自由化こそ日本の農業を活性化し、それが伝統文化を守ることに繋がり、ひいては世界への貢献を可能とするからである。よって、「第三の開国」は進めるべきだというのが私の考えである。
もちろん、日本農業と言っても、「産業」「伝統文化の継承」「自然環境の保全」「食糧安全保障」など様々な側面を持つ。また、品種もコメ、野菜、酪農など様々である。収入構造も兼業農家と専業農家では異なる。気候環境や風土も北海道と沖縄では違う。貿易自由化の中での農業政策を考えるにあたっては、これらの個別事情を踏まえた上で、狭い利害を超えて様々な見方から冷静に政策議論を進めることが必要になるだろう。
日本の伝統精神を理解することは、日本の歴史と対峙すること、そして「日本人としてどうあるべきか」と自分自身に問いかけることでもある。一人の人間として、日本人として「日本の伝統精神」に対する理解をさらに深め、今後は、塾主の理念に基づく具体的な農業政策のあり方についても考察を進めていきたい。
参考文献
松下幸之助『日本と日本人について』 PHP研究所
松下幸之助『人間を考える』 PHP文庫
渡部忠世『日本のコメはどこからきたのか-稲の地平線を歩く-』 PHP研究所
渡部忠世『稲の大地―「稲の道」からみる日本の文化』 小学館
柳田國男『柳田國男全集〈29〉』 ちくま文庫
邑心文庫『老農の坂』 邑心文庫
川島博之『食の歴史と日本人』 東洋経済
神門善久『日本の食と農 危機の本質』 NTT出版
神門善久『さよならニッポン農業』 NHK出版
松沢成文『混迷日本再生~二宮尊徳の破天荒力』 ぎょうせい
Thesis
Kiyohiro Katayama
第31期
かたやま・きよひろ
一般社団法人 日本ブルーフラッグ協会 代表理事 / 慶應義塾大学SFC研究所上席所員
Mission
地域主権社会の実現-地域のリーダーシップで日本を変える-