Thesis
「行政は法の執行機関である」。私が行政職員として働き始めたときに言われた言葉である。公平・中立の立場である一方で、住民ニーズへの個別対応も求められるジレンマ。行政職員はどうあるべきか。本稿では、松下幸之助塾主の人間観を考察した上で、「人間の本質に基づいた行政経営」のあり方を考える。
「行政は法の執行機関である」。私が行政職員として働き始めたときに言われた言葉である。私は、11年間行政職員として働いたが、行政機関、とりわけ基礎自治体は国の法律の枠内で業務を遂行していくことが求められてきた。「国の法律の枠内で業務を遂行して“さえ”いれば良い」と考えられるような教育が永きに渡って職員に行われてきたのである。
わが国は戦後、経済を中心に、世界でも類を見ないほどの驚異的な発展を遂げ、世界をリードする先進国の一つとなり、国民の生活水準も飛躍的に上昇した。これは強力な中央集権体制のもとで、全国画一的な行政運営がもたらした大きな成果であった。この間、行政機関では、中央省庁―都道府県-市町村という階層構造が構築され、上から下への業務に関する指導が行われてきたのである。
しかし、少子高齢化の進展、人口減少、経済成長の鈍化と財政難、住民の価値の多様化など、これまでに経験したことのない多様な課題に直面している現在、全国画一的な行政の利点は薄れ、今や、制度疲労による弊害の方が大きくなった。画一的行政が、地域の需要に合わない行政サービスや社会資本整備など多くの無駄を生み、地域の多様な発展を阻害し、国家財政をも逼迫させてきたのである。
今や時代は大きく変わった。行政職員は、既存の制度や規則の枠にとらわれず、住民ニーズを細かく汲み取り、柔軟に業務を執行していかなければ、現場にある地域の政策課題は解決することができない。また、時代の流れを敏感に察知できる感性と先見性を持ち得なければ、地域の長期的繁栄ビジョンを描くことはできないのである。
なぜ、住民ニーズが多様化・高度化していく一方で、行政機関は時代の変化に対応できなかったのだろうか。この原因の一つに、行政機関の硬直性がある。行政職員は、昔も今も変わらず、行政機関の一員として、法律の枠内において、匿名で一律公平な業務遂行が求められているからである。いつしか行政職員自身は、法律に従うこと自体を目的化してしまったと言えるのではないだろうか。
今、行政職員は、法の執行機関としての「公平性」と、住民ニーズに的確かつ柔軟に対応すべき「自主性」というジレンマの中で、悩み、苦しみ、疲弊していっている。そして意欲を失っている職員も多い。これからの行政職員はどのようにあるべきなのか。
今ほど、日本全国にいる行政職員一人ひとりの能力を活かす行政経営が求められている時代はない。行政職員の能力と意欲を最大限に引き出せれば、行政サービスの質は上がり、地域の個性を活かしたまちづくりが実現し、ひいては日本全体を活性化することができると私は信じている。それには政治の力が必要である。私が役所を退職し政治を志している一つの大きな理由もそこにある。
私は、そのような強い問題意識を持ちながら松下政経塾に入塾し、松下幸之助塾主の理念を学んでいった。そして、行政機関という組織における経営のあり方を考える前に、まずは、行政機関という組織を形作っている職員一人ひとりの「人間」について深く学び、その問いから答えを導きだすべきなのではないかと考えるに至った。
松下幸之助塾主は、人間観・経営観の一つとして、組織で働く人間のあり方について重要な考えを述べている。それは「自主責任経営」という考え方である。本稿では、この「自主責任経営」について考察することにより、人間の本質に迫り、理想の「行政経営のあり方」について探究していきたい。
松下塾主は、人間の欲について次のように述べている。
「“欲の深い人”というと、ふつうはよくない人の代名詞として使われているようだ。いわゆる欲に目がくらんで人を殺したり金を盗んだりする事件があまりにも多いためであろう。しかし、人間の欲望というものは、決して悪の根源ではなく、人間の生命力の現われであると思う。たとえて言えば船を動かす蒸気力のようなものであろう。だからこれを悪としてその絶滅をはかろうとすると、船を止めてしまうのと同じく、人間の生命をも断ってしまわねばならぬことになる。つまり欲望それ自体は善でも悪でもなく、生そのものであり、力だといってよい。だからその欲望をいかに善に用いるかということこそ大事だと思う。」
このように松下塾主は、まずは人間の本質について、「人間の欲望」を素直に認め、それの活かし方が重要だと説いている。さらに、人間の本質について次のように述べている。
「せっかくのダイヤモンドも、これを磨かなかったり、磨き方を誤るならば、本来の輝きを得ることはできません。人間についても同様で、人間が今日まで、一方で偉大な創造、発展を遂げつつも、同時に貧困、争い、種々の不安や不幸に陥ってきたのは、みずからの本質が、あたかもダイヤモンドのように磨けば輝くものであることに気づかなかったり、磨き方を誤っていたからではないでしょうか。したがって、もし私たちが今後、お互い人間の本質は、磨けば輝くダイヤモンドのようなものという自覚をもっと高め、これを正しく磨く方法を求め実践していくならば、そこから人間のすぐれた本質がより多く発揮されてきて、これまでのような大きな犠牲を伴わずに進歩発展していく道が、よりスムーズにひらけてくるのではないでしょうか」。
「人間の持つすぐれた本質を正しく認識し、知恵を寄せあって、その本質に基づく社会のしくみや生活態度を生み出していくよう努めるならば、その道は必ず見出すことができると思うのです」。
「自主責任経営」は、松下塾主の経営理念を語るうえで欠かすことのできないものの一つである。これを社員個々人の心得レベルで説いたものに「社員稼業」という考え方がある。 松下塾主は、社員の人たちに、「自分は〝社員稼業〞という一つの独立経営体の主人公であり、経営者である」という心意気で仕事に取り組み、ものを見、判断することができないかと提案したのである。そのような考えに徹することができれば、自分のこととして働く喜びを味わえて、苦しいことも乗り越えられるというのである。
「自主責任経営」の考え方は、会社組織レベルでは「事業部制」に、さらに国家レベルでは「北海道独立論」「廃県置州論」「置州簡県論」にみることができる。もし、地方の自主性を大幅に認めたならば、地方全体の政治の生産性が向上し、国民活動も活発になり、結果的に国全体としても大きなプラスになるだろうというのである。
「自主責任経営」の考え方は、このように、小は一社員のレベルから、大は国家経営のレベルからまで一貫しており、松下塾主の経営理念の中心を成すものであった。これは、松下塾主自身の企業経営における人間に対する深い洞察からきているといえるだろう。すなわち、人間は、みずから自主的に、責任感をもって事にあたり、創意工夫を発揮して取り組むときに、やりがいを感じ、大きな成果をあげるものだといった人間に対する見方である。
では、松下塾主の「自主責任経営」の考え方は、どのような思いや考え方から生まれたのか。これは松下塾主の自然・宇宙観や人間観に深く根差しているといえるのではないだろうか。例えば、「対立と調和」という自然観・宇宙観である。
松下塾主は、この宇宙に存在しているすべてのものは「対立」しつつ「調和」していると考えていた。ここでいう「対立」とは、万物それぞれがその独自の個性や立場を発揮し、独自に独立して存在している姿をいう。太陽は太陽、月は月、地球は地球、山は山、どんなものでも、みなそれぞれに与えられた天与の特質や役割、立場があり、その役割や立場は、そのもの独自のもので、他のものがこれに代わることはできない。その意味で、みな独立の一対一の関係にある。この関係を保つことが「対立」だと言うのである。
しかし、単に対立しているだけかというと、そうではない。対立した形においてそこに調和を保っている。対立しつつ調和しているからこそ、宇宙はスムーズに運行し、生成発展しているのである。対立だけでは混乱が生じ、調和だけでは発展しない。対立しつつ調和するところにはじめて、それぞれの個性、特質が生きて生成発展が生まれる。したがって、対立と調和が自然の理法であり、社会のあるべき姿だと、松下塾主は説いているのである。
この「対立しつつ調和するところに秩序ある生成発展が生まれる」という自然・宇宙観は、「自主責任経営」と「共存共栄」の関係と同じだと言えないだろうか。
行政機関は、法の執行機関としての「公平性」と、住民ニーズに的確かつ柔軟に対応すべき「自主性」が同居している機関である。これらは時には相対立し矛盾するというジレンマを抱えている。このような中で、行政職員は国民や住民からの期待や要求に必死で応えようと、悩み、苦しみ、そして疲弊し、意欲を失いかけている。
国も自治体も行政職員は真面目に仕事をしている。しかし、職員の能力や意欲が充分に活かされてこなかったところに問題がある。職員も一人ひとりを見れば生身の人間である。これまでの行政経営は人間の本質に基づいていなかったから、職員の能力や意欲を充分に活かすことができなかったのではないか。
法の執行機関としての「公平性」を求められるということは、公のための仕事であるということである。行政は、地域のため、国のために貢献できるという尊い仕事である。そして、住民ニーズに的確かつ柔軟に対応するために「自主性」を求められるということは、行政職員として持つ責任や権限を最大限に活かして、創意工夫を持ってあらゆる可能性を求めて仕事ができるということである。
これからのことをまずは再認識し、人間の本質にみる行政経営のあり方を考えていくことが必要だろう。
人間の本質にみる行政経営のあり方を考えていくために、行政という特殊な環境を十分に理解した上で、行政経営の基本理念を確立し、それに基づき行政経営の仕組みと運用を改めて考えていきたい。
私が考える「人間の本質に基づいた行政経営」の第一の基本理念は、人間の欲望を適切に満たす行政であるべきということである。人間の欲望というものを、決して悪の根源ではなく、人間の生命力の現われだと認識し、個々の職員それぞれが持つ欲望というものを認め、それを活かすという視点が大切だと考える。行政職員を一概に語ることはできないが、職員は皆、住民のために、地域のために、そして国のために働きたいという気持ちを持っている。こうした前向きで尊い気持ちを尊重した行政が実現できれば行政の質は格段と上がるだろう。
行政機関への批判は簡単である。しかし、行政職員も生身の人間であり、それだけでは人間の本質を無視しており、行政機能が向上することはない。行政職員自身が、住民や国民からの批判を真摯に受け取り対応していくことはもちろん重要であるが、その前提として、公のための仕事をしている行政職員の誇りと生きがいを尊重するような行政のあり方を考えることが重要であろう。
第二の基本理念は、「自主責任経営」の考え方を充分に取り入れた行政であるべきということである。これまで述べてきたように、行政機関は、法の執行機関としての「公平性」と、住民ニーズに的確かつ柔軟に対応すべき「自主性」が同居している。しかし、これは高い「秩序」の中で、個人の能力や適正を活かせる広い「自由」があるということである。これほど尊い仕事があるだろうか。
これからの行政は、「自主責任経営」の考えのもと、「秩序」と「自由」を持つこの環境を最大限に活かして経営されていくべきである。そうすれば、職員は自分の個性や能力、意欲を十分に発揮し、法律の範囲でありながらも、住民ニーズを最大限に汲み取り、高い行政サービスを実現させることができるだろう。
第三の基本理念は、「共存共栄」の考え方に基づいた行政であるべきということである。政治主導が叫ばれるが、真の政治主導とは、行政職員を単なる執行機関として扱うのではなく、政治家と行政職員のそれぞれの特性と役割分担を認識した上で、相互に協力していく姿である。
この「共存共栄」の考え方は、「政治」と「行政」の関係だけではなく、「地域」と「国」の関係、「公」と「民」の関係にも当てはまるだろう。それぞれは、一見対立しているように見える。しかし、その対立を単なる対立で終わらせるのではなく、それぞれの特性をお互い認識した上で、良い部分は活かし合い、弱い部分は補い合い、調和していくことこそが重要だと考える。そうすれば、相乗効果によりさらに大きな力が生まれ、行政経営の質は格段に高まり、地域と国の絶え間ない生成発展が実現されるだろう。
どうすれば「共存共栄」できるのか。松下塾主は、まずそれぞれがしっかりと自立することだという。「共存共栄」は、関係者が互いにもたれ合い、依存し合うことではない。それぞれが他を頼り、ふらふらしていたのでは、隣の人が惑する。だから「共存共栄」の実をあげるには、各自がその自主性、独立性を堅持し、そのうえで協力していかなければならない。すなわち、「自主責任経営」のないところに「共存共栄」はありえない、というのである。
本稿では、松下塾主の「自主責任経営」と「共存共栄」の考えを考察することにより、人間の本質に迫り、理想の「行政経営のあり方」について考えてきた。今後も、「自主責任経営」と「共存共栄」の考え方をさらに探究し、これらの考え方を自らの自治体経営及び国家経営の理念として昇華し、明確な理念として確立していきたい。
参考文献
『松下幸之助研究』99年春季号
松下幸之助『人間を考える』PHP文庫 1995年
松下幸之助『松下幸之助の哲学』PHP文庫 2009年
Thesis
Kiyohiro Katayama
第31期
かたやま・きよひろ
一般社団法人 日本ブルーフラッグ協会 代表理事 / 慶應義塾大学SFC研究所上席所員
Mission
地域主権社会の実現-地域のリーダーシップで日本を変える-