論考

Thesis

“抑止”について静かに考える

2022年2月に始まったロシアによるウクライナ侵攻は、1993年生まれの私にとって初めて同時代に目撃する国家間戦争でした。それは、これまでの常識が容易に破られた瞬間でした。本稿は、いま一度私たちがあたりまえに使っている「抑止」という言葉を静かに検討しなおすことで、現在日本国内で起きている抑止をめぐる議論を再検討します。

はじめに~2022年最大の衝撃

 2022年2月24日、ロシア連邦のプーチン大統領はウクライナへの軍事作戦の開始を宣言した。1993年生まれの私にとって初めて同時代に目撃する国家間戦争であった。大学時代に受けた政治学や国際関係論の授業では「冷戦が終わり、核兵器による相互抑止が定着した現代において国家間戦争のリスクは大きく低下した」というのが決まり文句だったのである。しかし、今回の軍事侵攻はそんな「常識」を簡単に打ち破った。日々SNSなどのウェブメディアを通して伝えられる戦地の惨状はあまりにも生々しい。そしてこうした悲劇を通して、私はこれまで事実をとらえ思考を行うための道具である概念や定説を所与のものとしてとらえていたのだ、と痛感したのである。幸い我が国は先の大戦における敗戦後、未だ武力を伴う国家間紛争の当事者とはなっていない。これは戦後日本の外交・安全保障史において誇るべき史実である。だからこそ、私たちが安全保障をめぐり日常づかいをしている言葉を静かに丁寧に問い直してみたい。本稿では、安全保障戦略である「抑止」戦略の概念を整理し、「抑止力を持てばすべてが解決する」というひとつの思い込みともいえる「常識」を相対化する。まずは、国内世論における抑止力強化の機運の高まりから議論をはじめたい。

1.「抑止」に対する機運の高まり

 ロシアのウクライナ侵攻は、中国にとっては台湾侵攻時のアメリカ等の同盟国の動向を探る観測気球となるとも考えられており、東アジアの安全保障環境にも緊張が高まっている。アメリカはこれまで台湾に対し、「台湾の防衛を⽀援するが軍事介⼊による防衛義務を明確にしないことにより、台湾の独⽴を抑⽌し、同時に中国による台湾軍事侵攻も抑⽌する政策[1]」として「戦略的曖昧性」のスタンスをとってきた。ところが近年、アメリカ国内からは中国による台湾へのけん制の激化を踏まえ、こうしたスタンスを見直して台湾防衛義務を明確にすべしとの議論も出ている[2]。アメリカの軍事介入が行われるとすると、在日米軍基地からの出動が想定され、その際には日米安全保障条約第六条の事前協議事項となる[3]。さらにその先には、日本の領土侵攻への危機感も高まると予想される。

 こうした背景から日本国内では自国の防衛能力の強化によって「抑止」力の向上を図る議論が高まっている。政府は国家安全保障戦略において「我が国への侵攻を抑止する上で鍵となるのは、スタンド・オフ防衛能力等を活用した反撃能力である[4]」と明記し、敵基地攻撃能力(反撃能力)の保有を決定した。これに対し、朝日新聞が2022年12月17日、18日に実施した世論調査では、敵基地攻撃能力(反撃能力)の保有に対して56%が賛成[5]としており、世論の支持もまたこうした政策決定を後押ししている形である。

 このように、我が国では「抑止」力の強化を求める声が高まっている。それでは、「抑止」力を強化さえすれば平和―格差・社会的差別など構造的暴力の不在を指す積極的平和主義も含め平和概念自体も多義的[6]であるが、ここでは戦争の不在として定義される消極的平和をさす―を担保できるのか。そもそも、「抑止」とはどのような戦略なのか。次章以降では「抑止」の概念の整理を行うことで、当該戦略の条件とリスクを検討する。

2.「抑止」の条件としてのシグナリング

 ある国家が外交交渉に拠らず武力による威嚇を発しながら、現状の国境線、資源配分、政治体制を変えるように他国に要求するところから国際危機は発生する。こうした行動をとる国を修正主義国、現状の保護を企てる国を現状維持国と仮定する。抑止は「極度に緊張した国家間関係、いわゆる国際危機の状況において、国家の安全と利益を脅かす敵国の武力の行使や武力による威嚇を事前に防止しようとする現実主義の政策概念[7]」と定義され、修正主義国の試みを阻むことを目論む。その一方で、修正主義国が現状維持国の決意を低く評価すれば、武力を行使した現状変更を行うインセンティブが生まれる。

 鈴木基史は「現状維持国は現状を守る固い決意を持っているという修正主義の評価が抑止成功の重要条件[8]」であるとする。抑止に失敗が起こりえるのは、現実には国家間の関係において、相手の行動に対する不確実性が付きまとうからである。極度に緊張した国際関係では相手の思惑を十分に理解することは困難である。また、こうした不確実性は、平時における外交関係などを通して国家間の相互不信が強まっていればより強固となる。

 こうした問題を解消すべく、自国の意図を明示的に示す戦略が「シグナリング」である。鈴木はJ・フェアロンの議論を参照して、二つの例を挙げている。一例目は、政治指導者が相手国や自国民に対する明確な意思表明や、相互救援などの国際的約束を義務化する、「自らの手を縛る」戦略である[9]。これらの行為は戦略を実行しなかった際の政治的コストを自ら高めることで、抑止に信憑性をもたせる。二つ目は、戦略的に重要な拠点に軍隊を駐留させておき、駐留にかかる費用をシグナルとする「トリップワイヤー」である[10]

 いずれのシグナリングでも、修正主義国にとって認識可能であり、またシグナリングに関わる費用は大きなものでなければならない。また、近年ではこれらのシグナリングを一つの国家間コミュニケーションとして捉えるとすると、その精度をあげるのは、「敵、敵が持つ価値観、動機、意思」といったある種の戦略文化[11]を理解することでもあり、インテリジェンスの機能もまた重要となっている。

 これらの戦略を現代史で考えれば、イギリスとアルゼンチンによるフォークランド紛争や、北朝鮮の韓国侵略に伴う朝鮮戦争はこうしたシグナリングの失敗として語られる。いずれの例も、シグナリングの失敗により修正主義国の先制攻撃を誘発することとなった。

 また、こうした一国家による作用を「抑止」であるとすると、日米同盟をはじめとした諸国の連合による抑止は「拡大抑止」と呼ばれ、共同防衛の義務化を通じて拡大抑止の信憑性を効果的に伝える効果があるとされる。しかし、拡大抑止には通常のシグナリング以外にも課題がある。それは、同盟国間の軍事支援などでシグナリングを強化することで、同盟国が好戦的行動を助長してしまう、モラルハザードが起こるリスクもあることである[12]。朝鮮戦争以前のアメリカが韓国の軍事支援を限定していたのは李承晩政権の好戦的行動を警戒していた側面もあったといわれている。

 以上のように、抑止のための適度なシグナリング装置を設計することは容易ではないのである。その結果として、最悪の場合、戦争を望まない国と国が戦争にむかう未来が待ち構えている。

3.私たちは抑止をどう考えるか

 現在の日本の敵基地攻撃能力(反撃能力)の議論に戻って考えてみよう。自衛のための敵基地攻撃能力(反撃能力)の執行には、敵が攻撃に「着手」したという認定が必要となる。国会ではそもそもこの認定が可能なのかという議論が繰り返されている。仮に、この認定を誤った場合には「先制攻撃」の当事者となる危険性を孕んでいる。はたして有事に直面した時、実際にこのような政治的リスクを政治指導者はとることはできるだろうか。さらに、敵基地攻撃力(反撃能力)そのものの戦力としての有効性はどうだろうか。これらの点を考えれば、敵基地攻撃能力(反撃能力)の保有がそれ単体でシグナリングとしての戦略上の効果を大きく向上させるとは必ずしも断言できない。ランド研究所のジェフリーホーナンは2022年5月22日のNHKによるインタビューで「日本は何のためにその能力を持つのか? アメリカ軍とのあいだでどう統合的に運用するのか? どのような指揮命令系統の下でどう連携するのか? 反撃能力はとても高価な買い物になる[13]」と指摘している。同盟もまた拡大抑止戦略の一環とするのであれば、同盟内での意義や実際の運用を踏まえた長期的なビジョンが必要とされるだろう。その時初めて効果的な抑止が可能となる。私たち国民は、勇ましい議論のみにとらわれることなく、抑止という言葉を静かに丁寧に検討しながら、そのあるべき姿を議論すべきではなかろうか。

[1]田中均『【朝日新聞・論座】「台湾有事」の客観的リスクを理解しよう』https://www.jri.co.jp/page.jsp?id=101946、(2022年12月22日閲覧)

[2]岡崎研究所『使命を終えた米国の台湾に対する戦略的曖昧政策』、Wedge ONLINE、2022年1月18日、https://wedge.ismedia.jp/articles/-/25410、(2022年12月22日閲覧)

[3]編集代表、奥寺直也、小寺彰『国際条約集2014年版』、有斐閣、2014年、p676

[4]内閣官房『国家安全保障戦略について―令和4年 12 月 16 日 国家安全保障会議決定閣議決定―』、p17、https://www.cas.go.jp/jp/siryou/221216anzenhoshounss-j.pdf、(2022年12月22日閲覧)

[5]朝日新聞『敵基地攻撃「賛成」56% 内閣不支持層でも賛成過半 朝日世論調査』、12月19日(2022年12月22日閲覧)

[6]編岡本三夫、横山正樹『平和学の現在「第4章平和―構造的暴力と積極的平和―」』、法律文化社、1999年、pp.54-65

[7]鈴木基史『平和と安全保障』、東京大学出版会、2007年、p59

[8]鈴木、p62

[9]鈴木、pp.62,63

[10]鈴木、p63

[11]編ジョン・ベイリス、ジェームズ・ウォルツ、コリン・グレイ『戦略論―現代世界の軍事と戦争―』石津朋之訳、勁草書房、2012年、P147

[12]鈴木、p66

[13]NHK国際ニュースナビ『【詳しく】「台湾有事」そのときアメリカ・日本は?』、https://www3.nhk.or.jp/news/special/international_news_navi/articles/qa/2022/05/31/22084.html、(2022年12月23日閲覧)
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