論考

Thesis

日本の伝統精神とは~桜と特攻

日本人は桜をこよなく愛している。しかし愛するがゆえに、統一国家を目指す明治政府のイデオロギー政策の対象として、桜の花のように散りゆくことは大和男子の美徳と教えられ、先の大戦においては特攻の悲劇を生んだと考える。二度と悲劇を繰り返さないための、桜についての歴史観レポート。

<はじめに>

 さる3月30日、私は靖国神社にいた。大変な人出であった。そう桜である。前日の29日は満開になってから初の週末、また4月中旬並みの気温17.6度の陽気も重なり、靖国神社と千鳥が淵には30万人が満開の桜を見ようと訪れた。翌日は肌寒くもあったが、それでもかなりごった返していた。靖国神社がこんなに混むのは、この桜の季節と、あとは終戦記念日くらいしかない。

 それほど日本人は、世界中の誰よりも桜を愛してやまない。理由は人それぞれだろうが、透きとおるほどの美しさ、遠近感を失うほどの圧倒的な量感に心ときめく、といったものが挙がるだろう。

 しかし我々はもうひとつ、世界中の誰よりも桜を愛してやまない理由を知っている。それは、桜の花が散るときには一斉に花びらが散っていくからである。そしてそのシーンに、時として自分自身を重ね合わせるからである。

 これまで多くの日本人が、美しい桜の花の散るさまを自分自身に重ね合わせ、果ては死んでいったと私は考えている。その悲劇のひとつが、先の大戦末期に出撃した若い特攻隊員たちであった。ある特攻隊員は出撃にあたり、次のような辞世の句を残している。

「身は桜花のごとく散らんも悠久に護国の鬼と化さん」
緒方襄中尉
熊本県出身 関西大学卒 海軍第十三期飛行科予備学生
第一神風桜花特別攻撃隊 神雷部隊桜花隊
昭和20年3月21日 九州南方洋上にて戦死 23歳

 なら言いかえれば、桜の花の散るさまを自分自身に重ね合わせることがなければ、別の比喩によって結局は死を逃れることができなかっただろうか、それとも死地から救うことができただろうか、とも考えたくなる。その意味で桜は、人を死へと導く花、すなわち「死花」なのかもしれない。

 なぜ若い特攻隊員たちは、桜の散り際にこれほどまでに心惹かれ、自ら進んで死んでいったのであろうか。

<古代~江戸時代 /「散る桜」となるまで>

 ではまず、桜が日本人と表象(抱くイメージ)の面でどのような歴史を経てきたかについて簡単に追ってみたい。

(古代)

 桜はもともと、農業における再生や生産、いわゆる「生」のシンボルであった。桜の語源は田の神を意味する神の霊「サ」、の居場所「クラ」(座)と言われている。山の神は稲作を守護するために桜の花びらに宿り、田に下ってきて田の神となる。桜の開花は、農民にとって田植えの合図となり、秋の収穫によって神に感謝したのち、神は山へ帰っていく。

 このように古代においては桜は米と密接に結びつき、人々の生活のなかに溶け込んでいた。この時点では、桜は「咲く桜」であって「散る桜」ではなかった。

(平安時代)

 だが国風文化と呼ばれるように、平安時代になって日本独自の文化が成立してくる段階を迎えると、桜の象徴的意味に変化が生じ、「散る桜」が登場する。この時代の代表的歌集である『古今和歌集』から2首紹介したい。

「花の色は移りにけりないたづらにわが身世にふるながめせし間に」 / 小野小町
(自分の物悲しい思いに浸っている間に、空しくも桜の花の色が褪せてしまった)

「いざ桜われも散りなむひとさかりありなば人に憂き目見えなむ」 / 承均
(散る桜よ、われもまたお前のように散ってしまおう。人間は若さの盛りが過ぎると、見る目に鬱陶しくなるものだ)

 2首とも「散る桜」と人生の無常や死が結びついている。また同時期に書かれた紫式部の『源氏物語』は、桜の花が咲き誇る王朝絵巻であるが、ここには「あわれ」という語が1018回登場する。このようにして桜は「もののあわれ」、無常に消えていく運命の美としての象徴を意味するようになっていく。(これには仏教の末法思想も関係しているといわれている)

(江戸時代)

 しかし農村社会中心の庶民にとっては、桜はまだまだ「生としての桜」、美しさ、華やかさの象徴であった。江戸時代になり幕府によって向島や上野など桜の名所が数多くつくられ、満開の桜を愛でる「花見」が庶民の文化として定着するようになると、桜は名実とともに富士山とともに日本を代表する文化的ナショナリズムの象徴になった。つまり日本人全体が、桜を国花として考えはじめたのである。

 だが同時にそのことは、日本人全体が桜を「思考」の対象として自分と重ね合わせる素地を形成したことを意味していた。

<明治時代 / 「散る桜」と「大和魂」によるイデオロギー政策>

 幕府が倒れ明治になると、桜はその悲劇の坂へと転がり落ちていく。

 ペリーによって開国した近代日本の担い手であった明治政府は、なによりも西欧列強の侵略から免れ、富国強兵をスローガンに天皇主権の中央集権体制による強力な統一国家を作り上げる必要性に迫られていた。そのシンボルに選ばれたのが、富士山でも松でも梅でもなく、「桜」と江戸期に大成した武士道の流れをくむ「大和魂」であった。特に江戸時代の国学者本居宣長の歌、

「敷島の大和心を人とはば朝日ににほふ山桜花」
(大和心を一言で言えばどういうものか、私は直ちに朝日に輝き映じる山桜花ようなものだと答えるだろう)

を取り上げ、大和魂を象徴するのが桜であり、平安期の「散る桜」を再登場させ、国(天皇)のために桜のように散れというイデオロギー政策を展開していくことになる。それについて軍事、教育、および都市計画の三方面から見ていこう。

(軍事)

明治2年(1869) 招魂社(靖国神社)を創建、翌年から桜の樹を植え始める。

明治3年(1870) 海軍の徽章が錨と桜の花を組み合わせたものに制定。
陸軍の徽章は星を主要なモチーフとしたが、徐々にボタンや正剣、襟章、帽章などに桜が用いられ、その重要性を増す。

明治15年(1885) 軍人勅諭下賜
「義は山嶽より重く死は鴻毛より軽しと心得よ」
国(天皇)のために桜のように潔く散ることの美徳を説く。

明治43年(1911) 『歩兵の歌』 陸軍戸山学校選歌
「万朶の桜か襟の色 花は吉野に嵐吹く 大和男子に生まれては 散兵戦の花と散れ」
大和魂をもつ日本に生まれた男子ならば、戦いでは桜花のように散れ、それこそが歩兵の本領なのだというのである。

(教育)

明治19年(1886) 教科書はすべて文部大臣により検定されなければならないことになると、教科書や唱歌にも政府のイデオロギー色が反映されていく。

明治20年(1887) 『幼稚園唱歌集』
「ふたつとや、ふたつとなきみぞ。山桜。山桜。ちりてもかをれや。きみがため。きみがため」
命が二つとはない身であることを山桜に象徴させ、花と散っても、国(天皇)のためになるのだ、ということを秘めた内容。花のように国(天皇)のために散り、「かをれ」(名誉をあげよ)というメッセージ。桜の散ることと君のためとが、ひとつの歌の中で結び付いた初めてのもの。

明治33年(1900) 『高等 国語読本』(金港堂発行)
「大和心とはいかなるものぞ。唯我が国民にも代々持ち伝わる所の一のまごころなり。
このまごころは猶美しき桜花の外国にはなくして、独り我国にのみあるが如く、これによりて国の美をそへ光を輝かすなり」
美しい桜は外国には存在しないわが国独自の花であり、その花のように大和心というものもわが国の人びとのみがもっているものであると、桜と大和心が結びついている。ちなみに桜は、種類は違えどもアジア各地に自生している。

明治44年(1911) 『尋常小学唱歌 第四学年用』(文部省編纂)
「花は桜木人は武士 その桜木に囲まるる 世に靖国の御社よ
御国の為にいさぎよく 花と散りにし人々の 魂はここにぞ鎮まれる
命は軽く義は重し その義をふみて大君に 命ささげしますらおよ
銅の鳥居の奥ふかく 神垣高くまつられて 誉は世世に残るなり」
桜のようにいさぎよく散った人びとの魂が靖国に鎮まることができるとし、個人の命は軽いものであるが、国へ尽くすべき義は重いものがある。その義の方を選んで天皇のために命をささげたならば、神垣に囲まれた奥深い場所で祀られ、その誉は後世まで残るとしている。国(天皇)のために、桜の散る如く、潔く散れという思想を、国の意思として小学生に歌わせ、教育していったのである。

(都市計画)

 明治になる直前に導入された桜の新種であるソメイヨシノは、移植が容易で育ちも早く、いたるところに植えることが可能であった。その特性を利用して、明治政府はソメイヨシノを全国各地の城跡に植えていくことになる。

 当初城跡は封建制度の無用の遺物とみなされたが、桜と武士道(大和魂)との象徴的関連を強化するために、城内に桜を植える計画が持ち上がる。そして明治15年(1882)の弘前城跡をはじめ全国各地の城跡に桜が植えられ、長野県の高遠城跡や新潟県の高田城跡など現在でも多くの花見の名所は、皆明治になって植えられたものである。

 また桜の花は、日本の植民地拡大の象徴ともなった。満州、朝鮮など侵略した土地に桜を植えることにより、日本の領土であることを空間的にも表象したわけである。

<新渡戸稲造の『武士道』>

 明治政府によるイデオロギー政策が着々を進行しつつある中で、当時のマスコミや知識人なども総じて、「桜」と「大和魂」によるナショナリズムの形成に一役も二役も手伝う結果となった。上述の本居宣長の歌によって、武士の精神と桜を結びつけた人物に新渡戸稲造がいる。彼はその名著『武士道』において、

「武士道は最初選良(エリート)の光栄として始まったが、時をふるにしたがい国民全般の渇仰および霊感となった。しかし平民は武士の道徳的高さまでは達しえなかったけれども、大和魂は遂に島帝国の民族的精神を表現するに至った」

と幕末から明治期には武士道と大和魂とが結びついたものとなっていたことを述べている。そして桜が国民の花となっていることをつぎのように説く。

「本居宣長の歌は、我が国民の無言の言をば表現したのである。桜は古来我が国民の愛花であり、我が国民性の表章であった」

 つまり武士道は、武士に限らず日本人全員の魂を体現するものとしてのそれ(大和魂)へと変容し、その大和魂を象徴するものが、桜というのである。

 このようにして明治政府による、強力な統一国家を作り上げるために行った「桜」を通じたイデオロギー政策は、日清・日露の両戦争の勝利も加わって、その意図する方向へ突き進んでいった。

<大正・昭和初期 / そして悲劇の特攻へ>

 束の間の大正デモクラシーの後、軍国主義・全体主義のもと泥沼の戦争へと傾いていった戦前の日本においては、もはやことさら「散る桜」と「大和魂」のイデオロギーがいかに国民に影響を与えたかを述べる必要性もないであろう。国民を挙げて、『同期の桜』に代表されるような数限りないほどの「散る桜」が歌われもし、戦時中は「大和魂」でもって米英の物量に勝つことが求められた。

 そして日本の敗色が濃厚になると、いよいよ乾坤一擲の「特別攻撃隊」、特攻隊が編成される。その最初の出撃は昭和19年10月25日のレイテ湾開戦においてであり、敷島隊がレイテ湾のアメリカ軍艦に体当たりを敢行した。

 特攻隊は考案された当初から、桜にたとえたものが数多く採用されていた。航空特攻兵器として採用された小型のグライダーには「桜花」という名前がつけられ、部隊には、山桜隊、初桜隊、若桜隊、葉桜隊などである。また特攻機の白地の機体には、桃色で満開の桜が描かれた。

 しかしもはや、若い特攻隊員たちに「散る桜」と「大和魂」の説明は不要だった。国のため桜の咲く時期に出撃した彼らは、それぞれ辞世の句を残して軍服に桜の枝をさし、桜の枝をふりながら、飛行場を飛び立っていったのである。

大空に国の鎮めと散り行かん 大和男子の 八重の桜と / 高橋安吉一等飛行兵曹 神風特別攻撃隊 月光隊 22歳
大和桜散りゆくときは君が為 何をかなさん なさでやむべき / 諸井守曹長 義烈空挺隊
散るために咲いてくれたか桜花 散るこそものの見事なりけり / 増田利雄軍曹 飛行第105戦隊 21歳
栄えある国に生れしこの恩は 桜の花と散りて返さむ / 小室静雄少尉 第一護皐白鷺隊 23歳
散りぎはは桜の如くあれかしと 祈るは武士の常心なり / 小林昭二郎二等飛行兵曹 第一護皐白鷺隊 20歳
山桜散り行く時に散らざれば 散りゆく時は既に去りゆく / 吉沢久與飛行兵長 第3御楯706部隊 18歳

・・・二度と帰ることのない、祖国をあとにして。

<おわりに>

 これまでみてきたように、「散る桜」は明治政府のイデオロギー政策が起点となって「大和魂」と結びつけられ、それがやがて悲劇の特攻を生む結果となってしまった。しかしややもすると、散る桜によらなくともいずれ特攻は計画され、愛国心に燃える若者たちは進んで死んでいったと考える向きもあろうが、果たしてそうだろうか。

 私は今年の2月、初めて鹿児島知覧の特攻平和会館を訪れ、膨大な量の特攻隊員たちの遺書や日記を見た。年端もいかない十代の少年、学徒動員によって召集された大学生のそれを見るに、確かに表面上はお国のために死ぬ覚悟が出来てはいるものの、やはり内面には「生への執着」に溢れていた。母への想い、恋人への想い、兄弟への想い、子への想い、妻への想い。叶うるならば生きて一緒に暮らしたい。それは現代の私たちが抱く感情とまさしく同じなのだ。歴史に<if>を考えるべきではないのは重々承知であるが、桜によるイデオロギーがなければ、彼らは桜のように散る決意ができずに、特攻が戦術として成り立たなかった可能性はあると思う。

 戦後、空襲によって廃墟となった全国各地にはもう一度桜が植えられ、今では昔以上に日本は桜の国として、桜は日本人の一部になっている。しかし二度と繰り返されてはならない桜による日本人の悲劇を、私たちは忘れてはならない。桜に想いを馳せるとき、花見を楽しむとき、日本人と桜の関係が続く限り永遠に。

以上

参考文献

『花見と桜~日本的なるもの再考』 白幡洋三郎 PHP新書
『ねじ曲げられた桜~美意識と軍国主義』 大貫恵美子 岩波書店
『桜が創った日本~ソメイヨシノ起源への旅』 佐藤俊樹 岩波新書
『ものと人間の文化史~桜』 有岡利幸 法政大学出版局
『桜誌~その文化と時代』 小川和佑 原書房
『桜と日本人ノート~カラー版』 安藤潔 文芸社

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井桁幹人の論考

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