論考

Thesis

アレントの「モッブ」と戦前日本のファシズムの相似性

ナチスドイツをはじめとして、20世紀の全体主義を考察したことで知られるユダヤ人のハンナ・アレント。彼女の分析は戦前日本のファシズムにもよくあてはまる。その中でも特に右翼に焦点を絞り、ナチズムとの比較を論じていきたい。

<はじめに>

 松下政経塾27期生は1年次の研修で、政治学者の五百旗頭薫先生と社会学者の橋爪大三郎先生から、「宮崎滔天」と「ハンナ・アレント」についての講義をそれぞれ受けた。私はその講義を今でもよく覚えており、とりわけ宮崎のような浪人が明治維新やそれに続く自由民権運動の「純度」を保つために、ある者は宮崎のように大陸に渡り、ある者は頭山満のように国家改造を目論んだという話を聴いた時は、私の歴史観に一筋の光明を与えてくれた。

 さてアレントである。ドイツ系ユダヤ人のアレントはナチスの迫害から逃れ、第二次大戦後『全体主義の起源』を著してナチスドイツ・ファシズムの解明を試みた政治学者であり、またハイデルベルグ大学でヤスパースに学び、フッサール、ハイデガーとも親交のあった思想家でもある。橋爪先生の講義はその『全体主義の起源』を読み解くという内容であった。そこで私はある単語に目がいく。それが「モッブ」である。「モッブ」については後段で詳述するが、19世紀末の資本主義が生み出した階級社会の脱落者である一方、官僚や政党と結びついてファシズムを展開していく影の主役でもあった。

 私はこれに戦前日本のファシズムの一端を担った頭山のような右翼を重ね合わせたのである。

―――アレントを読めば戦前日本のファシズムが見えてくるに違いない―――

 それが、今回のレポートの趣旨である。まずアレントのいう「モッブ」について述べた上で、戦前日本のファシズムを担った右翼との一致に論及していく。続いてそのファシズムが台頭した社会的背景と、その現代との相似性について考えていきたい。

<アレントを読み解く①…帝国主義の膨張とモッブの誕生>

 アレントによれば、「モッブ」の発生は19世紀末に膨張した帝国主義に起因している。

 帝国主義の膨張は、1860年代、70年代のヨーロッパの経済危機に端を発している。まず国民経済の枠内で有効な投資先を見出せなくなった資本の余剰と、その増加をもたらした。そしてそれらの余剰資本は、投資先を海外に求めることになったのである。

 資本主義の発展は余剰な資本だけではなく、余剰な人間をも生み出していた。すなわち、資本主義はたびたび、「生産者の列から引き離され、永久的失業状態に陥れられてきた」人々を生み出してきたというのである。彼らは、過剰資本の所有者と同じく、「社会にとって余計な存在」であった。そして帝国主義はこの人間の余剰を資本の余剰と結びつけた。すなわち過剰になった労働力と過剰となった資本の輸出先、はけ口を海外に求めたのである。その人間の余剰が「モッブ」という存在である。

 アレントはモッブを「全階級、全階層からの脱落者の寄り集まり」と定義している。アレントが描くモッブの具体的イメージのひとつは、19世紀後半に帝国主義的膨張の先兵となった「冒険家や商人、犯罪者や山師などあらゆる種類の敗残者」「本職の金採掘者、投機家、酒場経営者、旧軍人、良家の末息子、要するにヨーロッパでは使い物にならないか、あるいはさまざまな理由から生活に我慢できなくなった者」である。

<アレントを読み解く…②モッブのファシズム化>

 このように帝国主義では資本がモッブを使って植民地経営に乗り出した訳であるが、同じ帝国主義でもイギリスは海外領土が多くあるために、この資本とモッブの同盟が本国の国内政治に影響を与えなかった。しかしドイツのように地球分割に与れなかった国では、資本とモッブの同盟は本国自体の中で成立し、国内政治に直接的影響をもたらすようになる。

 モッブを特徴づける要素は、反倫理性である。それでいて直情径行タイプが多く、一度信じ込むと手がつけられない。そのことが反ユダヤ主義や人種主義(汎ゲルマン主義)に熱狂させ、ついにはナチスの指導者層を供給することにもなっていく。

 つまりモッブとは、19世紀末から20世紀初頭にかけての「閉塞感」が産み落とした、社会の申し子、いわば資本主義の帰結に他ならない。そしてその存在がドイツなどの大陸帝国主義において、帝国主義から「全体主義」への転化を生み、つまりファシズムへの道が生じることになった、とアレントは結論付けている。

<戦前日本のファシズム①…地方の窮乏>

 では、戦前日本のファシズムを担った右翼はどうか。戦前日本のファシズムは、維新の分け前に与れなかった旧士族が中心となり、自由民権運動というイデオロギーによって激しい反政府運動を展開したものの、チャンスをものに出来ずに燻っていた明治中期の国粋主義に端を発する。

 その国粋主義の創始者ともいえる志賀重昴(岡崎藩士の子)が、明治21年機関紙「日本人」で時の黒田清隆首相にあてた一文に次のくだりがある。

「蓮田(現埼玉県蓮田市)若しくは古河(現茨城県古河市)の停車場より下りて、地方人民の惨況を倩視せられんことなり。日本全国の財力能力は悉く東京に集合し、東京は益々繁華を極尽して地方は益々窮乏しつつ、東京の日本にして日本の東京に非ず…吁嗟東京の栄華は地方の衰頽と正比例を為すものなり…」

 このように彼は中央と地方の発展の不均衡を衝き、藩閥政府の欧化主義(=急激な資本主義化)に反対し、農村進行と民力涵養(農本主義)を唱えた。重要なのは、日本資本主義の発展が農業部門の犠牲においてなされ、この上からの近代化に対する下からの(民間からの)反発が戦前のファシズム思想の原点だということである。(補足すれば、彼らは商工業を否定せず厚生経済原則の上に統制して管理せよ、と訴えており、資本主義反対→国家統制→ファシズムの図式となる)

<戦前日本のファシズム②…昭和大恐慌>

 この民間からのファシズム運動は昭和5、6年ごろから急激に激化していくが、それは昭和4年に起こった世界恐慌が日本においては農業恐慌として最大の猛威を振るったことにある。

 昭和5年、豊作飢饉によって米相場が、恐慌を受けて輸出品である生糸がともに暴落、翌6年には冷害による大凶作で東北農民の言語に絶する窮状が現出した。私も学校の歴史の教科書で大根をかじっている子供の写真を見たことがあるが、「稗飯を食べるのが恵まれた最上流の農家」であり、「布団もなく藁を粉にして水と共にすりこむ」といったすさまじい食糧事情だった。わずか10円(当時の小学校教諭の月給は45円~50円、現在にして6万円!)で小学生の娘を手放したという哀話も伝わっている。なお血盟団員の小沼正も井上準之助蔵相暗殺直後、検察の取調べに対して「農村の窮乏を見るに忍びず、これは蔵相のやり方が悪かったからだ」と供述している。

<戦前日本のファシズム③…日本版モッブの誕生>

 民間からのファシズム運動はその後右翼団体として徒党を組み、五・一五事件や血盟団事件、二・二六事件などを通じて国家改造を目論んでいくが、歴史上有名な団体とリーダーだけをみても、アレントの指摘したモッブのイメージとよく整合している。

玄洋社…頭山満 没落士族の子(福岡藩)※福岡藩は維新政府の要職につけなかった
黒龍会…内田良平 福岡藩士の子(大陸浪人)※黒龍会は玄洋社の海外センター的存在
血盟団…井上日召 名医の子 大学中退後大陸へ渡る(大陸浪人)
老壮会…北一輝 父は町長 眼の病により高校退学、その後大陸へ渡る(大陸浪人)

 特に日本のモッブには幕末浪人的な類型がよくあてはまる。頭山満などは自身の回顧録で、

「弁当を取って食う。金は払わん。弁当屋の女が催促にくる。裸で追い返す」

と誇らしげに語っているし、彼らが料理屋で酒盃を傾けつつ国を歎ずるとき、自らを幕末志士に重ね合わせていたことは想像に難くない。やはり日本においても急進ファシズム運動の中核分子は落伍した知識層や、左翼からの転向者、市民生活に耐えられない無法者などから成り立っていたのである。

 またアレントがモッブと資本との同盟を論じていたように、この日本のモッブたちも政財界や軍部としっかりと結びついていた。三井財閥の常務理事池田成彬は北に毎年2万円(当時の総理大臣の月給は800円)を与えていたという。

<戦前日本のファシズム④…日本版モッブの末路>

 しかし日本版「モッブ」の特徴は、それが最後まで大衆的組織をもたず、また大衆を組織化することに大した熱意も示さず、むしろ少数者の「志士」、一種の英雄主義(ヒロイズム)の運動に終始したということである。同じく右翼団体であった愛郷塾の橘孝三郎は、「革新は、ただ救国済民の大道を天意に従って歩み得るの志士の一団によってのみ、開拓さるるものである」と言っているし、井上日召も「私は理屈を超越していまして、全く直感で動いています」と組織や理論を否定する。

 だがそれは彼らの悲劇を招くことになった。結局日本の下からのファシズム運動はついに最後まで少数の志士の運動におわり、軍内部でも志士と結びついていた「皇道派」が二・二六事件後衰退し「統制派」が台頭するや、この上からのファシズムは最早モッブたちの力を必要としなかった。結局彼らは「狡兎死して走狗煮らる」にしてその役割を終えさせられ、ファシズムの中心は軍部と政府に移っていくのである。

<日本とドイツのモッブの相違>

 なぜ日本のモッブ、すなわち民間から起こったファシズム運動がナチスのようにヘゲモニーをとり得なかったのだろうか。その理由は「大衆的組織」と「民主主義」にある。

 ドイツでは第一次大戦後、民主主義が確立し(ワイマール憲法など)、その地盤の上に強大なプロレタリアートが形成された。だからこそヒトラーも政権獲得のために、自分たちは労働者の党でナチスこそ真の「社会主義」の実践者だということを見せ付けなくては大衆を吸引することができなかった。1933年の総選挙でも共産党は大弾圧を受けたにもかかわらず600万票を獲得している(日本では1932年の総選挙で無産政党の合計で26万票である)。このことはドイツにおいては、下からの大衆の力がいかに強大なものであったかを物語っている。

 翻って日本はどうか。1920年に日本最初のメーデーが行なわれたように、大正末期から労働運動は年々盛んになっていった。しかしプロレタリアートの数は伸びていない。1926年の国際連盟統計年鑑には、当時の工業人口が掲載されている。

日本:19.4%
イギリス:39.7%
フランス:33.9%
ドイツ35.8%

 いかに大日本帝国の工業化が西欧資本主義国家に比して低度であったかはこの数字によっても明瞭である。結局日本の社会構造は底辺において封建時代と変わらない生産方式を持つ零細農家と、ほとんど家族労働に依存しているような家内工業で成り立っていたわけで、(これでよく近代の戦争である総力戦を戦ったものだと思うが)大衆的組織に恵まれなかった日本のモッブは、自国の民主主義の未成熟によって、その命を縮めたのであった。

<むすび>

 もう一度ファシズムが台頭した背景を確認してみよう。それは19世紀末から20世紀初頭にかけて資本主義の陥った一般的危機であり、
1、国際的対立と戦争の危機
2、国内政治の不安定、議会や政党の腐敗・無能
3、大量的失業
4、社会に対する懐疑と絶望
5、超人的指導者(ヒーロー)への待望
などが温床であった。これを見て私は先述の志賀重昴のくだりと合わせてこう思わざるをえないのである。

―――現代の日本とそれを取り巻く世界の状況と酷似していないだろうか―――

 1はイラク戦争や北朝鮮問題、2はカネに揺れる日本の政治、3は景気回復に対する不安、4は若者たちにみられる社会への冷たい視線、5は小泉元首相再登板待望論、そして明治21年に志賀が指摘した東京と地方の地域格差は、現在の構造改革が生じさせた地域格差のそれである。日本がもう一度ファシズムへの道を歩む可能性はゼロではない。民主主義が定着しているから大丈夫であるという保証はない。ドイツは民主主義の中からヒトラーを誕生させた。我々は二度とあの過ちを繰り返さないと決意した以上、戦前のファシズム形成過程を知ることは、現代日本を生きる我々の教科書でありつづけるのである。

以上

(参考文献)

『二・二六事件~青年将校の意識と心理』 須崎愼一 吉川弘文館
『ハンナ・アーレント入門』 杉浦敏子 藤原書店
『アレント~公共性の復権』 川崎修 講談社
『現代政治の思想と行動』 丸山真男 未来社
『日本の歴史14~2つの大戦』 江口圭一 小学館ライブラリー
『わが闘争』 アドルフ・ヒトラー 岩波文庫

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井桁幹人の論考

Thesis

Mikito Igeta

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第27期

井桁 幹人

いげた・みきと

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