Thesis
塾主の著作『日本と日本人を考える』からは、明るい明治、暗い昭和、といわゆる司馬史観との関連を連想させる記述がある。それに関しての私の見解。
塾主はその著『日本と日本人を考える』のなかで、本来平和を愛する日本人がなぜ日清日露の戦争、そして太平洋戦争を戦ったのかについて述べている。その原因を探ることを通じて、戦争を避け平和を求める、という日本本来の伝統を今後は保持していくことを願っておられる。
私も現憲法のもとで平和を願う人間の一人として、日清日露、太平洋戦争の原因について塾主の考えと自身の考えとを比較考察していく必要があると感じた。そのような想いでこのレポートを書いていきたい。
塾主は日清、日露の両戦争を考えるにあたって、まず「明治」をキーワードとしている。明治の日本は、
・民族を守る
・民族の繁栄を考える
ことを第一義とし、それを目指した結果として2つの戦争に直面することになったと考えている。また、当時の、帝国主義が支配的だった風潮のなかで先進国が例外なく植民地を持っている実態をみて、それを常識的な姿と信じたのは「やむを得ない」ことであり、日清戦争については当時はじめて世界に目をひらいた小国として「先輩の行き方を見習った」ごく自然な流れであるとしている。さらに国論にまとまりがあり、それが日露戦争勝利の原因であり、台湾や南樺太の統治における同化政策を「和を貴び調和を重んじてきた」日本のよき伝統のあらわれであると述べられている。整理すると、
・先輩である先進国の行き方を見習った
・国論にまとまりがあった
・植民地の同化政策は日本のよき伝統のあらわれである
となる。つまり日清、日露の戦争は日本の伝統精神が「発揮」されていた「明治」という時代に「和の精神」に根ざして戦われたものであるとする。
しかしそれは太平洋戦争になると全く逆となる。軍人が政治に大きな支配力をもち、軍人が総理大臣の座を占めるなど、日本のよき伝統である「文官政治」が行われなくなったこと。さらに「衆知を集める」ことは顧みられず一部の軍人たちによって国論が引きずられてしまい、まとまりを失ったことを敗因として挙げておられる。特に文官政治については公家による奈良平安の治世、武士である徳川氏による250年の支配その好例として挙げている。整理すると、
・「文官政治」が行われなくなり、軍人が大きな勢力をもった
・「衆知を集める」ことができず国論がまとまらなかった
となる。つまり太平洋戦争は日本の伝統精神が失われた悲劇であり、それが敗戦の原因であるとされるのである。
ここから連想されるのはいわゆる「司馬史観」である。戦後の偉大な文学者司馬遼太郎氏の歴史観は、明治期の戦争を肯定的に、昭和期の戦争を否定的に捉え(「明るい明治」と「暗い昭和」が分断されている)ているのがその特徴であろう。
私はこれから塾主の歴史観、また司馬史観を比較考察しつつ、私自身の見解を展開していこうと思う。
明治天皇が日清戦争の開戦に強く反対したことは意外と知られていない。
―かくの如くもともと不本意ながらの儀なれば、おそれながら神明へ申上候事は、はばかるべし。―
清国と開戦するにあたって、伊勢神宮と孝明天皇陵に報告の勅使をさしむけることを、明治天皇は拒否した。不本意ながらの儀というのは婉曲な表現で、はっきり言えば「義戦にあらず」という意味である。帝国主義列強に肩を並べ、朝鮮に覇権を打ち立てようとする政府の考え方に、明治天皇は同意しなかったのである。
だが憲法はすでに発布され、内閣に輔弼される立憲君主として、明治天皇は開戦に反対を唱えることは制度上、出来なかった。その代わり、伊勢神宮と孝明天皇陵への勅使派遣を拒むことで、義戦にあらざる戦争を父や祖先の霊に告げることをいさぎよしとしなかったのである。
―このたびの戦いは、大臣の戦いであって、朕の戦いではない。―
これが明治天皇のはっきりとした日清戦争観であった。
明治維新後、日本は国内の政治の争点を外征論でそらす傾向があった。征韓論、西郷従道の征台の役、江華島事件がそうであり、その延長上が、日清戦争である。朝鮮はもともと清国の冊封国(琉球王国も同じである)として清国の属国であった。この冊封という関係は欧米の近代国際法にはなじまないものだが、欧米も国際法外の多年の習慣として理解を示していた。しかし日本政府は朝鮮に対するはっきりとしたプログラム「朝鮮半島の覇権樹立」を持っており、朝鮮政府への干渉を行っていく。
当時の朝鮮政府は李氏王朝の時代であるが、日本と同様に欧米列強の風が吹き荒れ、政治的にも経済的にも大きな混乱が生じていた。しかしながらその民族的悲願はもちろん完全独立であった。清国に干渉をしてもらいたくもなければ、日本にも干渉してもらいたくないという姿勢だったのである。
だが日本政府は必死に開戦の口実をつくろうとした。時の外相陸奥宗光の「蹇蹇録」に次のくだりがある。
―最早騎虎の勢既に成り、いかなる手段にてもとり、開戦の口実を作るべし。―
開戦しなければどうにもならない。開戦の口実をつくれというのは清国に言いがかりをつけよということに他ならない。そして清国と朝鮮に対して無理難題の最後通牒を突きつけ、開戦する。
なぜ日清戦争に日本は勝ったのか、それは「伝統精神」が発揮されたからではない。戦争の勝敗を決する最も重要な要素はプロイセンの軍事学者クラウゼヴィッツ将軍がその著「戦争論」で看破しているように「戦力」であり、戦争の重要な局面で日本の戦力が清国を優越していたからに他ならない。つまり、
・黄海海戦における海軍力の圧倒的な差(西太后の頤和園造成に予算が回され、清国は海軍を充実できずにいた)
・清国側の兵力は李鴻章ら軍閥たちの私兵であり、近代の国民軍隊制度を構築できていなかったため、統率する将が不在で、士気が奮わなかったことが勝利の要因である。
日露戦争は、極東における南下政策を押し進めるロシアと、朝鮮半島を国土防衛上の生命線と位置づける日本が戦った戦争である。まず国論についてであるが、日清戦争に比べると非戦論が声高に叫ばれたともいえる。その代表的人物が、平民社で『平民新聞』を発行した幸徳秋水やキリスト教信者の内村鑑三、『君死にたまうことなかれ』の与謝野晶子である。
政府も開戦については非常に慎重な姿勢を貫いていた。小村寿太郎、桂太郎、山縣有朋ら対露主戦派と、伊藤博文、井上馨ら戦争回避派との論争が続いていたのである。しかし日英同盟が成立するや開戦へと定まり、戦争準備を積極的に開始していく。
日露戦争は日本が勝利したというのが定説となっているが、果たしてそうであろうか。局地戦では日本が輝かしい勝利を収めたが、広大なロシアにとってみれば極東の一地域の覇権を失ったに過ぎない。当時の皇帝ニコライ2世は負けたとは思っておらず、戦争を継続させることを考えていたが、各地における厭戦気分がロシア革命の前兆を予感させ、渋々講和に傾いたという。
日本もこのまま総力戦になった場合、戦争を続けることは困難となるため終結の糸口を探していた。その結果として、賠償金のないポーツマス条約が結ばれるのである。
つまり「伝統精神」が発揮されたからではない。日本軍はロシア軍14万人に対して当初28万人の兵力を持って臨んだ。兵力は優越していた。しかし堅牢な旅順要塞の攻略に時間がかかり、その間にロシア軍も全兵力の4分の1、約100万人を動員した。日本軍も約100万人を逐次投入していった。兵力の優劣差がなくなると、戦況は硬直する。
そのなかで戦争を決定付けたのはバルチック艦隊を破った日本海海戦であった。東郷提督のT型戦闘教義(縦陣で航行する敵艦隊の戦闘を抑えるように、横切って乱戦に持ち込む)が、当時の海軍常識を破って世界を驚かせたのである。このタイミングをうまく利用し講和に持ち込んだことによって、勝利というイメージを獲得したに過ぎない。つまり、
・日露戦争は局地戦では「勝利」、総力戦では「引き分け」であった
・戦死傷者38万人という多大な犠牲を強いられた
・日英同盟におけるイギリスのスエズ運河封鎖やアメリカの干渉に助けられた
という到底勝利とは呼べないような戦争であったのである。九死に一生を得たことを知らされていなかった国民の不満が爆発した日比谷焼き討ち事件などは、国論の不統一を端的に表している。
満州事変からはじまる15年の歴史の悲劇を私は肯定し得ない。この戦争については諸々の意見、解釈があるが、ここでは太平洋戦争における「日本の伝統精神」に関してのみ、述べるにとどめたい。
太平洋戦争において日本の伝統精神は失われたか。否、終戦までそれが失われることはなかったというのが私の考えである。
まず、軍人が総理大臣になったケースは明治も多い。軍人出身でないのは14代7人中大隈重信、西園寺公望の2人だけである。その傾向は大正、昭和にあっても続いていくから、昭和を特に軍人政治の象徴として取り上げるには根拠が乏しいのではないだろうか。
また文官政治、シビリアンコントロールの重要性には深く共鳴するところであるが、政治そのものが劣悪であれば何のためのシビリアンコントロールかわからない。武家政権を滅ぼし天皇親政を実現したあの後醍醐天皇の「建武の親政」の失敗は、政治そのものの失敗にある。
足利尊氏の軍が九州より大挙進撃してくるのに対し、楠木正成の進言を受け入れず湊川での戦いを朝廷が強要したために、正成は玉砕し、新田義貞は敗走、後醍醐天皇は捕虜になるという醜態を演じた。いかに天皇という日本人の心を柱とした文官政治が行われたとしても、政治そのものが劣悪であれば成功はしないだろう。
植民地同化政策は、敗戦までなおざりにされることはなかった。昭和の時代、新たに植民地として日本が獲得した地域についても、ビルマやインドネシアなどでも同化政策は行われている。
また国論の問題としては、昭和恐慌(1930年)以来の不景気から抜け出せずにいたという状況があった。明治維新以降、日本の人口は急激に増加しつつあったが、農村、都市部共に増加分の人口を受け入れる余地がなく、数多い貧困農民の受け皿を作ることが急務となっていた。そこへ満州事変が発生すると、当時の若槻内閣の不拡大方針をよそに、国威発揚や開拓地の確保などを期待した新聞論調をはじめとする国論は強く戦争を支持し、この対外強硬世論を政府は抑えることができなかったのである。
太平洋戦争を回避する方向を東条内閣が探っていたことも、「和の精神」の表れともいえる。結局米国側の「ハル・ノート」の提案によって日本は開戦を決意するにいたるものの、開戦までに日本があらゆる方策をそれこそ「衆知を集め」考えていたことはさまざまな記録に見る通りである。
「天皇陛下万歳」や「生きて虜囚の辱めを受けず」が日本の伝統精神ではない。しかしながら「母上様」と叫んで死んでいった特攻隊の若き青年。硫黄島の戦いで奮戦した栗林中将をはじめとする兵士たち。彼らの心のなかに日本の伝統精神がなかったとはいえない。また、「お国のため」に食べるものさえ我慢しながらこの戦争を陰で支えた当時のすべての日本人にも、古きよき伝統精神を感じずにはいられない。
敗因は明らかな戦力差であった。緒戦に一撃を加え有利な講和条約を結び戦争を終結するという日本の算段は、真珠湾奇襲に続くマレー半島での連戦の勝利によって驕慢が嵩じた結果、脆くも崩れ去った。その後戦線の拡大によって米国は逆に圧倒的な戦力を各個撃破するという戦法に切り替え、日本軍に完勝したのである。
以上私は、日本の伝統精神は昭和の戦争期にも日本人ひとりひとりが失うことなく、保ちつづけていたものだと考える。“暗い”昭和の戦争期は決して“明るい”明治と分断された時代ではないのである。このように昭和期の戦争を否定することなく、また賛美することもなく、冷静に見つめていくことこそが、伝統精神に基づく真の平和な姿を、今後の日本において保持していくために必要なのではないだろうか。
(参考文献)
『戦争学』: 松村劭
『新・戦争学』:松村劭
『戦争論』:クラウゼヴィッツ
『中国の歴史(7)』:陳舜臣
Thesis
Mikito Igeta
第27期
いげた・みきと
Mission
「理想的な社会福祉国家の構築~介護から社会保障を変える」