論考

Thesis

「カント入門」入門 ~人間とは何か?を問い続けた哲学の巨人~

カントは、哲学とは「人間とは何か」を追及する学問であると位置付けました。難解なカント哲学をわかりやすく説明しながら、「人間とは何か」を考えます。

プロローグ

 私はこれまで、哲学について触れる機会は少なかった。しかし松下政経塾に入塾して以降、哲学について触れる機会が増えることになる。それは、塾主松下幸之助の存在であった。1年次、2年次と塾主の考え方に触れ、学び、実践を試みるという研修課程を経てきたが、「水道哲学」に代表されるように、塾主の考えは「哲学」そのものであることに、異論はないと思っている。

 だが、それでも私の頭の隅から離れない問いがある。それは、

「なぜ哲学を勉強するのか」
「なぜ哲学は存在するのか」
「なぜ哲学は必要なのか」

ということである。

 大学はそもそも、哲学を学ぶ場所であったという。欧米では、学問の歴史的発展を尊重して、どの分野で博士号を取得してもほとんどの場合、Ph.D( Doctor of Philosophy)<哲学博士>という称号の学位が授与されるのである。しかし、これは日本においてだけなのかもしれないが、今や大学の役割は金融や工化学、法律のスペシャリストを育成し、社会に貢献できる人材の創出に力点がおかれ、文学部、それも哲学科に所属する学生は、ほんの一握に過ぎなくなってしまったのではないだろうか。私の母校でも、在籍する学部生の数28,000人に対し、哲学専攻の学部生はわずかに50人程度しかいない。(2008年4月現在) さらに日本では、博士号に関しても上記のようなPh.Dではなく、工学博士、理学博士といった具合に分野別に名前をつけている。

「人は何のために勉強をするのか」
「人は何のために生きているのか」

私たちは、そのような根本的な問いについて考えたことがあるのだろうか?

カントとの出会い

 月刊誌『Voice』2007年2月号の中で、台湾の前総統である李登輝氏が「指導者の条件」という記事を書かれていた。李登輝氏は青少年時代、大量の東西文学や哲学書に接し、とりわけカントの『純粋理性批判』と『実践理性批判』が氏の重要な判断の指針となっているという。

 イマニエル・カント、その名前は聞いたことがあったが、著作を読んだことはなかった。なぜ世界を代表する指導者の一人である李登輝氏が、カントを好んだのであろうか。それがカントと私を結びつけていくきっかけであった。

 まず私が手にしたのは、岩波文庫の篠田英雄氏訳の『純粋理性批判』である。「わからない」
「何が書いてあるのかわからない」
「何を言いたいのかわからない」

 超越論的何々、直観形式、カテゴリー。難解な議論が次々と登場して、なかなかページが進まない。実際、哲学の専門家を志す学生にとってさえも、今日『純粋理性批判』を読み通して、その考え方のアウトラインだけでもつかむということは、なかなか並大抵のことではないのだそうだ。難解な哲学者。それがカントを貫くイメージである。

 そこで私はカントの入門書から読み始めることにした。何冊かの本をあたっていくにつれ、ちくま新書から出ている石川文康氏の『カント入門』が比較的読みやすいことがわかった。が、それでも難しい。入門書ですら難解なカント、恐るべき人物である。

 しかし、悪戦苦闘しながら読み進めていくにしたがって、少しずつであるが、私はカントの主張が理解できるようになった。カントはその著『論理学』のなかで、哲学の意義について次のように述べている。

 「世界市民的な意味における哲学の領域は、つぎのような問いに総括することができる

1、私は何を知りうるか
2、私は何をなすべきか
3、私は何を希望してよいか
4、人間とは何か

そしてはじめの3つの問いは、最後の問いに集約される」

 つまり、哲学とは「人間とは何か」を探求する学問であるとカントは主張しているのである。ならばカントを理解すれば、「人間とは何か」が見えてくるはずである。そこで今回、私は「入門書の入門書」という位置づけとして、難解この上ないカント哲学をわかりやすく整理してみたいと思う。「人間とは何か」という真理について考えるために。

二律背反~アンチノミー

 人間は理性をもっている。「あの人は理性的だね」という表現は、肯定的意味合いで使われるのが通例であり、冷静、利口、公正ひいては真理・善・正義(正しいこと、良いこと)といったイメージを含んでいると考えることができる。
(ここでは「…してはいけないと判断する能力」と考えて差し支えない。カントは、この能力をアプリオリ=先天的に人間に備えられているとした。よって、理性を「純粋理性」とカントは呼んでいる。)

 本来、真理・善・正義の「純粋理性」は、絶対唯一、究極、完全の法則であるべきである。しかし、そのような尊ぶべき人間の「純粋理性」は、実は、相反する二つの命題を抱えたまま自己矛盾に陥るのだとカントはいう。それが「二律背反~アンチノミー」である。

 たとえば、人間は自分の裸などは見られたくないと考える(理性が働く)。しかし、一方で見られたいという願望がある(人がいる)。つまり「裸=恥ずかしい」という法則に対して、「恥ずかしいから見られたくない」と「恥ずかしいけど見られたい」という、2つの相反する結論が導き出されるのである。ならば、この2つの結論は正しい(真)のか。カントに言わせると、それはどちらも(偽)となる。結果「裸=恥ずかしい」という法則は成り立たない。

 もう一つの例。ある男性Xが、女性Aさんに対して「私はAさんのことが好きだ」と告白した。AさんはXに好意を抱いていたので、大変喜んだ。また一方で、XがAさんの友人である女性Bさんに対し、「私はBさんのことが好きだ」と告白した。Bさんも同じく、Xに行為を抱いていたので大変喜んだ。ちなみに男性Xは、本当に二人の女性を同時に同じくらい好きになってしまっている。

 しかしやがて、その女性二人が出会い、Xがそれぞれに言ったことが明るみになったとする。この場合はどうであろうか。Xの発言は「どちらも嘘(偽)」であると二人の女性は考え、彼の人格そのものが疑われることになるだろう。「二枚舌」を使っているのだと思われ、そんな人間の言葉など信用できないからである。「あなたのことが好きだ」という男性Xの「理性=法則」はここに脆くも崩れ去るのである。

 矛盾の語源となった故事を思い出していただきたい。どんな盾をも貫く矛で、どんな矛をも防ぐ盾を突き刺した場合どうなるのか。答えはどちらもバラバラになる。このようにどちらの結論も成り立たないのである。

 カントが「二律背反」で伝えたかったこと、それは人間の理性というのは必ずしも完全無欠のものではなく、限界があるということである。理性に絶対の信頼をおいてはいけないという「批判」、それが本のタイトル『純粋理性批判』の意味でもある。

人間の性格

 カントはそのような理性の欠陥からも、人間は悪の心に染まりやすい性格であることを指摘する。たとえ生まれながらは善であったとしても、悪意ある、もしくは拙劣なる指導者や実例の感化を受けて、悪の心に染まる危険があるというのである。

 その危険についてカントは例を挙げる。

  1. 最も親密な友情の間においてすらも、嘘をつこうとする危険(親しい人に嘘をついたことが本当に無いのか?)
  2. 最良の友人とお互いに心を開いて付き合う際でも、信頼をほどほどにしておくことが、交際における賢明なやり方だと思う危険(特に外交ではそうである)
  3. 人間は、自分が恩義を負う人間を憎む危険。恩義を施す人間は、常にこのことを覚悟していなければならない(恩の施しすぎには注意が必要)
  4. 最良の友人の不幸のうちには、我々を必ずしも不快にしない何かがある危険(しめしめ、と思ったことが本当に無いのか?)

 したがって、人間は善に向かうように教育されなくてはならないとカントは続ける。人間の意志が善くあるためには、人間は何をなすべきか。それは「法則に従うこと。法則に対して尊敬を持つこと。そして法則とは、道徳法則である」。つまり「道徳」こそが、カント哲学の真意に他ならない。

道徳の定義=定言命法

 カントの考える「道徳」は、ずいぶんと厳しい。

 カントが道徳のことを「道徳法則」という言い方をするのは、まさに私達が従う道徳が、科学法則のように「どこでも、誰でも、いつでも、当てはまるものでなければならない」と考えたからであり、その形式は「~すべき、~してはならない」という定言命法の形でなければならない。なぜなら、条件付だと法則にならないからである。

 たとえば、先生は生徒に親切という「徳」を教える際に、「他人に親切にしましょう」というだけでなく、「自分が他人に親切にしてもらいたかったら」という動機づけをするかもしれない。ある生徒に、なんらかの好結果や幸運がもたらされた場合、「それはあなたが良い子だからよ」とか、「あなたが他人に親切にしたおかげよ」と言う。生徒は親切を施したことが、自分に幸いをもたらすのだという味をしめる。結果、人は見返りをあてにして親切を施すようになる。もしくは、見返りがない場合は親切を施さないかもしれない。

 「もし人から信用されたいのならば、嘘をついてはいけない」という道徳法則があった場合はどうか。しかしこれだと、「人に信用されなくても構わない」という人には通用しない。嘘がまかり通る社会になってしまう。よって、条件に関係なく「~ならば~すべき」の仮言命法ではなく、誰にでも当てはまる定言命法「~すべき」でなければならないのである。

 逆に言えば、「嘘をついてはいけない」という道徳法則あったとすると、それがたとえ人を助けるためであったとしても、嘘をついてはいけないということになる。

道徳法則の必要条件=善意志

 では、それほどまでに厳しい倫理観に基づいたカントの考える「道徳法則」を実行するには、何が必要になるのだろうか。

 勇敢という徳は一見、「善い」であるといえる。しかし悪人、たとえば犯罪者にとっては、ひとつの犯罪を首尾よく遂行するための不可欠な条件にもなりえる。また冷静で的確な判断力という徳が備わっている犯罪者は、そうでない犯罪者よりも有害になる。

 幸福という徳についても同様である。人間が幸福であると感じるものには、名誉・健康・金銭がある。これらは善いものだと言われるが、それらが心に及ぼす影響を制御できなければ、人間を奔放に、傲慢にさせてしまう。

つまり徳には、意志を正しく使う善い意志、「善意志」が備わっていなければならないのである。この世において、またこの世の外でも、人間が無条件に善いとみなされるものは、ただ善い意志、「善意志」だけであるとカントは言う。

 「善意志」とは、それが何かを達成したり、何かに役立ったりするから「善い」のではなく、それ自体において善いものである。

道徳法則への尊敬の念

 しかし厳密には、人間は何の動機もなしに道徳的行為に赴くことは難しい。では、人をして、真の道徳的行為へ赴かせる動機とはいったい何であろうか。

 それが、「道徳法則への尊敬の念」である。たとえば、殺人を犯して金儲けをした人間は、金銭的には贅沢できても心のうちは完全に安寧であろうか。心のどこかに、「殺すべきではなかった」「いつか発覚するのではないか」という意識が残っているであろう。この振り払いがたい意識こそ、「道徳法則への尊敬の念」に他ならない。「人を殺してはいけない」という道徳法則は、人間が生まれながらに持っている「善意志」そのものである。人間のもつ「善意志」という素晴らしい能力が、人間を真の道徳的行為へ赴かせるのである。

エピローグ~コペルニクス的転回

「つねに新しい高揚した感覚と畏敬の念をもって、私の心を満たすものがある。それは頭上の星のきらめく空と、私のうちにある道徳法則である」

カントは崇高なる倫理観にあふれた上のような言葉をのこした。人間のうちのある「善意志」に従った「道徳法則」に、カントは期待したのである。

 なるほど、道徳の「徳」という文字は分解すると、「行う、行動する」という行ニンベン、「直、素直」という右上の部分、そして右下の「心」となる。つまり「素直な心で行動する」と読むことができる。ここでコペルニクス的転回をすれば、カントの哲学は、松下幸之助の哲学「素直」と同じものとなる。なぜなら「素直な心で行動する」は、「善意志に従った道徳法則」そのものだからである。

 塾主の前世は紀伊国屋文左衛門だという人がいるが、私は塾主の前世はカントではないかと近頃思うようになっている。

以上

<参考文献>

「カント純粋理性批判入門」 黒崎政男 講談社選書メチエ
「カント入門」 石川文康 ちくま新書
「カント」 坂部恵 講談社学術文庫
「純粋理性批判」 篠田英雄訳 岩波文庫
「カントへの旅~その哲学とケーニヒスベルグの現在」 ノルベルト・ヴァイス 藤川芳朗訳 同学社
「西洋の哲学・思想がよくわかる本」 金森誠也 PHP文庫

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井桁幹人の論考

Thesis

Mikito Igeta

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第27期

井桁 幹人

いげた・みきと

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