Thesis
年初から3件立て続けに介護疲れが原因と思われる殺人事件と無理心中が起きた。「在宅介護重視」が叫ばれる今、愛媛県で2007年5月19日に起きた殺人事件を通して、在宅介護の厳しい現実を考えていく。
年があらたまり新春の匂いに人々が心浮かれるころ、2008年1月5日、奈良県で認知症の祖父(73)の介護に疲れた家族3人、祖母(56)・娘(31)・孫(9)が無理心中を図り、3人とも死亡するという事件が起きた。続いて6日には青森県で介護に疲れた二女(58)が寝たきりの母(82)を殺害、翌7日には宮城県で介護に疲れた娘(59)が病気で寝たきりの実父(86)を絞殺し、娘も後を追って首吊自殺するという事件も起きた。
この文章を書いているのはまだ1月も中旬に入ったばかりのことであるが、今年も介護で悩む人々の辛い1年のはじまりを予感させるようで心苦しさを感じずにいられない。
今回たまたま3件立て続けに起きただけだと気を取り直し、昨年2007年の介護にまつわる殺人と無理心中について調べてみた。すると1年間(2007/1/1~12/31)に全国で40件とおよそ1か月に3件の割合で発生していたことがわかった。つまり10日に1回の割合で新聞報道によって目や耳にしている計算になる。
全国で1年間に発生する殺人事件が1200~1300件であるから、比率として全体の3%ほどに過ぎない。一見すると小事なのかもしれないが、興味深いデータを見つけた。
それは1998年から2003年までの介護にまつわる殺人事件の発生件数である。
1998年 24件
1999年 29件
2000年 39件
2001年 29件
2002年 37件
2003年 40件
(出所:加藤悦子「介護殺人の発生件数」より)
これに私が調査した2006年と2007年を加えると、
2006年 36件
2007年 40件
(※全国紙5紙の検索サイトから「介護」「殺」「心中」「疲れ」をキーワードに検索。全ての事件を網羅できていない可能性もある)
となる。つまり何が言いたいかというと、家族の介護負荷の軽減のために創設された「介護保険制度」が2000年から施行されたにも関わらず、介護にまつわる悲惨な事件が後を絶たないということだ。
本来、介護という最も「福祉的」であることが期待される場所で、殺人事件などがあってはならないはずである。しかしながら「人を、それも自身の最愛の人または家族を、こともあろうに殺めてしまう」という事件が少しもなくならないということは、上述した「介護保険制度」にまだまだ不備な点があるからではないだろうか。
もちろん「介護保険制度」だけで介護をすべてカバーできるとは思っていないし、急激なスピードで高齢化の道を歩んでいる日本に、制度が一所懸命追いつこうとしているのだと理解すれば、多少は割り引いて考える必要もあるかもしれない。
だが私は、このような事件が再び起こることのないようにと切に願う一人だ。特にこういった事件を見ていくにつれ、「あんないい人が殺人を起こすなんか考えられない」「刑を減じてほしい」などといった加害者に対する周囲の温情に直面した。まじめな性格で一所懸命介護に尽くしてきた日本人の鑑のような人たちを、一転して殺人者にしてしまう世の中とは、われわれは早く決別すべきである。
ではいったい何が問題なのだろうか。今回は介護にまつわる悲惨な事件をなくすための、介護のあり方について考えてみたいと思う。
2007年に起きた事件をつぶさに見ていくと、全40件のうち34件が、「介護疲れ」または「介護疲れと想定されるもの」が原因となっていた。つまり加害者である介護者はそれまで献身的な介護を続けており、疲れと絶望のなかで将来を悲観し、心中を思い立つというケースである。次の愛媛県で起きた事件の判例から、発生プロセスや加害者を取り巻く家族の背景を少し掘り下げてみよう。
<愛媛県 娘が母を道連れに、無理心中を試みた事件(平成19年は276殺人)>
1、概要
2007年5月14日、認知症の母(89)と脳梗塞で倒れた夫の介護に疲れた実の娘(67)が、母を絞殺し、返す刀で自殺を図ったが、救助され一命を取り留めたという事例である。松山地方裁判所は10月22日、被告人である娘に、検察側の求刑懲役8年に対して情状の余地があるとし、懲役3年執行猶予5年の刑を言い渡した。
2、事件に至るまでの経緯
加害者は、昭和15年に母の長女として出生し、生まれて67年間ずっと母と同居して過ごしてきたところ、5年位前から母に認知症の症状が出るようになり、そのころから食事の世話などの身の回りの世話全般を加害者が一人で行うようになった。
ところが、平成19年2月19日に夫が脳梗塞で倒れて入院し、意思疎通もままならない寝たきりの状態となった。娘は次第に認知症が進行し、徘徊や薬を大量に服用するなど目が離せなくなってきた母の介護に加え、入院している夫の介護をすることとなり、自宅と病院を往復する二重の介護生活を強いられることとなった。
加害者は元来体が丈夫な方ではなく、過去に卵巣摘出等の手術を何度か経験しており、腰痛や高血圧の持病も抱えていた。それでも二人が倒れるまでは、母の介護に追われながらも、家で夫とともに過ごす時間が多くなったことに喜びを見出していたが、夫が病院に入院してからは、母と二人だけの生活となり、孤独感を募らせ、母の世話が大変だ、夫の病気は回復の見込みがない、自分自身の体調も芳しくない、これから生きていても楽しみがないなどといった悲観的なことばかりを考えるようになり、不眠がちで、食欲不振となり、体重は急激に10キロ余り減少した。
加害者は元来社交的で非常に朗らかな性格であったが、同年4月ころからは、人に会うこともおっくうになり、子供らからの電話にも出なくなり、自殺を漠然と考えるようになって、周囲に死ぬことをほのめかしてたしなめられることもあった。
家事をこなした後、夫が入院している病院へ行き、また自宅に戻って母の介護という生活の疲れか、加害者は同年5月13日朝から目のかすみを感じ、昼ころには目まいがして足もふらつくようになったことから、夫が脳梗塞で倒れる前の症状に似ている、自分も脳梗塞ではないかと考え、救急車を呼び、病院で診察を受けた。医師からは、脳動脈瘤の疑いがあり、専門医の診察を受けるためもう一度病院に来るようにと言われた。
加害者は帰宅後、自宅に様子を伺いに来ていた子供らが帰り、母を寝かしつけた後、一人で過ごすうちに、手術を受けなければならない、夫と同じように寝たきりの状態になるのではないか、これ以上生きていても仕方がないと思い詰め、ついに自殺を決意した。
そうしたところ加害者は、自殺した後の母の介護について思いを致し、母は認知症であり、加害者の実弟や子供たち(一男一女)とは折り合いが良くない、家庭があり頼ることはできない、自分が自殺した後は被害者を世話する者がいなくなる、母を一人で残して死ぬことはできないなどと考え、この際母を殺害し、自分も死のうと決意した。
加害者は、まず母と自分の遺体を早期に発見してもらうために、犯行直前に親しくしていた知人に電話をし、翌朝8時30分に自分の家に来るよう依頼するとともに、居宅内に立ち入ることができるよう自宅の玄関の鍵を開けたままにし、発見後の連絡先として弟の電話番号等を記載したメモを机上に残した。また弟に宛てて「母も認知症がひどくなり私自身も病気で主人も入院しており疲れました。宜しくお願い致します」と記載した遺書も書き残した。そして深夜零時ころ就寝中の被害者に近づき、
「一緒に死んでや」「ばあちゃんごめん 」
などと声をかけて頚部に腰ひもを巻き付け、強く絞め上げて窒息させて殺害した。その後台所から包丁を取り出して風呂場に行き、包丁で自己の腹部などを突き刺し、自殺を図ったが、その後知人に発見され、救助された。
(※判決要旨より抜粋)
3、事件の発生要因
以上の経緯を見ていくと、事件がなぜ起きてしまったのかについては次の3つに整理することができる。
当事者の介護度に関係なく、認知症については未だメカニズムが解明されておらず、根本的な治療法もないために対応が非常に難しいものである。昼夜逆転、頻尿、ひっきりなしの要求などいわゆる問題行動の出現に対して、家族が苦慮するパターンが多い。私事で恐縮であるが、私も認知症の祖父を在宅で看ていた(むろんその中心は母親であったが)が、特に昼夜逆転と頻尿の問題が大変であった。夜中一時間ごとに「おい」と叫ばれ、「トイレに行きたい」と起こされる辛さ。次の日仕事や学校で早く起きねばならない場合などは尚更である。
加害者にとって不幸であったのは、夫が事件の3カ月ほど前に脳梗塞で倒れたことであった。意思疎通もままならない状態であるということは、脳になんらかの障害をきたしているということであり、治っても後遺症が残るケースが多い脳梗塞では、リハビリ次第で回復にも差があるが献身的な家族のケアが必須である。
加害者はその「献身的」という言葉が見事にあてはまるように、毎日夫の病院へ通い続けた。しかし母の介護や家事を済ませ、病院へ行き夫の介護をしたのち、また家に戻って母の介護や家事という、いわば昼夜を問わない介護という名の「労働」が、元来病弱であった加害者を肉体的にも精神的にも追い詰めていくことになる。
私は、たとえ在宅でも介護は「労働」に値すると考えている。そうでないとするならば、それは「家事」を「労働」ではないと言っているに等しい。ほぼ24時間、自分のペースではなく相手のペースで「労働」することの厳しさ。なお判決でも精神的に追い詰められ、正常な判断力が相当程度低下していたことを認めている。
この事件をみて残念に思うのは、2000年の開始以降7年も経った「介護保険制度」に基づく介護サービスを利用している形跡が認められない点である。加害者を取り巻く家族の環境は決して良くなかった。客観的には、実弟や子供ら身近な親族がいるのであるが、子供たちが様子を伺いに訪れる程度であり、加害者の不眠、食欲不振、体重の急激な減少という異変に気づいていない。
家族以外にも近所も同様、元来社交的な加害者の変化に気づいていない。自殺をしようと周囲の者にもらしてたしなめられるといった程度であり、救急車が加害者宅へ来たとしても変わりなかった。結局第一発見者である知人が、加害者から犯行当日の午前8時30分に来てほしいとの要請があって、はじめて事の次第が明らかになったわけである。
また67年間も同居していた実の母であり、「私が看なくて誰が看る」といった気概が一人で介護を抱え込んでしまったことも見逃せない。精神的にも肉体的にも辛い状況が続いているにも関わらず、「自分が自殺した後は被害者を世話する者がいなくなる、母を一人で残して死ぬことはできない」と考え、これが母の殺意に繋がってしまっている。
4、問題の本質
なるほど上述の事例から、「介護疲れ」を理由とする事件の発生要因が導き出されてきた。すなわち、
(1)母の認知症がひどくなり、介護が大変になったことに対する「精神的疲労」
(2)夫が倒れ、二人の面倒をみるようになったことに対する「肉体的疲労」
(3)周囲(近所・医療・地域行政など)の「サポート、ケアの不十分」
である。しかし(1)や(2)は本来(3)が十分に行われていれば軽減できるはずで、だとすればこの(3)についてより深く掘り下げて調べてみる必要はないだろうか。つまり、
という問題である。そういえば私は冒頭で介護にまつわる殺人件数が、介護保険制度が導入された2000年以後も一向に減少しないことを述べた。加害者を取り巻く家族が介護保険を十分に活用できていないのであれば、殺人件数が一向に減少しないのもうなずける。
さらに一番重要なポイントは、この事件が「在宅介護」の結果発生したということである。これが「施設介護」であれば上記の3つはほぼクリアすることが可能であるし、2007年の殺人件数をみても施設で発生した事件は40件中わずかに1件である。いかに「在宅介護」が「介護殺人」を引き起こす可能性が高いかという点に、われわれは着目しなければならない。よって次の段落では「在宅介護」をとりまく厳しい現実を、介護サービス、周囲のサポートという観点から考えてみたいと思う。
1、理念は「在宅」、潮流は「施設」の厳しい現実
介護保険制度は、「障害をもっても住み慣れた地域で自立した生活を継続する」というノーマライゼーションの理念のもとに「在宅介護の推進」を大きな理想としていることである。それは施設よりも在宅のほうがはるかに利用者の満足度が高いという確信にある。
しかしながら一方で、特別養護老人ホーム(特養)などの介護施設への需要は衰えをみせない。少し古いデータであるが、神奈川県横浜市では要介護4以上の特養入所待機者が平成15年1月の4543人から平成16年4月の7006人となっており、また近年入所待ちが解消された、待ってもすぐに入所できるようになったという話はいっさい聞かない。
その理由は一体何であろうか。横浜市では「特養への入所申込理由(3つまで)」を調査しているが、次のような結果が出ている。
1位:専門的な介護が受けられ安心して生活できるため
2位:介護している家族の負担が大きいため
3位:すぐに入所できないので早めに申込をする必要があるため
4位:今の生活を続けたいが、先々の心配があるため
5位:介護者がいないため
6位:在宅ではより金銭的な負担が高いため
(※平成13年度横浜市高齢者実態調査より抜粋 n=2763)
ここで私は特に2位「介護している家族の負担が大きいため」、5位「介護者がいないため」、6位「在宅ではより金銭的な負担が高いため」に注目する。基本的に在宅介護はヘルパーや医師(看護師)が自宅を訪れるのであるから、施設に比べてどうしても割高にならざるを得ない。むろん現状の介護保険制度に、「割高な在宅介護を割安で利用できる」ようなインセンティブがあるわけでもない。
もう一つは少子化がもたらす核家族化である。平成17年の国勢調査では一世帯あたりの人員は2.13人と、平成12年の2.21人、平成7年の2.34人に比べ明らかな減少傾向にある。「在宅介護」はたとえヘルパーが訪問したとしても24時間常駐しているわけではない。介護する家族がいることが前提であり、要介護度が高くなればなるほど、かなりの家族介護力が想定されなければならない。家族がいなければ介護はできない。これが在宅介護の厳しい現実である。
2、家族介護を見直す
現在の介護保険制度では、献身的な介護を続ける家族に対してのインセンティブはみられない。その背景には、家族への給付(特に現金)は悪用されるからという批判がある。
たしかに利用者を特養などに入所させている場合、年金の管理は家族が行っているケースがほとんどであり、利用者のためを思って家族へ給付したところ、家族が別の用途に使う危惧は十二分にある。しかしこのことは、介護保険制度において、「家族介護は無償労働」であると位置付けていることの裏返しに他ならない。
再度私事であるが、祖父の死によって、深夜一時間ごとに起こされることはなくなった。それはそれまでの介護生活からの解放であり、とりわけ中心的献身的に行っていた母が精神的肉体的に楽になったのは事実だ。今回介護にまつわる殺人事件を調べていくなかで、特にそれまでまじめに介護に専念してきた加害者が殺害を終えたあと、「これで介護から解放されたかと思うと、何とも言えない気持ちです」と供述している箇所に何度も出会ったが、私は彼らがたとえ犯罪者だとしても、その一点に関しては共感の念を抱かざるを得ない。
それは一面、家族介護の「醜さ」であるのかもしれない。「誰が看るんだ」「俺は仕事が大変だから看れない」「私は三女だから関係ない」。一方で親が死んで遺産相続になると、分け前はしっかりと要求する子供たち。茨城の養護老人ホームへ行った時に聞いた話を私は思い出す。親が生きている間は一度も施設へ見舞いに訪れることはなかったにも関わらず、死んで遺産が1000万あると判明すると、毎日施設に通うようになった兄弟の話を。
3、在宅介護はお金がかかる?
さらに在宅介護は思った以上にお金がかかる。寝たきりかつ頻尿で尿漏れパット交換が必要な利用者が「要介護度4」に認定され、在宅介護を続ける場合を考えてみる。施設の場合、夜は就寝前、午前0時、午前3時、起床時と4回排尿確認を職員が行うケースが多いと思われるので、仮に在宅の場合もホームヘルパーが夜4回、30分ずつ訪問すると仮定しよう。
1回あたりの訪問介護 231円(30分あたり、自己負担額10%)
早朝・夜間加算(25%増) 2回 231×1.25×2=577.5
深夜加算(50%増) 2回 231×1.5×2=693
1か月=30日=(693+577.5)x30 =38115円
特筆すべきは、寝たきりの利用者の重介護は、2人で行う必要から料金は2倍になる場合もあり、地方になると遠距離料金として、毎回別途交通費(1000円~1500円)が発生することもあるということだ。(香川県のある介護事業者のケース)
もちろんパット交換だけにとどまらず、週に2回は入浴したいところだが、訪問入浴の自己負担額が1250円/1回であり、1か月で10000円ほどになる。2つを合計すると、48115円となる。
しかし実はこの算式は残念ながら間違いである。なぜなら介護保険制度では、要介護4の場合、自己負担額の上限値は30600円であり、この値を超えた分は全額自己負担となってしまうからだ。正確には、
48115-30600=17515×10(全額負担)=175150
175150+30600 =205750円
なんと、上記のサービス2種類だけで、205750円にもなってしまうのである。
こうなるとどこかでサービスをカットせざるを得ない。夜間の訪問を半分の2回にすれば、なんとか上限値の範囲内に収まりそうだ。しかしその分はむろん家族が介護しなければならない。
では施設はどうか。最新のユニットケア型の個室に入所し、要介護4の方が1か月にいくらかかるかというと、1日3食の食事つきでおよそ7万円。もちろん24時間介護付きである。
これには減免制度という「カラクリ」がある。減免制度とは世帯の所得が低い場合、通常の自己負担額をさらに低減することのできる制度である。もちろん、在宅介護でも減免制度を利用することは可能だが、ここで「世帯の所得」がネックになる。
施設に入所する場合、利用者本人と家族の住所は別だ。だから利用者の住所を施設に移せば、利用者一人で一世帯になる。世帯の収入は利用者の年金くらいだ。
しかし在宅ではそうはいかない。世帯には働き盛りの夫や息子がいたりする。そうなると世帯の収入はその利用者の年金と夫や息子の年収の合計となり、とても減免制度を利用できることはできない。安くて、負担がなくて、安心の施設が喜ばれるゆえんがここにある。ましてやバリアフリーの改装費もかからない。
4、介護サービスをなぜ使わないのか?
先の愛媛県の事件では、介護サービスを利用した形跡が見られず、甚だ疑問であると上述していたが、この点についても少し考えてみたい。
まず介護サービスの前提は、本人やその家族がサービスを受けたいとの自発的意思(申請)に基づかなければ受けられないということだ。たとえ申請したとしても、愛媛の事件のように24時間介護でストレスを抱えている介護者の場合には、書類の不備を指摘された段階で、申請をあきらめてしまう可能性も高いだろう。
また、まだまだ介護サービスを使わなくとも、家族で何とかなるうちは家族で介護をしようと頑張っておられる家族も多いことだろう。しかしそれは、何ともならなくなって初めて介護サービスを利用しようと決意したときに、すでに追い詰められている可能性をはらんでいる。にも関わらず、
「残念ですが、施設入所はどこも1年以上待ちですね」
「ショートステイはどこもいっぱいで…」
「夜間はなかなか訪問介護の予約がとりづらくて…」
の状況では、介護者は二度と介護サービスを利用しないと心に誓うかもしれない。
介護保険制度では、もちろん介護サービスを利用しない人たちへのサービスなどないし、介護保険法が別段定めているわけでもない。となると頼みの綱は周囲のサポートになってくる。
5、周囲のサポート~介護者のケアのために
近年、団地の高齢化などで「孤独死」が問題になっているように、昔のような近所付き合いが無くなった結果、誰も知らない間に最悪のケースが起きてしまうことが多い。愛媛の事件に関しても、誰も加害者の変化に気づいていなかったことは前述した通りである。
もし何らかの介護サービスを利用していたならば、極端に痩せ、不眠であるという加害者の変化に気づいていたかもしれない。つまり大事なのは近所付き合いの無くなってしまった今、自治体などの行政機関がモニタリングを実施し、介護サービスを利用せず介護を続けている家族を早期発見し、見守りを行うことである。
もちろん全戸訪問、訪問者は介護に福祉に精通した人材が理想的ではある。民生委員はその典型かもしれない。私が住む千葉県我孫子市では現在22人(うち主任児童委員12人)の民生委員の方が活躍されているが、人口135000人に対してであるから1人あたり5000人強と、かなりの人数を把握しなければならないために、もう少しサポートが必要であると考える。
愛知県の武豊町や高浜市、長野県の下諏訪町では65歳以上の高齢者宅を対象に、行政の職員による戸別訪問が実行されている。そこでは介護力が不十分な家庭、たとえば二人暮らしでともに病気、介護者に障害があり、十分なケアができていない場合などが訪問員により発見され、その後の援助につながっているのである。もちろん東京などの大都市ではすべてを把握することは難しいだろう。その場合NPOなどの市民団体を利用するという手段が有効になってくる。このようにして介護者のどこかに、他に繋がるネットワークを構築しておくことで、最悪のケースを未然に防ぐことができるのではないだろうか。
介護にまつわる殺人事件のほとんどは、「在宅介護」に疲れた果てに引き起こしたものであった。そしてその「在宅介護」は、「施設介護」に比べ金銭的・肉体的・精神的にも家族に負荷をかけてしまう現状は、これまで説明してきた通りである。
確かにお年寄りにとって、家族と一緒に在宅で暮らすことは幸せであることは間違いない。私も在宅介護の趣旨には大賛成である。しかし政府が今後も在宅中心の介護を推進するのであれば、在宅介護の現実の厳しさをもっと直視すべきではないだろうか。
高齢者の介護を行政や財政の負担をできるだけ避けるために、最大限自宅で面倒をみるという主張は、一件筋が通っているようにみえるがそうだろうか。我が国における長子優先以来の伝統か、長男とその妻が親の面倒をみるという儒教倫理は少子化のなかで崩壊していくだろうし、2007年こそ厚生労働省発表の平均寿命(「完全生命表」)が男女ともに6年ぶりに下回ったが、1950年から一定して上昇トレンドにあることを考えると、「老老介護」が話題になっているように自らが老齢になっても親の介護を続けなければならない事態も(現に)生じてくる。
舛添現厚生労働大臣は以前母の在宅介護を終えたとき、「介護レベルが4以上になれば、在宅をやめて施設に入所させるべきだ」と述べていた。「在宅か施設か」の二者択一ではなく「在宅も施設も」の二者並立で、在宅介護のシステムを根本的に変える必要がある。
少子高齢化のさなか家庭での介護力が低下しているという現状を踏まえたうえで、在宅介護をしやすい介護保険制度や地域のサポート、サービスを利用しない介護者へのケアなどが整備されてこそ、お年寄りも家族も不幸にならないための、本当の意味での「在宅介護」が実現されるに違いないのである。
(引用・参考文献)
「介護殺人―司法福祉の観点から」 加藤悦子 クレス出版
「団塊世代の高齢者介護」 阿部道生 つくばね舎
「どこまで続くヌカルミぞ―老々介護奮戦記」 俵孝太郎 文芸春秋
「在宅介護をどう見直すか」 佐藤義夫 岩波ブックレット
「高齢者虐待」 いのうえせつこ 新評論
Thesis
Mikito Igeta
第27期
いげた・みきと
Mission
「理想的な社会福祉国家の構築~介護から社会保障を変える」