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2008年1月

松下幸之助と日本庭園 ~藤原俊綱から重森三玲まで、5人の作庭家を追って~
井桁幹人/卒塾生

最近日本庭園の魅力を再認識するようになった私だが、それは塾主がPHP活動の拠点とした「真々庵」を訪れる機会をいただいたのがきっかけである。なぜ塾主は日本庭園に惹かれたのか?その理由を日本の庭園史を紐解きながら探っていく。

 

・はじめに

 私が日本庭園の素晴らしさを再認識したのは、塾主松下幸之助がPHP活動の拠点とした「真々庵(しんしんあん)」においてであった。京都東山山麓、南禅寺のすぐそばに位置する「真々庵」は敷地面積約5000平方メートル。元は茶人としても名高い事業家染谷寛治の別邸で、東山と南禅寺山門を借景とした「池泉廻遊式庭園(ちせんかいゆうしきていえん)」である。琵琶湖疏水から水を引き入れ、滝、流れ、池泉を見どころに、数寄屋造の母屋と庭園から成っており、庭園は、山県有朋の別邸「無鄰菴(むりんあん)」と同じく明治時代の作庭家・七代目小川治兵衛(植治)の手によるものだ。

※池泉…池のこと。池泉廻遊式とは池の周りを歩いて回ること。

 小川治兵衛は、明治期に入って西洋の文化が流入してきたことに対し、今までの創作スタイルや技術などの、これまでの日本庭園が歩んできた伝統の保持に躍起になっていた頃に登場した作庭家である。その庭園意匠が今日に至るまで非常に大きな影響力をもたらし、近代日本庭園の先駆者と評されている。小川治兵衛の残した作は、「真々庵」、「無鄰菴」の他にも京都南禅寺・岡崎界隈に多く集中しているが、そのいくつかは国の特別名勝に指定されている。

 「真々庵」がそのような著名な作庭家の手によるものだと後で知って、私は塾主の「眼力」にあらためて感心したわけであるが、同時になぜ塾主が日本庭園に興味を持つようになったのかと、ふと疑問を抱いた。日本が持つ歴史や文化・伝統、習慣といったものをこよなく愛し、またそれを大切にすることの必要性を説いた塾主松下幸之助であれば、日本庭園に興味を持つという論理の図式に妥当性がないわけではない。

 私がなぜ、日本庭園が素晴らしいと感じるのか。それは十二分に手入れが行き届き、客をもてなす心が表現されていることに加え、自然のもたらす季節の移り変わりに美を見出すからである。一方竜安寺に代表されるような枯山水庭園では、巨石、大樹に依らない日本人が最も得意とした「工夫する」という精神にあふれていると思う。

 しかし私が感じる日本庭園の素晴らしさだけで、塾主=庭園の等式を成り立たせるには少々根拠に乏しいような気もしてくる。日本庭園が日本の伝統文化であることを認識したうえで、基本的な庭園様式やさまざまな手法、技法を知り、庭園の奥底にある考え方や、庭を作った人たちの意志を少しでも理解できれば、上述の等式を成り立たせる根拠が見えてくるに違いない。そこで今回は日本庭園の歴史を紐解きながら、塾主と日本庭園とを結びつけたその魅力を、5人の作庭家(藤原俊綱、夢想国師、千利休、小川治兵衛、重森三玲)を通じて考えてみたいと思う。

・藤原俊綱/平安時代 (寝殿造庭園による日本庭園の確立)

 日本庭園は、現在のところ7世紀初め頃には造られていたことが『日本書紀』や『万葉集』によって確認されているが、最初に日本庭園としての形式を整えたのは、京都に遷都した平安時代である。当時の京都盆地はいたるところに湧泉が得られ、清流に恵まれたなだらかな傾斜地で、濃い緑に囲まれた山紫水明の景勝地であった。このような自然環境は、樹木・石・水・砂など良質の作庭材料を供給し、地形を巧みに利用した作庭を可能にした。

 当時、京都は海からは遠い山国で、海の景色とくに淡路島や小豆島を含む瀬戸内海の美しい風景は追憶の対象、あこがれの対象となっており、これを再現することがすなわち庭を作ることであった。つまり庭園の池は、元来「海」を表現するために用いられたわけである。

 このように、憧憬の想いで作られた平安時代の庭園は、当時の建物の名前をとって「寝殿造(しんでんづくり)庭園」と呼ばれているが、やがて不安な社会情勢の影響で仏教の末法思想と浄土信仰が広まり、人々が極楽浄土に往生を願うようになったことから、極楽浄土を表現した庭園が登場する。これが「浄土式庭園」であるが、宇治の平等院庭園はその代表的事例である。

 ところで藤原俊綱(ふじわらのとしつな)(1028~1094)は正確には作庭家ではない。平安時代の公家であり、父は平等院をつくった藤原頼通である。なぜ彼を、平安時代を代表する作庭家として挙げたのか。それは平安時代の庭園の技法について著された秘伝書、『作庭記』を彼が書いたと伝えられるからである。『作庭記』は庭を作る心構えとして次の2つを奥儀として教えている。

1、(天橋立や那智の滝など)自然の風景が最も美しく、それを見習って作庭すること
2、中国の風水を取り入れること(玄武・青龍・朱雀・白虎の四神や陰陽五行)

 特に1は、「生得の山木をおもはへて」と「乞はんに従う」という言葉で表現されているように、「自然に従う」庭園づくりを説いている。心を謙虚にし、自然の地形や岩石・樹木の要求にしたがって石を置き、樹を植えるというものである。この「自然に従う」いう感じ方に、日本人独特の自然観がみられる。自然が人間と対立し克服すべき対象となるのではなく、自然の中にとけこみ、自然に従いながら作庭しようとするスタイル。欧米の庭園にみられるように、自然に相対峙しながら1点1軸を中心として作庭する、左右対称またはそれに準じた幾何学的な庭園(整形式庭園と呼ぶ)とは明らかに異なっているといえるだろう。

 なお『作庭記』が公家自身の手で書かれたように、当時の公家は一流の作庭家でもあった。父藤原頼通も平等院庭園をつくろうとしたときに、気に入った専門家がなく、みずから作庭したといわれている。

(平等院庭園)


・鎌倉/室町時代と夢想国師(枯山水庭園の登場)

 平安時代以降、日本庭園の形式は自然を全体的に表現する庭がほとんどで、沙漠や大草原を身近に持たない日本人の感覚としては、当然のように山(築山)と水は欠かせないものとなっていった。

 しかし日本という土地柄において、水利が悪く、面積も限られた所では山(築山)や水を確保できない所も多かった。そこで水の代わりに白砂を使い、築山の代わりに石を組んだ庭が登場してくる。こうして有名な「枯山水」というスタイルが誕生する。

 「枯山水」で完結した庭が造られるようになったのは、中国から伝わった禅宗が大きく寄与している。平安期の庭が極楽浄土をこの世に現出することに力を注ぎ、貴族たちが財力を競って、豪華な庭を造ったことに対するアンチテーゼ。自らを律する教義である禅の教えからいえば、豪華絢爛な庭園は無用であった。

 「枯山水庭園」は、松下政経塾のある神奈川は茅ヶ崎の近く、鎌倉の瑞泉寺庭園もその作という夢窓疎石(国師)(1275~1351)が確立したと伝えられている。夢窓疎石(国師)は、室町時代における禅宗発展の基礎を築いた人物であるが、僧侶として一時代を代表するような人物が、同時に庭園作者として名を成す、ということは禅の思想と作庭とがきわめて緊密に結びついたことを意味している。禅は深山幽谷の大自然の中で思惟思索をめぐらし、座禅を行って悟りに至る、自らを変革する自立の宗教。そこで瞑想や座禅の場にふさわしい造景が「枯山水庭園」であった。

 ではなぜ禅宗寺院で枯山水が好まれたのか。それは石のもつ霊力に起因する。

 古来より、日本人は石の中に魂が宿ると信じてきた。熊野にある花窟神社(はなのいわやじんじゃ)は70mもの岩壁が御神体になっているし、お墓を石でつくるのもそこに霊力があると信じられているからだ。禅僧たちは石に対する特別な思いと石がもつ不思議な力に惹かれ、修業の場に石を組んだのである。

 枯山水は景石(鑑賞用の石)を組んで滝を表現し、白砂を敷いて流れる水を表現する。石の大小や、組み合わせによって、ひとつの観念的世界を創造するのである。それは山の峰や、滝が走る渓谷、大河やせせらぎ、ひっそりと静まりかえった海、大海に浮かぶ島々まで、さまざまな風景であったり、仏教世界観や宇宙観であったりする。このように自然と向き合い、自らの存在と一体化することで、無でなければならない自身を見いだし、境地に立つことで、見えざるものの中にそのものを見、聴こえざるものの中からそのものを聴くのである。

 このように「枯山水庭園」は、竜安寺の石庭に代表されるようにそれまでの庭園と違い、遊楽・散策などの実用的要素を持たず、屋内から静かにこれに対峙して鑑賞するよう構成されているのが特徴である。

(竜安寺の石庭)


・桃山/江戸時代と千利休(茶の湯のひろがり)

 応仁の乱以降、戦乱の世が豊臣秀吉によって統一され、権力者の力を誇示するような豪華な庭園が再び作られるようになった一方で、「露地(ろじ)」という小さな庭が誕生した。

 「露地」は茶事に招かれた客が茶室に至る道程である。その道は決して平坦ではない。山あり、谷ありの深山を行く道である。道の中ほどで、主人が迎えに来てくれる。 この道をそのままの規模で実現しようとすれば広大な土地が必要となる。ところが「露地」は決して広くない。ということはすべてフィクションである。わずかな起伏が険しい山道をあらわし、踏み石をひとつ越えただけで数里の道を進んだことになる。これを庭の世界では「見立て」といい、「露地」はすべてが見立ての約束事で成立しているのである。

 さてこの「露地」を確立したのが、茶の湯を大成した千利休(利休居士)(1522~1591)である。

 利休居士は、庭をそれまでの海の風景表現から深山の趣に変え、庭園表現にあらたな新境地を開いた。茶は「侘び茶」と呼ばれているように、理想の環境を「市中の山居」であるとした。田園的・山間的情趣を表現の主題に、茶室は農家の藁屋を、茶庭は山寺への道の趣を表そうとしたのである。

 たとえば「露地」に使われる石は、侘びた山間にあるような石を選ぶことからはじまる。鮮やかな色の石はできるだけ避け、石組をせず石は一つしか使わない。また苔むした石が好まれる(これを「捨石(すていし)手法」と呼んでいる)。植栽に関しても、山間の風情を思わせるような樹木を選ぶ。実のなる木や花をつけるような木は持ち込まない。

 また何よりも日々の掃除が隅隅までなされ、客を迎え入れる当日は打水(うちみず)をもって清めるという心配りも見逃せない。それは心の安らぎと清浄無垢な世界をつくりあげるのに一役も二役も買っている。

 つまりそこには、自然を敬い親しむ、自然との関わりをなによりも重んじた利休居士の姿勢があった。石や植物、水や土や光や風といった自然素材と語り合いながら、大地からのメッセージを受け止めていく素直さは、日本庭園が確立した平安時代以降脈々と受け継がれてきた、まさに日本人の感性と美意識そのものなのである。

(露地から茶室へと入る道程)


・明治時代と小川治兵衛(西洋文明との出会い)

 慶応4年(1868)に江戸幕府が倒れ、明治新政府による近代化への道がはじまった。いわゆる文明開化の時代であり、日本の伝統文化は大転換を強いられた。もちろん庭園も例外ではなかった。

 そんな近代の庭園をリードしたのは、明治の元勲や新興の実業家たちであった。彼らは西洋諸国の文化を目のあたりにし、大きなカルチャーショックを受け、江戸以降マンネリ化した日本庭園に改革をもたらした。なかでもひときわ近代日本庭園史に名を残すのが、元勲・山県有朋が七代目小川治兵衛(植治)(1860~1933)に作らせた「無鄰菴(むりんあん)」である。

 「無鄰菴」の作庭には、最初から有朋の奔放な注文がつけられた。まず“もみ”を50本ほど入れよと命じた。京都の作庭に“もみ”などという樹は、決して用いられなかったという。施主の注文でやっと“もみ”の若木を探して来た。次に“どうだん(ドウダンツツジ)”や“柊南天”を入れよと言う。これらの植木を用いたのは、ここが始めてだと後年植治は述懐している。

 また庭園には高価な樹木はあまり用いられていない。松のような金のかかる樹は極度にさけている。そして明治23年(1890)に完成した琵琶湖疎水から引き込んだ水の流れが、庭に豊かな表情を与えている。このように「無鄰菴」は財を費やすこと少なく、極度に無駄を省いて立派に仕上げた庭園で、この造園の奥義をたちまちに良くのみこんで、のちの仕事を活かしたのが植治であった。

 さらにこの庭園では、苔に代わって芝生が一面を覆い、西洋庭園の雰囲気を漂わせている。芝生を使った日本庭園も「無鄰菴」が最初であり、日本庭園はその後園遊会などの行事をとりおこなう公式の場としても、活躍するようになる。

(七代目小川治兵衛)


・昭和時代と重森三玲(永遠のモダン)

 昭和という新しい時代の日本庭園を創造しようと試みた人、それが重森三玲(1896~1975)という存在である。

 日本の伝統的な庭園に新しい風を吹き込んだ重森三玲は、美術学校を出たのち茶道やいけばなを通じて独学で日本庭園を学んだ異色の作庭家である。特にそのデビュー作となった京都東福寺の方丈庭園は、日本庭園史上初めて市松デザインを取り入れ、大きな反響を引き起こした。

 反響は大きくふたつ、絶賛と批判であった。彫刻家のイサム・ノグチをはじめ海外から高く評価される一方、日本庭園の伝統を重んじた保守的な人たちからは「寺という神聖な場所に西洋かぶれを持ち込んだ」「魂を西洋に売り渡した庭師」と揶揄された。しかし昭和11年から13年にかけて、日本初の全国古庭園400余をすべて実測および文献調査し、新たに『日本庭園史図鑑』を出版するなど、日本庭園を知り尽くした三玲だからこそ、伝統という呪縛から解き放たれることが可能だった。前述の市松デザインも、そのルーツになったものは江戸初期に造営された京都桂離宮の松琴亭(しょうきんてい)の襖であり、市松模様という日本の伝統を、三玲ならではの新しい発想で表現した結果であった。

 忠実な伝統継承を尊重する一方、新しいものを生み出す力、創造とは何か。三玲は未来永劫にわたってモダン(最新)であることを常に念頭において作庭しつづけた。そのような「永遠のモダン」を目指した三玲の作品を通して、現在に生きる我々は新しい伝統の在り方を考えることができる。


(重森三玲作 東福寺方丈庭園の市松デザイン)


・「真々庵」の作庭にみる松下幸之助の庭園観

 さてこれまで一連の日本庭園の歴史を見てきたわけであるが、ここから言えることは、すべてあてはまるわけではないにせよ日本庭園には、次の3つの伝統精神が表現されていると考えられる。

1、「自然に従う(古来より連綿とつづく自然を敬う・尊敬する心)」
2、「不易と流行(永遠に変わらない伝統と、時代とともに変化するもの)」
3、「無駄を省く、工夫する、華美をさける(茶道や禅の侘び寂びに通じるもの)」

 特に3に関しては、松下幸之助が「真々庵」の手入れに着手した時のエピソードと重ねあわさるものがある。

 塾主は入手してすぐ庭師川崎幸次郎に命じ庭園の大改造に着手した。川崎幸次郎は往時のことを「作庭覚書」に記しているが、その指示が興味深い。「むかしの武芸者、宮本武蔵や荒木又右衛門といった達人は、身に寸鉄を帯びず、敵を制したように、庭も同じ気持ちでやってくれ」と言われたというのである。

 禅問答のような言葉に川崎幸次郎は困惑したが、そのことの意味を一生涯自らの課題と受け止め、後年次のように語っている。「これ(禅問答のようなお言葉)は、庭に派手な色目の石を据えたり、人工的な樹木を植えたり、大きな灯籠をいくつも立ててはならないという意味に解釈しております。以来、私はこの言葉をいつも頭におき、地味でごく日常目にする平凡な石でも大切に使い、穏やかで静かな庭、あまりてらいのない庭造りにつとめております」と。

 またある時、飛石が必要と思って自宅からとっておきの鞍馬石を据えたところ、塾主は、「せっかくやけど、これ持って帰ってくれへんか。ワシはこんないいもんはいらんのや。普通の石でええ。あんたの腕が見たいんや」と言って返させたという。塾主らしいエピソードである。

 もうひとつ、「真々庵」には庭園として楽しむということ以外の大事な要素があることを忘れてはならない。それは塾主がこの世にPHP(平和、幸福、繁栄)を実現するため、日夜思索を練り、思い巡らした活動の拠点だということである。真実真理を探究する場所が「真々庵」の由来でもある。茶室のほかに、森羅万象、万物の根源に感謝と祈念の思いをこめるためにつくられた「根源の社(やしろ)」がある庭園は、他にも例をみない。

 利休居士の目指した市中の山居も、禅僧の枯山水の庭も、そこには「小宇宙」が横たわっている。利休居士も禅僧も、そこで人の人たる道を学び、高い理想を持って修業を続け、見ることのできぬ世界、真実の自己を見いだそうとした。「万物の根源」ひいては「宇宙の根源」を思索し続けた塾主にとって、日本庭園という「小宇宙」は、いわば「宇宙の根源」へと続く階段であったに違いない。

(「真々庵」を歩く塾主 ※PHPホームページより引用)


・むすびにかえて

 われわれ松下政経塾生が一年時に行う茶道や座禅、その精神は日本庭園に大きく影響を与えているということを今回理解することができた。つまり私が日本庭園の素晴らしさを再認識するようになったのも、茶道や座禅を通じて日本文化を少しずつではあるが理解するようになったからであろうし、もちろん茶道や座禅だけではなく「日本とは何か」「日本人とは何か」と探究する松下政経塾生の使命のなかで、たとえば伊勢・熊野の歴史観研修では上述した花窟神社を訪れ、日本人の石に対する信仰をこの目で確かめることもできたからこそ、ということもあるだろう。

 今回、日本庭園の歴史を述べていくにあたって、できるだけわかりやすいように様式や技法を簡略化し説明した。たとえば様式でいえば京都銀閣寺の書院造庭園や岡山後楽園、水戸偕楽園などの大名庭園など、より細分化することも可能である。庭園を多少なりともご存じの方から見れば、稚拙であるとのお叱りを頂戴するかもしれない。

 しかし日本庭園の何よりの意義は「愛でること、楽しむこと」にもあると思う。細分化して難しく考えることよりも、そういったことは忘れて真っ白な心の状態で庭園に接してみる。その時こそ日本庭園という「小宇宙」に横たわる思想や哲学、自然観、いわゆる森羅万象ひいては万物の根源・宇宙の根源を、感じることができるのではないだろうか。

 真っ白な心の状態は、言い換えれば「素直な心」の状態とも表現できる。「素直」は塾主松下幸之助が人生の指針とした言葉で、松下政経塾の一角にある茶室「松心庵(しょうしんあん)」には、「素直」と書かれた松下幸之助の扁額が掛けられており、われわれ政経塾生も常々「素直な心」になるべく研修を行っている。

 だからこそ、繰り返すが日本庭園という「小宇宙」は塾主松下幸之助にとって、
1、「素直な心」の空間
2、「宇宙の根源」へと続く階段
 であった。塾主=庭園、その論理の妥当性は、今帰結したのである。

以上
(引用・参考文献)
「京都 とっておきの庭案内」 田中昭三 小学館
「京の庭」 重森千靑 ウェッジ
「日本の庭園文化」 西桂 学芸出版社
「図説 日本庭園のみかた」 宮元健次 学芸出版社
「図説 茶庭のしくみ」 尼崎博正 淡交社
「日本の庭園」 田中正大 鹿島出版会
「論叢 松下幸之助 第5号~松下幸之助のお茶と真々庵」 松下美術苑真々庵苑長・徳田樹彦 PHP研究所
2008年1月 執筆
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