Thesis
小麦は乾燥した土地に生育する。だから、水田に小麦を栽培するなら、土地の水分を抜く工夫がいるらしい。つまり、作物には作物に適した土壌が必要なのだ。さて、それは作物だけなのだろうか。日本の土壌を踏まえながら、日本に適した民主主義を考察したい。
「何故、物事がこれほどまでに決まらないのだろうか」と、日本の政治に対して歯がゆい思いをすることがある。例えば、内閣が法案を提出した後に、法案審議へ介入する手段を内閣にもたせない、議院内閣制下における内閣と国会の関係に、問題があるとの指摘がある。
一方、日本人が、その先送り文化によって課題を解決しないという見方もあるだろう。例えば、1980年代の後半から社会保障の危機が叫ばれてきたが、それは解決するどころか、むしろ悪化の一途を辿っている。
更には、民主主義が日本人の気質に適した政治制度なのだろうか、という疑問が湧いてくる。一方、今日における民主主義国家の繁栄を鑑みれば、民主主義が、現時点における最も優れた政治制度といえるだろう。塾主は、
“世界でいちばんどこが繁栄しているかということを調べてみると、民主主義がいちばん行き渡っている国が繁栄していると思うんです”*1
と述べている。また、イギリスの元首相ウィンストン・チャーチルは、
“民主主義は最悪の政治形態といえる。これまで試みられてきた民主主義以外のあらゆる政治形態を除けばだが”**1
と述べている。
しかし、日本は、過去も現在も外圧によって民主主義を導入した、との印象が拭えない。明治時代には近代化を達成するために大日本帝国議会を開き、太平洋戦争後はGHQの草案による日本国憲法の下に、今日の国会が運営されている。
日本人は、心から望んで選択していないようにも考えられる民主主義で、自分たちが幸せになれると思えるのだろうか。本レポートでは、民主主義や国家成立の過程、国家と憲法の関係を踏まえながら、日本に適した民主主義を考察したい。
世界初の近代民主主義国家はアメリカである。アメリカは1776年のイギリスとの戦争に勝利して独立を達成し、市民は生まれながらにして平等、かつ誰もが自由である社会となった。この近代民主主義の基本的な考え方である人権と平等は、その起源をキリスト教カルヴァン派の予定説に遡ることができる。
キリスト教カルヴァン派の予定説では、“無限で万能の力を持つ神”が想定されている。その神の前では人間は皆平等であり、その権利も平等である、という考え方が生まれた。つまり、今まで王族、領主や商人などが有した一部の特権は、誰もが神の下の平等において有する権利となった。従って、民主主義の成立には、人間は皆平等という観念を生む、“無限で万能の力を持つ絶対的な神”の存在が必要であった。
日本では、明治時代に近代民主主義を導入するにあたり、神の前の平等を信ずる予定説のような思想が存在しなかった。そこで、明治の指導者は、天皇を現人神として、人民は天皇の下に皆平等という状態を創り上げ、疑似的な民主主義を成立させたのであった。
一方、今日の日本における民主主義は、法の下の平等において成り立っている。しかし、それを信じて暮らす人々は、現実的に少数派ではないだろうか。つまり、民主主義の大前提である人権や平等の精神を頭で理解していても、実感できないのが今日の日本なのだ。
次章では、近代民主主義の基本思想を生み出したイギリスの哲学者ジョン・ロックと、塾主の国家観を比較しながら、日本が、西洋的な民主主義を活用できる土壌なのか考察したい。
国家の成り立ちについては、洋の東西を問わず様々な考え方がある。例えば、イギリスの哲学者ジョン・ロックは、人間は自然な状態において、働いて富を増やし平和に暮らせる。しかし、怠け者が出てくると貧富の差が生まれ、泥棒が発生するなど不都合が生じる。
そこで、各個人はその自然に有する権利の一部を、国家に預けて制約を受ける代わりに、社会の課題を解決する目的で国家を創った、と考える。平たくいえば、国家とは、国民の不都合を解決するサービス会社である。
一方、塾主は、男性と女性が仕事を分担する中で家族ができ、その家族が複数ある地域に集まり、お互いの生活を繁栄させる目的で協力するうちに村落となった。人知が進歩すると、お互いの繁栄、平和、幸福を、一層充実させるために郷や町へと発展した。
そして、その共同体は拡大されて、ついには一民族なり数民族を一つの集団とした国家ができ上がった、と考える。国家とは、共同生活を自然と拡大させた結果なのである。更に、国家の目的を、
“一定地域の一民族または数民族が相寄って、その民族の繁栄、平和、幸福を増進し、人類の文化を向上せしめるところに国家の目的があります”*2
と述べている。
ここで両者の考え方を比較すると興味深いことに気づく。ジョン・ロックは、人間がその営みの中で生み出す、様々な不都合を解消するサービス会社として国家を捉える。一方、塾主は、人間が繁栄・平和・幸福を生み出すための善なる機能を国家にみている。
これが、一般的な日本人の国家観ならば、日本と西洋の国家観には大きな隔たりがあるといえよう。従って、この根本的な相違が、近代民主主義を日本にそのまま導入しても、必ずしも機能しない可能性を想起させるのである。
ジョン・ロックの思想は社会契約論とよばれ、近代民主主義の成立に必要不可欠であった、といわれる。この思想は、各個人が国家に自然権の一部を預ける契約を締結して、初めて国家が形成される、と考える。そして、共同生活の規則が法律で定められる一方、憲法が国家権力の暴走を抑制する目的で制定される。
近代国家は、軍隊や警察という、マックス・ウェーバーが言うところの暴力装置を用いて、国民を生かすも殺すも自由にできる。従って、国民は国家権力の暴走を抑える目的で憲法を制定する。つまり、憲法とは国民に対する規則でなく、国家が遵守しなければならない規則なのだ。
社会契約論では、国家権力の暴走を抑えるため、憲法の制定を必要としており、国家が生来的に危険を内在しているものとしてみなしているだろう。この両者の関係からは、国家が危険なものでないと考えるならば、憲法が不要な国家もあり得ると言えないだろうか。
例えば、上述の通り、塾主は善なる機能を国家にみており、その考えに基づけば、必ずしも国家権力を縛るという発想にはならない筈である。つまり、日本では、憲法を制定しない国家運営が適している可能性もあり得るのではないか。
その国の伝統、文化や国民性などが勘案されてこそ、国家は上手に運営される。従って、政治制度はその国々で千差万別でよく、社会契約論に基づく国家運営が日本に適しているとは必ずしも言い切れない。
つまり、今日の日本は、1.予定説のように強く平等を信じられる思想がなく、2.国家はその成立過程から善なるものとし、3.国民の繁栄・平和・幸福に資するものと考えているのではないか。
従って、西洋的な民主主義が正常に機能し難い土壌であり、それに基づく国家運営が難しいのかもしれない。例えば、水田に何の工夫もせずに小麦の種を蒔き、懸命に育てようと苦戦しているかの如くである。つまり、西洋的な民主主義は、日本の土壌に適さないので、その運営に苦戦している割に果実を得られないのではないだろうか。
そして、それが充分に機能しないため、政治もなかなか決断できないのかもしれない。一方、今日の世界では、民主主義国家が一定の繁栄を実現していることは間違いない。そこで、日本は、その国情に適した民主主義を生み出していく必要があるのではないか。水田には、やはり小麦より稲が合うのである。塾主は、
“民主主義の基本理念というものは、これはまことに好ましいものであり、これを取り入れ国家国民の調和ある発展繁栄を図っていくことは、きわめて重要なことだといえましょう。けれども、これを取り入れるにあたっては、やはり日本の伝統、国民性というものに立って行わなくてはなりません”*3
と、日本の伝統や国民性に立った民主主義の導入を説いている。
日本では、聖徳太子が“和をもって貴しとなす”と十七条の憲法で表現したように、お互いに慮って話し合うことを、長い歴史の中で培ってきた。しかし、その国民性が西洋的な民主主義の導入で無視され続けてきたのではないだろうか。
そして、塾主は、
“基本の理念は同じでも、具体的な形態というものは、それぞれの国民性に従ってさまざまでなくてはならない、いわば、アメリカにはアメリカ式民主主義が、フランスにはフランス式民主主義が、そして日本には日本式民主主義がなくてはならないと思うのです。
それを日本がみずからの伝統を忘れて、アメリカのとおりにやる、あるいはフランスのとおりにやろうとしても、これはいわば根なし草の民主主義に終わってしまうでしょう。それではかえって、国民生活の上に混乱と不幸をもたらすことも多いといわなくてはなりません。やはり、みずからの伝統、国民性に立ちつつ、よいものを取り入れ、消化吸収していくということでなくてはならないでしょう”*4
と日本式の民主主義について述べている。更には、
“まあしかし、一朝一夕に結論の出る問題ではありませんから、ここでは当面のこととして考えてみますと、日本式民主主義ともいうべきものを生み出していくことがやはり必要でしょうな。つまり、いま言うように日本には昔からの秩序があるわけです。それはそれで生かしていくことが大切です。
ただ、過去の日本においては、経済性を追求した政治形態というような点が薄かったと思うのですね。経済性をまったく考えなかったわけではないでしょうが、やや軽視されていた。だから、日本の伝統的な秩序を生かしつつ、その上に、経済性のあるアメリカの民主主義の考え方を取り入れていったらいいと思います。そうすれば、両方のよさが生かされて、過去のアメリカよりももっといい政治ができるはずですよ”*5
と指摘しているのである。それは、日本古来の伝統的な秩序を兼ね備えながら、アメリカ型の民主主義の経済性を取り入れたものであるのだ。
戦後の日本は、アメリカ型社会を目指して、日本の伝統精神や文化などを軽視してきた。そして、アメリカ型社会を追い求めた先には、経済的な繁栄や物が豊かに溢れる世の中が待っていた。確かに、物的な豊かさを享受した暮らしができるようになったが、経済的な繁栄が行き詰りをみせる今日において、日本の政治は様々な課題への解決策を提示できずにいる。
それは、例えば、人間の本性が危機に直面した際、如実に表れるのと同じではないだろうか。日本人の伝統精神や国民性が、日本の危機に際して政治の中にも表出し、西洋的な民主主義では物事を決断することができないのではないか。
今こそ、私たちは、“日本人の、日本人による、日本人のための”民主主義を創り上げなければならない。それには日本の伝統や国民性を踏まえ、日本の実情に適した経済性を担保しつつ、自由と秩序を重んじる日本式の民主主義を考察しなければならないと考えるのである。
注*:
1. 松下幸之助『松下幸之助発言集1』PHP研究所 1991年 P104
2. 松下幸之助『PHPのことば』PHP研究所 1975年 P336
3. 松下幸之助『人間を考える 第一巻』PHP研究所 1975年 P116
4. 松下幸之助『人間を考える 第一巻』PHP研究所 1975年 P116-P117
5. 松下幸之助『松下幸之助発言集41』PHP研究所 1991年 P288-P289
原注**:
1.“No one pretends that democracy is perfect or all-wise. Indeed, it has been said that democracy is the worst form of government except all those other forms that have been tried from time to time.” THE CHURCHILL CENTRE AND MUSEUM:http://www.winstonchurchill.org/ 2013年6月16日現在
参考資料:
松下幸之助『人間を考える 第一巻』PHP研究所 1975年
松下幸之助『PHPのことば』PHP研究所 1975年
松下政経塾編『松下幸之助が考えた国のかたち』PHP研究所 2010年
小室直樹『痛快!憲法学』集英社 2001年
大山礼子『日本の国会』岩波書店 2011年
Thesis
Hiroki Okazaki
第33期
おかざき・ひろき
Mission
「ゆるやかな共生」にもとづく「隣近所の多文化共生」