論考

Thesis

日朝国交正常化へのシナリオ

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松下政経塾

1999/3/29

核疑惑、テポドンミサイルと北朝鮮が繰り出す問題は、今や東北アジアだけの問題ではない。事態の好転は、韓国人である私はもちろん日本にとっても重要である。鍵は日朝修好にあるとみる。そこでその道のりを脚本に描いてみた。

北朝鮮の問題において日本は危機の中心にある。政治・行政・軍事などの各分野では変化を求めて活発に議論が行われている。しかし、米国の情報と方針に追随しなければならない日本は、東京にテポドンミサイルが落ちるかもしれないという危険が迫っているにもかかわらず、発射当事国である北朝鮮と危機回避に向けて直接対話ができないという矛盾を抱えている。 韓国人である私は、日本と日本を取り巻く近隣諸国の現状から日朝修交を一日も早く実現させるべきだと考える。それは、日朝修交は短期的には東北アジアの安全保障に、長期的には朝鮮半島の統一問題に貢献すると思うからである。その道筋をオムニバス形式のシナリオ構成にしてみた。

■シーン1 1972年9月29日

 北京から上海へ向かう飛行機の中。機内では、青いテーブルを挟んで田中角栄首相と大平正芳外務大臣がぼそぼそと話している。二人とも分刻みで続いたスケジュールをこなし疲れていた。
 「少し眠った方がいいですな。1時間後にはまた強行軍が始まりますからな」。
田中は大平にそう言い残すと機内前方にある自分の席へと戻った。田中は窓の外に広がる中国を見下ろした。護衛戦闘機の赤い光が目に入った。
 「これから始まる。歴史がどのように変わっていくかは両国の国民と政治家の努力次第だ」。
 瞬間、田中の頭には訪中の5日間が走馬燈のように流れた。北京空港に降り立つや始まった中国人民の熱烈な歓迎、日中共同声明を発表するまでの交渉、「小異を捨てて大同に進もう」と言った周恩来首相、「けんかをしてこそ仲良くなれる」と総括した毛沢東主席……。
 田中は肉体的には非常に疲れていた。しかし頭は冴えていた。
 「国交途絶幾星霜 修交再開秋将到 隣人眼温吾人迎 北京空晴秋気深」。
 興奮した気持ちを静めようと漢詩を詠んだ。
 中国との修交によって得ることも多いが失うことも多いだろう。今から早々に失ってしまうだろうことの対応策を考えなければならない。自民党内親台湾勢力の反発と米国の反発がどの程度になるのか。自民党内と日本国内の反発はなんとかなだめることができるだろうが、米国の反発にはどのように対応するのが良いのか。田中の脳裏には待ちうけていると思われる途方もない反発が頭をよぎった。
 「日中修交問題に対して米国が反発する場合は、私が直接説得します」。
 周恩来の顔が頭に浮かんだ。田中が成し遂げた日中国交回復は、米国の承認を得ずに日本が独自に進めた最初の自主外交であった。
 「米国がどんなに反発しようとも、私が退けばいいことだ。今、日本が中国と国交回復をしなかったら、中国は永遠に日本と修交しないだろう」。
 飛行機が高度を落し始めた。
 「首相、15分後に上海空港に到着します。空港には張春橋さんが待っているそうです」。
 田中は秘書が持ってきたメモを見ながら、わざわざ同行してくれている周恩来首相とのやりとりを思い出した。
 「日中国交は今でなければだめです。林彪が死んで国内情勢もそんなに悪くありません。私は4人組を恐れてはいませんが、今は文革派をあやさなければいけません。彼らがいる上海を訪問してもらえませんか」。
 周恩来首相にとっても50年の政治生命をかけても日中修交を推進したいという悲壮なまでの決意が感じられた。

■シーン2 1999年1月15日

 ワシントンDCのウッドローウィルソンセンター5階の大会議室。入口にはケネス・ペイル教授の名前と「北朝鮮に備える日米協力の可能性」というセミナーのタイトルが掲げられている。午後6時17分、会議が終わり扉が開いた。セミナー参加者たちがゾロゾロと外に出て来た。参加者の大部分は会議場の外に設けられたパーティー会場にそのまま移動した。テーブルの上にはワインとジュースそれにサンドイッチが並んでいる。
 100名余りが集うパーティー会場には英語、日本語、韓国語、そして中国語まで飛び交っている。話題の中心は北朝鮮が果して米国の核査察を受け入れるかいなかについてだ。 スーツ姿の多いパーティで学生らしくセーター姿の日本人の関本健二と、軽いジャケット姿のシンクタンクの研究員、韓国人の柳大中が話したのはパーティーが盛り上がり始める7時頃だった。
 「対北朝鮮問題について日本は独自の外交プランを持っていますか?」
 香港人のように見える柳は、名刺交換がすむや流暢な日本語で関本に質問した。
 「独自外交?」
 「私の考えでは、現在の日本の対朝政策は対米外交の延長線にあります。極端な例を上げれば、東京の外交関係者は、ワシントンDCにある日本大使館が伝えるホワイトハウス、国務省、そしてペンタゴンの考えに対し、どのように摩擦なく処理するかに気を遣っているようです。米国が考える北朝鮮政策にどのくらい日本が従うかが問題なのです」。
 関本は一瞬、日本人としての自尊心が傷ついたように感じた。しかし、考えてみると日本の北朝鮮外交を対米外交の延長線とする柳の分析は、そんなに外れてはいない。テポドンが日本列島を越えて太平洋に落ちた時も、いち早く対応にあたったのは米国だった。
 「それなら柳さんが考える日本の北朝鮮に対する独自外交とは具体的にどういうことですか?」
 「現在の国際政治地図を考えれば、米国の外交戦略を無視できる国はありません。日本の場合は一層深刻です。しかし米国がすぐに認めるとは思いませんが、日本が処理できる問題を日本自身が識別し、実行に移していくとなると違ってくる。それから周辺諸国のどこにも被害を与えないことも重要です」。
 「北朝鮮の核問題と関連して、自主的な外交を使って日本の利益を積極的に反映する。さらに、近隣諸国の助けになるとなれば3匹のうさぎを一度につかまえることになりますね。そんなうまい方法がありますか?」
 「もちろんそんな方法が見つかればノーベル平和賞ですね。しかし、日本が北朝鮮核問題を処理する過程でもう少し根本的な処方箋に取り組むならば、一歩踏み込めると思います」。
 「根本的な処方箋とはどういうことです?」
 「日本の北朝鮮政策ははしかを病んでいるのに解熱剤だけを与えるのに似ています。
拉致事件、ノドン1号、テポドン問題までに至る過程を見ればすぐ理解できると思います。
 テポドン問題はKEDO援助金の凍結では解決できないでしょう。もっと根本的な解決策は孤立する北朝鮮を国際舞台に登場させる。これはまさに日朝国交正常化です」。
 柳はそのくらいで話を切り上げなければならなかった。腕時計を見るとすでに8時を回っている。黙って聞いていた関本は最後の質問を投げた。
 「韓国から見ると日本が北朝鮮と国交を回復することに反感はありませんか?」
 「金大中大統領が98年12月に村山元総理に会った際に『北朝鮮の開放は東北アジア全体の平和への助けになる』と話しました。この言葉は、韓国が日朝国交回復に特に反対する理由はないということを意味するとは思いませんか」。

■シーン3 2030年12月3日夜11時30分

 総理大臣としての最後の演説を終えた関本健二は吉祥寺にある自宅に戻った。いつものようにまっすぐ書斉に行くと、63年間、ずっと書き続けた30余冊の日記帳を取り出した。政界に入ってから総理大臣に上り詰めるまでの27年間と、総理になってからの2年と12日分。関本は決して平穏ではなかった自分の政治史をもう一度確認してみたかった。
 「生涯の記憶に残る仕事は北朝鮮との国交正常化を成し遂げたことだろう」と、関本は2002年春の日記帳をめくりながら、過ぎ去りし日々を回想した。
 日本が北朝鮮と国交正常化したのは2002年5月28日。当時関本は当選1回の衆議院議員にもかかわらず、日朝修交会談の第一線で活動した。日本が国交正常化会談に臨むようになった契機は、2001年12月総選挙で民主進歩党が衆議院議席の60%を獲得したからだった。日本初の女性総理となった横山妙子は、党の選挙公約「北朝鮮のテポドンミサイル問題解決」を最優先課題とした。
 2002年当時、北朝鮮はテポドン1号の実験に続いて2号、3号、加えて射程距離2万キロの潜水艦発射テポドンミサイル試験を成功させていた。米国、ロシアに続く世界第3位のミサイル大国に成長していた。
 「横山内閣結成以後、直ちに日朝修交会談に入る。北朝鮮は50億ドルの賠償金を前提に修交会談に同意。日本政府は国交修交を条件に人、物、情報交流を明文化(2002年4月)」。
 関本はメモ式の日記を1行1行読み返しながら、日朝会談当時の記憶を蘇らせた。
 「米国務省は米朝修交前の日朝修交に反対の立場表明。韓国と中国の日朝修交支持を基盤にして米国を説得することが必要(2002年5月3日)」。
 日朝修交会談の障害物は、国内では、平野を中心とする野党、藤田が主催する人権団体、国外では米国の反対であった。野党と人権団体は拉致事件とよど号事件に関して北朝鮮から特別な謝罪声明を受けていない点、米国は日本が先に北朝鮮と修交することに対して反対していた。横山総理はそのような状況下で中国と韓国を訪問し、江沢民中国国家主席と金大中大統領から日朝修交会談の支持声明を勝ち取った。以後、横山総理は北朝鮮に自ら出向き、金正日党総書記との4回にわたる会談を直接主導した。
 「北朝鮮との国交正常化は日朝関係の二国間の次元だけで意味があってはいけません。北朝鮮を国際舞台に開放するという次元により力点をおかなければならないのです」。
 関本は、平壌の百花園迎賓館での横山総理の言葉を昨日のことにように思いだした。
 会議初日5月23日、横山総理は日朝修交会談を日朝平和会談(不可侵条約)と並行して議論することを提案した。予想通り、北朝鮮側からの反発にぶつかった。しかし、北朝鮮の反発は拉致問題とよど号問題の解決は修交以後に回すという日本側の譲歩により緩和された。結局、会談は5月25日再開され、日本と北朝鮮は国交正常化会談に入っていくことになる
。日朝修交問題が妥結に至ったのは5月28日。金容淳外交部部長と矢崎外相が署名した国交修交共同声明で、日朝両国は日朝修交と日朝不可侵条約を結ぶ一方、70億ドルの賠償金と百億ドルに達する長期円借款支援、1年間に5千人が往来する日朝青年交流会を発足、よど号関係者即時送還、拉致事件については解決に向けて議論を継続、日朝首脳会談の定例化、日中朝韓4カ国スポ―ツ親善大会を板門店で開催、2002年9月のワールドカップサッカーを日朝韓で共同開催……。15項目で合意した。
 「北朝鮮労働新聞は日朝不可侵条約により、日本をターゲットにしたテポドンミサイルの解体写真を掲載(2002年5月29日)」。
 北朝鮮との交渉過程は困難がついて回ったが、修交以後も各種の難関にぶつからなければならなかった。しかし、日本と北朝鮮の国民がお互いを行き来する過程で、日朝関係は南北関係より発展した。北朝鮮は結局2007年の金正日党総書記の突然の死と共に開放を加速した。ついに2011年には韓国とも歴史的な妥結を治め、高麗共和国として統一した。
 しかし、横山総理は、劇的な日朝修交の5カ月後の2002年10月、退陣を余儀なくされた。米国の意見を無視したまま日朝修交を強行したという点が、誰よりも短い政治生命という結果をもたらした。
 「あらゆる反発があったがそれでも北朝鮮を開放に向けさせ、ミサイル威嚇をなくさせたという点で横山元総理は21世紀初頭の日本の安全保障に最も重要な役割を果たしたと言える」。
 関本は、窓の外に降る雪を眺めながら、横山が政治の舞台から去る時の最後の言葉を思い出した。
 「歳寒、然後知松柏之後凋也―冬になってはじめて、松や柏がきれいな緑を保っているかがわかる」。

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