松下政経塾 The Matsushita Institute of
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2001年5月

塾生レポート

芸術と教育の関係について
山本満理子/卒塾生

 
 4月の月例報告を読んでくださった方から、「狂言と教育の関係について教えていただきたい」との反響をいただいた。今福岡で、子供たちに狂言を教えることで躾を身につけさせようという試みがなされているそうだ。果たして狂言が子供たちの躾に貢献できるのか。まだまだ勉強不足ではあるが、この場をお借りして現段階での私の意見を述べたいと思う。
 その前に少し本題からは外れるが、この2ヶ月間の京都での活動を通じて痛感している2つのことについて述べたい。
 まず一つめは、今さら述べることでもないのかもしれないが、いわゆる日本の伝統と呼ばれるものは現代の日本において、人々の心から乖離してしまっているということである。先日、京都の南座で近松座の歌舞伎を観た。その舞台自体にはここでは触れないことにする。ただ南座の観客席に座り、そこに集った人たちの雰囲気から感じたのは、歌舞伎がいかに民衆の文化でなくなっているかということであった。歌舞伎は江戸時代、まさに民衆の文化であった。劇場内はむせ返るような熱気に包まれ、観客は席から役者に向かって思い思いに掛け声をかける。舞台と観客席が今最先端の双方向のやり取りをする、そんな生々しいライブ空間であった。今、歌舞伎というと上品なイメージが持たれており、歌舞伎座にしても南座にしても非常に敷居が高く感じられる。しかしかつての歌舞伎は、もっと自由で、どんな人が出入りしてもいい、上品どころかどちらかといえば悪所だったのである。そこまで品を落とす必要はまったくないが、敷居の高いものというイメージはなくさなければならない。これは芸術全般に対していえることでもある。日本人は芸術とは上品なもの、文化とは高尚なものというイメージを強く持っており、そうでないものは文化ではないと思っている節がある。しかし文化とはその時代に輝きを放っているからこそ文化である。この時代に生きる、私たちの生活の中に入り込んでいる、というライブ感が感じられないものは、文化とはいえないのではなかろうか。
 もう一つは、日本には「道」と名のつく文化が数多くある。茶道、書道、華道、香道、歌舞伎道、狂言道・・・しかしそれらをひとくくりにして扱うことはできないということである。これは冒頭で触れた「狂言と教育の関係」に非常に関係することであるが、茶道界の方々は茶道が日本の倫理、道徳の最後の砦であると信じ、その普及に努められている。子供たちが倫理、道徳を身につけるためには茶道が非常に大きな役割を果たせると信じ、学校茶道に取り組んでいらっしゃる。確かに茶道はそういった要素が核となった「道」である。しかし、こういった役割を担える「道」は茶道と、そして小笠原流礼法だけであろう。それ以外の「道」は倫理や道徳といった要素は持ち合わせていない。確かに礼に始まり礼に終わるものではあるが、精神的なものに裏打ちされた芸術、芸能にすぎない。この2つの間には非常に大きな隔たりがある。現在学校教育に日本の伝統文化を取り入れようという動きが活発であるが、茶道や礼法を取り入れるのと、それ以外の、例えば狂言や歌舞伎などを取り入れるのとでは、まったく意味合いが違ってくるのである。今の議論にはそういった見方が欠けている。
 さて、本題の教育と狂言の関係についてであるが、果たして狂言が子供の躾に貢献できるのか。先にも述べたように狂言は芸能であるから、私はまったく関係ないとは思わない。しかし直接躾につながるとは思えない。これが私の現段階での答えである。ただこれを書いている段階では、その福岡での素晴らしい試みを詳しくは知らないので、もしその現場などを見ることがあれば、この私の考えは大きく変わる可能性もあるだろう。
 なぜ学校教育に伝統文化を取り入れるのか。それは日本の誇るべき伝統文化を子どもたちに伝えるためであろう。しかし、茂山千三郎氏は「学校教育に狂言を取り入れないでほしい。なぜならそれは狂言嫌いを生むだけだからだ。学校教育では残念ながら狂言の面白さを伝えきることはできない。何かの機会にたまたま狂言に出会い、面白いと感じてくれた人たちがファンになってくれるわけだが、学校教育で少しでも狂言に触れてしまっていると、面白くないという先入観をもたれてしまう。」と危惧されていた。確かにそういった面は否めない。茂山家では学校狂言に力を入れ、少しでも多くの子供たちに本物の狂言に触れ、その面白さを知ってもらおうとなさっている。しかしそれは狂言師だからこそできる方法であり、そのためその活動にも限界がある。狂言の面白さ、伝統文化の素晴らしさ、奥深さなどを伝えきれないのなら、学校教育に取り入れるべきではない。何か他の、楽しいものとして子供たちに伝える方法を考えるべきである。千三郎氏の話を聞いて、私もそういう思いを強めた。
 ただし、茶道や礼法は違う。日本人の倫理観、道徳観の集大成である。これは子どもたちが小さい頃から当たり前のものとして受け入れられるように、学校教育に積極的に取り入れていくべきである。しかしここにも、それぞれの「道」の素晴らしさを伝えられる教師が必要であるが。
 芸術教育が必要な理由、それは答えがひとつではないということを教えることにあると思う。作品を作ることを考えてみる。その場合、こうしなければならないという決まりはない。自分の思いをその作品を通して表現するのみである。だからそれは正しいとか、正しくないとかと評価されるものではない。どんな思いがどれだけこもっているかである。また、作品を鑑賞することを考えてみる。その作品をどういう思いで作り上げたかは、作者にしかわからない。それを鑑賞するということは、自分がその作品に出会うまでの人生で蓄積した知識と感性をフルに動員して、作者の思いを受け止めるということである。そしてその作品を素晴らしいと思うかどうかは、自分の思いと作者の思いがシンクロするかどうかというだけの問題である。だから、皆が素晴らしいという作品を自分も無理に素晴らしいと思う必要はまったくない。それぞれの感性で出した、自分なりの答えが真実の答えなのである。
 この世の中で正しいこと、真理といわれるものは決して一つではない。答えは人間の数だけあっていい。ただその中で、現状を考えたときに取るべきベストな道、ベストな回答が何なのかを、さまざまな答えを持った人々が集まり、最善の答えを導いていく。社会生活とはその繰り返しである。現代のように向かうべき目標が見えにくく、人々が不安を感じている時代は特に、一つしかない答えを追い求める数学や理科といった教科だけでなく、それぞれの感性で導いた答えが正しい答えとなる芸術教育が非常に大きな意味を持ってくると私は思う。

2001年5月 執筆
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