Thesis
先日お茶会があって、絽の着物を着た。着物は季節によって着るものが大体決まっている。7、8月は夏物である絽、6月と9月は単、それ以外の10月から5月は袷とよばれるものである。絽の着物は下の柄が美しく透けて見えるので、見る人の目には涼しげに映る。また私のは薄いブルーのため余計だったらしい。「まぁ、涼しげねぇ」と何度も声をかけられた。しかし着ている本人にしてみれば、着ている枚数も袷のときと変わるわけではなく、当然のことながら帯も締めるため、汗びっしょりである。「ありがとうございます」と笑顔でこたえながら、「いや、涼しくなんかないですよ」という言葉が出てきそうになるのを何度となく我慢した。
さて7月に入り、私の今住んでいる京都は祇園祭一色である。それぞれの鉾が立ち始め、街中を歩いていると、どこからともなく「コンチキチン」とお囃子の音が聞こえてくる。またデパートの入り口には浴衣コーナーなるものが設けられ、お祭りムードをいっそう盛り上げている。その浴衣コーナー、いつ行っても若い女の子たちで溢れ返っている。ご存知のとおり数年前から若い人たちの間で浴衣がブームなのである。いろんな有名デザイナーが浴衣をデザインし、今までにはなかったようなカラフルな浴衣や下駄までもが所狭しと並べられている。なぜこのように若い人たちの間で浴衣がブームなのか。
一言で言うと「気軽さ」であろう。着付けも手入れも楽だし、素材も値段も着物に比べてお手頃である。特に同じ夏のものである絽などは生地も薄いため、着る時にはかなり気を遣わなくてはならない。また遊び心に溢れたデザインは、洋服の感覚に近いものがあるし、値段だけ考えてみても着物の10分の1である。しかし理由はそれだけだろうか。私にはそこに浴衣のみならず、着物というものが持つ魅力があるように思われる。
着物というのは36センチあまりの幅で約20メートルの長さの生地を8枚の大小の長方形(身頃2・袖2・おくみ2・襟1・掛け襟1)に裁ち、ほぼ直線に縫い合わせた長方形の集合体である。そのため出来上がった形は平面構成で、人の身体がそれを着ようとすると、洋服のように簡単にはいかない。洋服と言われる形のものは、人間の身体に合うように裁断され、縫い上げられているので、身につけてボタンやホック、ファスナーなどであいた部分を塞ぐだけで着る人の身体を被い、そのまま動けるようにできている。つまり、洋服はデザイナーが形を作り、縫製者が縫い上げると、衣服として完成しているのである。
一方、直線裁ちの着物は、凹凸のある筒型の人間の身体に巻きつけながら身に添わせ、衣服として形作っていかなくてはならない。着る人が「着物という形に仕立てられたもの」を衣服として完成させるのである。着るという行為が毎回、着る人と着物との出会いを持って衣服として創られていくのである。社会学者の鶴見和子氏は「着物は形のないもの、自分の姿の勢いで、これに形を与えるのです」とおっしゃっている。
ほんの半世紀あまり前には当たり前のように着られていた着物――。しかし21世紀の今、ほとんどの日本人は日常生活、洋服を着て過ごしている。その背景には単なる西洋文明への傾倒だけではく、ドッグイヤーという言葉に象徴されるスピード競争社会がある。着物は厄介な衣服である。行く先や体調に合わせてその都度着丈や襟合わせを決めるため、着るのにかなり手間取ることもある。1分1秒を争う時代には、こんな厄介なものは適しない。
しかし今、浴衣や着物は海外でもブームになっている。また着物のコンセプトをベースにした、ただ切っただけで縫製をしないというデザイナー・三宅一生氏の展示会はヨーロッパで大きな反響を呼んだ。かつてはコルセットまで使って、衣服に人間の身体を合わせた洋服文化、一方の着物は着るものを人間の身体に合わせる、いわば「包む文化」。そのやさしさが、効率性ばかりを追及してきた時代に疲れきった人々の心を癒してくれているのであろう。
さて、話は変わるが、祇園祭といえばほんの数日前、江戸初期以来300年もの間認められていなかった女性の山鉾巡行への参加が認められることとなった。画期的な転換である。祇園祭では、江戸初期まで大勢の女性が鉾に乗って巡行に参加していたことが屏風絵などから明らかになっている。しかし、その後次第に表舞台から女性を排除するようになり、今ではほとんどの山鉾町が女性の巡行参加を認めていない。鉾上の拝観すら認めていない鉾もあり、女性はちまき売りなどの裏方を務めてきた。巡行でも男性の職人や指導者が万が一に備えて付き添うのに対し、女性は女人禁制の方針から歩道を歩いていた。ところが近年、女性の社会進出が進み、祇園祭にもさまざまな形でかかわる女性が増えていた。そうした状況をかんがみ、認めざるを得なくなったと言うわけである。「社会が変わった」という祇園祭山鉾連合会の深見理事長の言葉が印象的であった。現内閣も男女共同参画会議を設け、真の男女共同参画社会の実現を目指している。特に6月19日に出された「仕事と子育ての両立支援策の方針に関する意見」には、私がライフワークとして考えている学校外の、しかも地域における教育の場の整備がうたわれている。確かにこうした教育の場を整備するためには、男女共同参画社会の実現が必要不可欠である。真の男女共同参画社会とは――。図らずも私は9月の世界女性文化会議に携わることとなった。これからはこちらの方も真剣に取り組んでいきたい。
Thesis
Mariko Yamamoto
第21期
やまもと・まりこ
Mission
「教育に夢、希望、未来を取り戻す」