Thesis
言葉には不思議な力がある。言葉を交わすことによって喜びや悲しみを共有できたり、傷ついた心を癒したり、落ち込んだ人を励ましたり、情熱に火をつけたり――。でもたったひと言で人を殺してしまう、そんな恐ろしい凶器にもなりかねない。今、教育現場で子どもたちを取り巻いているいじめや不登校、引きこもりといった諸問題には、原因として様々な要素考えられるが、しかし、何気なく発せられた友達の言葉に傷つき、自分を内に閉じ込めたり、死に追いやったりしている例が数多く存在している気がしてならない。数年前に「ボキャ貧」という言葉が流行語大賞に輝いたが、子どもたちの対話能力の低さが、想像もしていなかった不幸を招いているのである。
日本人が他者との対話を苦手とすることはよく言われることであるが、それはなぜなのか。中島義道氏によると「わが国では、ウチにおいてもソトにおいても中間地帯としての世間においても、他者と正面から対立する場がない。自分と他者との(微妙な)差異を正確に測定したうえで、その差異を統合しようとする場(ここに〈対話〉が開かれる)が完全に取り払われているのだ。」(『〈対話〉のない社会――思いやりとやさしさが圧殺するもの――』中島義道著、PHP新書)という。確かに現在、1億人以上もの人間が使用し、独自に高度な文化を築いている言語で、他国語の影響を長期間受けなかった言語は、日本語が唯一と言ってもいいであろう。漢字が流入し、そこから日本独自のかな文字が成立、その後、894年の遣唐使廃止に象徴される国風文化の成立から19世紀の「開国」までの約1000年間、日本は文化的には事実上の鎖国に近い状態であった。特に安土桃山時代以降の約300年は、極端に人口流動性の低い社会が、日本全土に形成された。人口の大半を占める農民たちは生まれてから死ぬまで、自分の藩、自分のむらの外に出ることもなく、他国はもとより他地域の文化に触れることさえなかった。このような社会では、異なる価値観のすり合わせ、差異から出発するコミュニケーションとしての「対話」は必要ない。なぜなら生まれてから死ぬまで、まったくの「他者」とは出会わないからだ。こういった狭い閉じた社会では、村のなかで知り合い同士がいかにうまく生活していくかだけを考えればいいのであって、お互いの事情や来歴を知った者同士のさらなる合意形成に重きをおく「会話」を中心とした言語が発達するのも無理はない。
今、21世紀を迎え、世界は国際化、複雑化の一途をたどっている。現代を生きる日本人は、他者との出会い、異文化との出会いを必然的に迫られ、対話の能力は以前にも増して要求されている。しかし学校は相変わらずかつての村社会と同じ様相を呈しており、子どもたちは教室の中で気の合った仲間としか会話を交わさない。そんな環境では対話の能力など育つはずがない。このまま今までのように「日本人なら放っておいても日本語は話せるようになる」と言っていては、ますます悲劇を招くだけである。
というわけで、子どもたちの対話能力向上の必要性を感じた私は今、“「言葉」のプログラム”の開発を進めている。このプログラムは、4月より京都府久御山町の佐山小学校で、総合学習の時間を使って実施することになっている。しかし、いかんせん初めての試みのため、今年度はあくまでも施行期間とし、授業記録をとりながらその都度改善し、来年度から正式にスタートする予定である。現段階で考えを以下に示すので、是非一人でも多くの方からご意見を伺い、もっと充実させていきたい。
(1) はっきりと声を出すプログラム
私たちは今、時代の大きな曲がり角に立って、価値観の転換を迫られている。表現の形態、表現と言う言葉の持つ意味も、時代とともに変わらざるを得ない。これからは明確な情報の伝達よりも、曖昧な感情や気分や感性をいかに表現するかが重要になってくるだろう。知識や小手先の話術ではなく、身体から出てくる微細で多様な表現、つまり全人格が、コミュニケーションの優劣を決定する要素となり手段となる。まずは言葉を豊かにすることから始めよう。言葉は自己と外とをつなぐ扉であり、そして自分の内側を豊かにする道具でもある。言葉を豊かにし、表現を豊かにすることによって、豊かな人間関係を築いていこう。
Thesis
Mariko Yamamoto
第21期
やまもと・まりこ
Mission
「教育に夢、希望、未来を取り戻す」