論考

Thesis

国際海洋秩序と日本の歴史 ~古代から大日本帝国の滅亡まで~

大日本帝国崩壊までの日本の海に関する歴史を見てみると、鎖国時代は例外として、日本は国際秩序に参加しつつも、従属することなく独自の立場をとってきた。日本が覇権国となるより、覇権国がつくる国際秩序に参加しながらも、日本の個性を生かして、独立自尊の気概をもって歩んでいくのがよい。

1.はじめに

 今年(平成19年)7月20日に我が国にもようやく海洋基本法が制定された。本法の第一条に示されている法律の目的の中で、「我が国が国際的協調の下に、海洋の平和的かつ積極的な開発及び利用と海洋環境の保全との調和を図る新たな海洋立国を実現することが重要である」と宣言している。当然のことながら、これだけでは“新たな海洋立国”の姿があまり見えてこない。海洋基本法を眺めてみても、持続可能な開発、国際協調、総合管理など最近はやりのキーワードがならんでいるが、国の目指す方向性というか、世界の中でどのような位置を占めるかという将来像が描きづらい。基本法にそこまで求めるのは当然無理がある。しかし、政治家は歴史観や政治理念によって、国家像を描きださなければならない。そして国民に対して描いた国家像を示さなければならない。

 そこで本稿では将来の海洋国家像を描きだすための前段階として、日本の古代から大日本帝国崩壊までに及ぶ国際海洋秩序と日本の海運・海軍の歴史を整理したいと思う。今回は意識的に海が関係する歴史的事件を抜いてみた。前半はただ歴史的出来事を年号順に並べただけではないかという批判も受けるかもしれないが、そこから何か見えることがあるだろう。そして、海洋をめぐる日本の歴史を眺め、海洋国家・日本を描く一助にしたいと考えている。

2.中国朝貢システムと島国・日本

 まず古代日本のアジア海域は中国を核においた「朝貢貿易システム」ができあがっていく過程にあった。東アジア圏、東南アジア圏、インド圏、イスラム圏の小国家から貢物が中国王朝に送られ、それに応えて中国王朝は各小国へ王の称号を授けるという行為がおこなわれていた。

 古代日本(倭国)は100国あまりの小国家に分かれていたといわれており、西暦57年には当時の中国の王朝であった漢が日本の小国家の一つである奴国へ「漢倭奴国王」の印綬を授けた。107年に倭国王師升が奴隷(生口)160人を後漢の安帝へ献じた。239年に邪馬台国女王の卑弥呼が魏へ朝貢し、「親魏倭王」の称号を授かっている。5世紀には倭の五王(讃、珍、済、興、武)がそれぞれに遣使を宋へ送っている。この日本の小国については中国の歴史書に記述が残っている。日本の小国家が中国冊封体制下にあることがわかる。

 その後、聖徳太子が600年に遣隋使(全5回)を始め、隋滅亡後は、200年以上に渡って十数回の遣唐使を派遣している。聖徳太子は第2回遣隋使で小野妹子に有名な書簡をもたせている。その記述には「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無しや、云々」とあり、日本は中国に対して対等な関係で交易をおこなおうとする意識があった。しかし、中国側からみれば、冊封関係の従属国の一つにしかなかったであろう。遣隋使と遣唐使を通じて、仏教などの先進文化と知識が日本に伝わった。984年に菅原道真による遣唐使廃止以後は公の交流はなくなった。このことにより、大陸からの大きな影響がなくなったため、日本独自の国風文化が栄えた(平安中期に越前守の平忠盛など私的な交易がおこなわれたが)。なお、「日本」という国号は遣唐使から使われるようになった(7~8世紀に国名が成立したと考えられている)。

 平安時代中期の1158年に大宰大弐となった平清盛が博多に日本初の人工港を建設した。それから瀬戸内海航路を掌握し、1173年に中国(宋)との正式な交流が再開された(日宋貿易)。平清盛は貿易振興政策をおこない、これによって莫大な政治資金を得ることができた。これによって平家は興隆期を迎えることになった。平家滅亡後の鎌倉時代には国交が途絶えた。鎌倉時代には中国との正式な国交がなかったものの、日本有史以来の最大の危機である元寇が1274年(文永の役)と1281年(弘安の役)にあった。

 室町時代になって今度は明との貿易が始まった。1401年から室町幕府第3代足利義満将軍が明へ国書を送り、明(永楽帝)から1402年に「日本国王臣源」の称号を授かり、再び冊封体制に加わった。応仁の乱(1467年から1477年)以降は、力の衰えた幕府に代わって細川氏や大内氏などが日明貿易を仕切った。大内氏滅亡後は倭寇による密貿易が中心となる時代に変わった。

 海を渡った中国以外の関係は朝鮮である。朝鮮半島は中国と日本の間に位置しており、日本は昔から朝鮮に関心があった。319年には倭が百済と新羅を破って、高句麗と戦った。その後、倭は高句麗に破れ、高句麗の勢力が百済に及ぶとともに、その勢力を逃れて多くの朝鮮人が日本に来たといわれている。その朝鮮人とともに、当時の最新技術や知識が入ってきた。日本語の漢字表記もこの頃に始まったといわれている。また663年には唐・新羅の連合軍と朝鮮半島の白村江の戦いがおこなわれた(日本は敗北)。日本はこのころからすでに海を隔てた朝鮮半島に興味を示しており、「日本書紀」では朝鮮半島の南部にある任那という地域が日本の植民地であったという記述がある(これは事実ではないが)。朝鮮は大国・中国への道であり、当時から日本にとって重要な場所であったことがわかる。朝鮮との関係は昔から複雑であった。その後も中国との関係の中で朝鮮が関わってくる。元寇の時に高麗が日本を攻めたり、逆に秀吉の軍勢と李氏朝鮮軍が戦うことになったりと、日本と中国の間で朝鮮半島の民は苦しむ運命にあった。

 古代から室町時代中期までの日本周辺の海洋秩序は、中国がつくる朝貢貿易システムであった。日本はゆるやかであるがこの中国朝貢貿易システムの秩序の下、細々と中国と貿易をしていたのであった。日本は国内事情にあわせて、その朝貢貿易に参加したり、離脱したりを繰り返していた。この時期の日本海運は中国のみを意識していればよかった。朝鮮半島の国家はこの当時からも中国と日本に挟まれて、どちらかの国に使われているという状態であった。海の役割は島国・日本と大陸・中国を結ぶ道の役割を果たしていた。言い換えると海は2つの点(中国と日本)を結ぶ線であった。

3.赤子で終わった日本の大航海時代

 日本は戦国時代に入ると中国との公式な交易が途絶えたが、中国以外の勢力がアジアの海に入ってきた。スペインとポルトガルである。ヨーロッパでは大航海時代という歴史的転機を迎え、アジアにまで勢力を延ばしてきたのであった。

 はじめて日本に入ってきた西洋人はポルトガル人であった。1543年に種子島に火縄銃と一緒に漂着した。この鉄砲伝来によって、織田信長が天下統一に向けて大きな一歩を踏み出すことになった。またこの頃にキリスト教が海を渡って伝わった。ヨーロッパで起こった宗教改革によって劣勢となったイエズス会の宣教師たちが、ヨーロッパの珍しい品々とともに海を渡ってやってきたのであった。布教活動は貿易を伴っていた。貿易を望む大名の中には、キリシタン大名になるものも現われ、その一人でもある大友氏らは1582年に天正遣欧使節をローマ教皇へ派遣した。この頃からポルトガルやオランダ商船が来航するようになった(南蛮貿易)。

 信長の死後に天下をとった豊臣秀吉はヨーロッパ諸国のアジア進出に触発され、失敗に終わるが文禄・慶長の役(1592~98年)を起す。また秀吉は朱印船を東南アジアの各地に派遣した。秀吉はこれまでの日本の歴史の中では稀に見る積極的な海外進出をおこなった。徳川家康は、朝鮮との国交回復や島津氏による琉球征服をおこなわせる一方で、秀吉の朱印船貿易を引き継ぎ、東南アジアとの交易をおこなった。家康は1600年に豊後に漂着したオランダ船航海士ウィリアム・アダムスらを外交顧問にするなど、海外交易に熱心であった。印状を携帯する日本船は当時日本と外交関係があったポルトガル、オランダ船や東南アジア諸国の支配者の保護を受けることができた。1604年に朱印船制度を確立し、それ以後、1635年に鎖国が完成するまで350隻以上の日本船が朱印状を得て海外に渡航した。その朱印船貿易の結果、多くの日本人が東南アジア諸港に渡航し、日本人町が形成された。その最大のものはタイのアユタヤ日本人町で、他にもヴェトナムのホイアン、マレーのパタニ王国、カンボジアのプノンペン、フィリピンのマニラにも同様の小規模な日本人町があった。この時期を日本の大航海時代と呼ぶ人もいる。しかし、その後に鎖国が完成すると日本人町は次第に力を失っていき、自然消滅してしまった。海洋国家・日本は生まれなかった。

 このように戦国末期から江戸初期にかけて日本も大航海時代に入るかに見えたが、江戸幕府の鎖国政策によりその芽は摘まれてしまった。日本が国際(海洋)秩序をつくる機会を失ってしまった。これ以後、日本は海岸線にへばりつくような航路を使って国内海運に専念した。沿岸海域に限定した海運を営み、世界に広く繋がる海という要素を捨ててしまったのであった。日本の海は「世界を隔てる海」となった(この頃同じ島国のイギリスは海外進出し、イギリスにとって海は「世界に通じる海」になり大英帝国が築かれていく)。しかし、鎖国政策は悪いことばかりではなかった。なぜなら無防備に門戸を開放していた東南アジア諸国は、イギリス、オランダ、フランスの植民地政策の餌食となり、彼らの帝国の範図に入れられた。日本は鎖国をすることによって、東南アジアの利権に対してヨーロッパの国々と衝突することなく、またヨーロッパの侵入を防ぐことに成功し、260年にも及ぶ太平の時代を築くことができた。そして、日本独自の文化を育てることができた。この時代は、中国と日本の線以外に、別の線を他方向に伸ばしつつあったが、西洋化の危険を察知し、一気に伸ばしていた手を引っ込めてしまった。オランダと薄い線でつながっているものの、島国として国を閉ざし、最後に一点に収束してしまったようであった。

4.急造海洋国・日本のはじまり~パックス・ブリタニカの下で

 1853年にペリーが来航し、日本の長きにわたる鎖国政策に幕が閉じられることになった。徳川幕府に代わって日本を運営することになった薩長の明治は富国強兵政策を推し進め、積極的な軍備増強をおこなった。これは列強諸国から侮りを受けず、独立国家として歩むためであった。植民地を持つ国か、植民地になる国のどちらかを選択しなければならない時代であった。日本は植民地を持つ国になろうとした。1871年に岩倉使節団が欧州列強諸国へ遊学した。1876年には明治天皇が「明治丸」によって函館から横浜(7月20日に無事帰着)まで航海をし、海洋国としての門出を示された。海洋国として世界にデビューといきたいところであったが、東南アジアはすでに列強の手に落ちており、秀吉や家康の時代にあった東南アジアへの勢力拡大の機運は、もうなくなっていた。大英帝国はインド、シンガポール、香港の重要港湾を握り、アジアの海洋秩序の上に君臨していた(パックス・ブリタニカ)。日本はそのような地政学的必然性と長い鎖国生活のマインドによって、再び日本のベクトルは中国と朝鮮へ向かうことになる。島と大陸との関係が再び始まった。

 1875年に起きた江華島事件をきっかけにして、1876年に日本は朝鮮に対して日朝修好条約を結び、朝鮮半島への足がかりをつくった。そして、1894年に朝鮮への支配権をめぐり日清戦争が勃発することになった。日本の連合艦隊は清国北洋軍と、豊島沖と黄海で激突し、これに勝利した。黄海の制海権を制し、陸軍の兵站線の確保に成功した日本は、日清戦争に勝利し、台湾と遼東半島の領有権を得た。しかし、三国干渉によって遼東半島の領有権を放棄せざるを得なかった。中国や朝鮮へのロシアの野心は明らかであり、日本は対ロシアに向けて準備をしなければならなくなった。日本は大規模な海軍拡張をおこなった。

 そして1904年に日露戦争が勃発した。日本は苦戦を強いられながらも、1905年に日本海会戦でロシアのバルチック艦隊に完勝し、日本の勝利のうちにポーツマス講和条約をとりつけることができた。これによって、一等国として世界から認知され不平等条約を解消し、東アジア地域の帝国主義国としての基礎を固めた。ここで、ようやく有史以来、初めて日本は国際秩序の一翼を担う国となった。しかし、このことは中国の利権に興味を示しているアメリカと衝突する危険性を生み出し、日本海軍も日露戦争以後、対米戦に備え海軍力を増強していくことになる。話は遡るが日本にとって、1902年の日英同盟が大きかった。なぜなら大英帝国の国際(海洋)秩序にイコールパートナーとして組み込まれることになったからである。その日英同盟によって、1914年に日本は第一次世界大戦に参戦した。欧州戦線には、陸軍は参加しなかったものの、海軍は特務艦隊を地中海に派遣している。この時期の日本は、覇権国イギリスが描く戦略の中で動いていた。しかし、一方で東アジアに新たな国際秩序をつくろうと模索し始めたのであった。

5.夢の終わり~大日本帝国崩壊

 第一次世界大戦による欧州の混乱の隙をついて中国権益の強化・拡大を図るために、1915年、日本は中国に対して対華21カ条を要求した。1918年にはシベリア出兵がおこなわれた。シベリア出兵に参加した他の国は1920年に撤退したが、日本は1922年まで戦争を続けた。この対華21カ条とシベリア出兵延長により、諸外国は日本に対しての警戒心をさらに深めていった。列強諸国はこの日本の動きを牽制するために、1921年にワシントン会議が開かれ、日本は九カ国条約、四カ国条約、ワシントン海軍軍縮条約を結ぶ破目になってしまった(ワシントン体制)。九カ国条約によって列強による中国権益の保護が図られ、四カ国条約(米、英、仏、日により締結)により日英同盟を破棄することになった。これにより日本は覇権国イギリスの国際(海洋)秩序から離脱することになってしまった。またワシントン海軍軍縮条約によって英米対日本の海軍戦力比を5対3にすることとなり、日本海軍増強に対する制限がなされた。第一次大戦によって、大英帝国の力が後退し、アメリカが台頭してくるのがこの時期である。中国権益をめぐって日米衝突の状況が整いつつあった。

 日本海軍はワシントン海軍軍縮条約に違反しないかたちで軍備を整えていき、1930年のロンドン海軍軍縮条約を迎えるころには、日本の海軍力は世界第3位になっていた。日本海軍増強に警戒心を抱く欧米諸国は、この条約により日本海軍力にさらなる制限を加えた。この条約をめぐって日本国内政治は混乱した(統帥権干犯の議論がおこる)。1935年に第2回会議が開かれたが、翌年に日本は会議から脱退した。そして海軍軍縮時代の幕が閉ざされた。このころすでに国際連盟を脱退しており、日本は国際政治の場で、完全に孤立することになった。そこからは箍が外れたように、日本は膨張していく。

 1935年に南進政策が海軍によって唱えられ、大東亜共栄圏構想の柱となっていった。1939年に海南島、新南群島(インドシナ)、汕頭、福州などを次々に占領していった。同年に欧州で第二次世界大戦が始まると、東南アジアから英仏勢力が撤退し、それに乗じて日本はより南進政策を推し進めた。1940年に第2次近衛文麿内閣は「基本国策要綱」の中で南方地域を自給圏と位置づけ、日本軍は南部仏印に進駐した。世界有数の海軍力をつけた日本は、ここに至ってアジアの国際秩序を打立てる野望をもったのであった。

 しかし、この意欲的な日本の帝国膨張をアメリカは黙って見ているわけにはいかなかった。英国とオランダとともに日本に対して、対日資産凍結や対日石油輸出禁止措置など(ABCD包囲網)をおこなって、日本の膨張を抑えようとした。このアメリカの対日措置に対して日本は交渉による打開策を模索するものの、第二次大戦に参戦したいアメリカの術にはまり、アメリカとの戦争に突入したのであった。

 1941年12月8日に、真珠湾攻撃により海戦の戦端が切られた。その後、日本海軍は太平洋において、バタビア海戦、セロイン海戦、珊瑚海海戦と戦線を拡大させていった。敗北への転機とされているミッドウェー海戦がおこなわれたのは1942年4月のことであった。しかし、これ以後日本海軍は負け続けたのではなく、第一次ソロモン海戦、南太平洋海戦、レンネル島沖海戦などで勝利した。しかし、戦争が長期化するにつれて、兵站が延び次第に疲弊していった。

 1944年になると日本海軍は総崩れになる。マリアナ沖海戦で制海権を喪失、レイテ湾海戦で連合艦隊が事実上壊滅した。1945年4月7日に戦艦大和が沖縄へ海上特攻へ向かう途中に撃沈し日本軍が誇った連合艦隊は完全に消滅した。そして1945年8月15日に敗戦を迎え、大日本帝国は崩壊した。

 日本は一見、大海洋国になったようであったが、実情は違っていた。明治以来、富国強兵を急ぎすぎたつけが回ってきたのであった。松村劭氏によると「制海権」とは「商圏を守る権力」と定義される。安定的な海上交通の利用を担保し、競争相手国(敵対国)の利用を排除する管制権力を備える必要がある。これを維持する手段は、「艦隊」と「基地」であるという。海軍力とは「艦隊+基地部隊の総和」なのである。しかしながら日本海軍はそのような設計がなされていなかった。日本海海戦圧勝の夢から覚めずに、大艦巨砲主義で、日本近海における艦隊決戦のために日本の艦隊は用意されていた。よって基地に対する考えや海上輸送に対する認識が乏しかった。日本の基地造営能力ははるかに劣っていたことが敗戦の原因の一つとされている。また海上輸送に対する重要性についても意識が低く、海上通商路に関する護衛思想がなかった。戦時中も商船隊に護衛をつけずに丸腰で航行させることもあった。その結果、陸軍20%や海軍16%という死亡率に比べて、戦争に借り出された船員の死亡率は2~3倍の43%に昇り、海の藻屑と消えた。なんと約2人に1人という非常に高い割合で日本船員は命を落としたのであった。日本は急速に海軍を増強したが、海運・海軍思想が育っていなかった。アメリカやイギリスと比べると海洋国家としてあまりにも未熟であった。日本は国際(海洋)秩序をつくることができなった。

6.まとめ

 大日本帝国崩壊までの日本の海に関する歴史をざっとおさらいしたのであるが、そこから得られる教訓は何であろうか。日本の傾向を探してみたいと思う。

 日本は安定した国際海洋秩序に参加していることが大切である。中国の朝貢貿易システムや大英帝国など、その時々の覇権国のつくっている国際海洋秩序にゆるく参加しているのがよい。また、この“ゆるく”参加というのが大事である。日本は覇権国の築いた国際秩序に参加しているものの、完全なる従属をしてこなかった。あくまでも対等関係を保とうと努力してきた。これがうまくいっているとき、日本はよい状態である。

 しかし日本が国際海洋秩序をつくろうとすると失敗する。日本は多くの国がひしめきあう国際関係の場の経験が少ない。海洋国としての経験が浅い。世界では海運力は海軍力を伴って発達してきたと思うが、日本の海の歴史を見るとそうではない。海運と海軍は別々の歴史を歩んできたようである。欧州では商圏をめぐる海戦がおこなわれてきたが、日本ではこれはなかった。日本の海に関する出来事を見ても、貿易は貿易で、戦争は戦争であった。海上通商をめぐる争いを見ることはできない。これが対アメリカ戦で批判がある「海上通商路に関する護衛思想の欠如」につながってくるのである。日本は厳しい国際競争の感覚が乏しい。世界の常識と何かずれているのである。これでは世界の多数が参加する国際秩序を構築することはできない。

 これまで、鎖国時代は例外として、日本は国際秩序に参加しつつも、従属することなく独自の立場をとってきた。この振舞い方が日本にとってよいのかもしれない。日本の常識は世界の非常識なので、国際世論を形成することは難しいので、日本が覇権国となって国際秩序を築く野望は捨てたほうがよい。したがって日本は、覇権国がつくる国際秩序に参加しながらも、日本の個性を生かして、独立自尊の気概をもって歩んでいくのがよいのであろう。

参考文献

1.海の昭和史 秋田博 日本経済新聞社
2.海の帝国 白石隆 中公新書
3.針路を海にとれ―海洋国家日本のかたち 大山高明 産経新聞出版
4.三千年の海戦史 松村劭 中央公論新社
5.続々世界史の見取り図 荒巻豊志 東進ブックス
6.日本の歴史 東西社

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黄川田仁志の論考

Thesis

Hitoshi Kikawada

黄川田仁志

第27期

黄川田 仁志

きかわだ・ひとし

衆議院議員/埼玉3区/自民党

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