論考

Thesis

神話を通じて「天分に生きること」を伝えたい

神話はギリシャやローマに限らず世界中にさまざまであるが、神事や祭祀そして風習にまで神話の影響が残っているのは日本だけのようである。そこに見られる日本の技術に対する思いや仕事に対する姿勢は未来に伝えていかなければならない。精神の分断を乗り越えて、強く「天分に生きる」ことの大切さを子供たちに伝えなければならない。

1.はじめに

 日本人は「日本の伝統精神とは?」とか、「日本人らしさとはなんであろうか?」という問いをするのが好きな国民なのだそうである。それはなぜだろうか。推測するに、先の大戦の敗戦により、そしてその後の米軍の占領により、日本の伝統精神が変えられてしまったのではないかという疑念から、このような問いが発せられていると思われる。そして「日本人らしさとは何か」を論じ、絶えず確認する作業によって、その疑念から脱却しようとしているのではないだろうか。また、昨今のグローバル化の波に洗われて、日本人が日本人でなくなってしまうのではないだろうかという恐怖があるからではないだろうか。

 そのような疑念と不安の中で、日本の良質な伝統精神がだんだんと薄れていってしまっているような気がする。その一つの理由は、神話が親から子へ、子から孫へ伝えられなくなってきているからであると考える。宗教哲学者のひろさちやは神道は日本民族宗教であり、日本人(日本民族)に日本人としての生き方を教えているといっている。日本の神話はこの神道の要素を伝える基礎になる話である。私の父母の時代までは、イザナギとイザナミの国生みの話や天の岩戸の話など当たり前のように話し伝えられてきていた。しかし、我々の世代からはそれがなくなってしまっている。

 そこで本論文では、神道の教えから日本の伝統精神を読み取り、今日までそれがどのように私たち影響を与えているかを確認したい。そして、今後の日本人として生き方を考えてみたい。

2.神話のスサノオとヤマトタケルから日本の精神を読み取る

 日本民族宗教(神道)の経典というべき書物は『古事記』『日本書紀』、そして『万葉集』である。研究者の中には『古事記』や『日本書紀』の成立は八世紀であり、神代からの伝承とはいえないと否定する向きもあるが、日本人がこれまで「何を信じてきたか」が大切であって、これらの書物の話が事実であるかどうかについては、精神論にとってはあまり影響がない。西洋をみるといい。キリスト経の経典は『旧約聖書』と『新約聖書』であるが、本当にモーゼが本当に海を割って道を示したとか、聖母マリアが処女のままキリストを生んだとか、それが事実かどうかということは問題にしてはいない。同じように『古事記』や『日本書紀』は、日本人に対して日本人らしい生き方を教える書物といってよいのである。

 『古事記』や『日本書紀』の神話を読むと、そこには雑多の神様達が存在し、日本人の自然への考え方を教えてくれる。日本人には「自然への畏怖の念」があり、これからの地球環境問題について考えるための重要な価値観である。これについては多くの場所や人が語っているので、ここでは言及をしない。私が注目したいのはスサノオとヤマトタケルである。彼らは日本人に「天命を全うする」ことを教えてくれる。

 私は海神・スサノオがとても好きである。なぜならどうしようもない神様であるからである。スサノオは、父に国生みのイザナギと姉にアマテラスをもつ由緒正しい神様である。にもかかわらず、父・イザナギの命に背き海を治めないので、父の逆鱗に触れ追放された。その後に姉・アマテラスの国へ行ったが、乱暴を働くので姉の国からも追放されてしまうという体たらくだ。しかし、スサノオは活躍の場所を得ていなかっただけなのである。彼の乱暴な気性は戦いに向いており、それが天命であったのだ。アマテラスの国を追放されたスサノオは、出雲の国(黄泉の国・母のイザナミの国)へ向かうが、その時に八岐大蛇を退治し、英雄となった。彼の天命は戦士であったのである。場所をへて、天分を全うすれば、仕事ができるということである。八岐大蛇退治の後は出雲の国に納まったようであるが、それは初めに行きたがっていた母の国だからではないだろうか。彼は初めから自分の進む道を知っていたのかもしれないと勝手に想像している。

 次はヤマトタケルであるが、彼も猛々しい性格から景行天皇のから疎んぜられた。その結果、征伐隊として東奔西走しなければならなくなった。しかし、ヤマトタケルの性格は戦士に向いていたのであった。彼は帰国の途中で命運尽きるが、武勇伝を残し、名を残した。天分を全うしたといえるのではなかろうか。

3.聖徳太子が教える日本人の生き方

 『日本書紀』に記されている聖徳太子の十七条憲法も、私たち日本人に行き方を教えてくれる。第一条の「和を以て貴しとなす」という言葉はあまりにも有名であり、日本人は古来から教えられてきた「和」の精神を大切にすることは言うまでもない。宗教や民族の対立から紛争が絶えない世界の状況をみても、われわれは「和」を尊ぶ国でありたいと思う。しかしながら、私が本節で注目したいのは第七条の「人各(おのおの)任(よさ)有り」という教えである。第七条の全現代語訳(日本書紀 講談社学術文庫)を下に紹介する。

「七にいう。人はそれぞれ任務がある。司(つかさど)ることに乱れあってはならぬ。賢明な人が官にあれば、ほめたたえる声がすぐに起きるが、よこしまな心をもつものが官にあれば、政治の乱れが頻発する。世の中に生まれながらにして、よく知っている人は少ない。よく思慮を重ねて聖となるのだ。事は大小となく、人を得て必ず治まるのである。時の流れがはやかろうが遅かろうが、賢明な人に会った時、おのずから治まるのである。その結果国家は永久で、世の中は危険を免れる。だから古の聖王は、官のために立派な人を求めたのであり、人のために官を設けるようなことをしなかった。」

 今の内閣を考えると適材適所で人材を配置したのか、単にその人の名誉のために大臣ポストを与えているのではないかということを、この第七条を見て政治は反省して欲しいと思う。最近のどうしようもない政治状況を見ると、ついこのようなことをいいたくなるが、この第七条に関して述べたいのは政治や行政に対することではない。十七条憲法はそもそも官吏に向けた法であるが、一般の日本人にとってもすばらしく、この第七条も私たちによりよく生きるための心構えを教えてくれる。私たちは「天分を全う」しなければならないということを教えてくれている。「人はそれぞれ任務がある」という言葉は、「人はそれぞれ天分(天命)がある」という言葉に置き換えられるのではないだろうか。また、「人各(おのおの)任(よさ)有り」という言葉も「人にはそれぞれ良いところがある」のでそれを伸ばし活かしていけばよいということと考えることもできる。「任」は「良さ」という意味とは違うが、「よさ」と読まれるので、このように解釈してもよいであろう。続いて前後を多少省いて解釈すると、次のようになる。「人は生まれながらにして、自分の能力を知っている人はいない。よく考えて、精進することでなんらかの達人となるのである。事の大小は問題でなく、人は必ず活躍できる場所がある」と言っている。まさに「天分に生きよ」ということではないだろうか。自分の能力を見つけ、磨き、使うこと(天分に生きること)で、仕事の大きい小さいと関係なく、自分の居場所を見つけることができるという尊い教えを聖徳太子は教えてくれているのである。

4.天分に生きていた日本人

 少なくとも曽祖父の代までは、日本人はこのような伝統精神を受け継いできた。その証拠として、本節では幕末・明治前期の様子をよく見てみたいと思う。この時代、日本人は庶民に至るまで大いに天分を全うしていたようである。

 1863(文久3)年にスイスの遣日使節団長として日本を訪れたアンべールは、当時の横浜の人々の振る舞いにひどく感銘を受けていた。彼は回想録の中で、籠の中の魚をどう料理したらよいかと一生懸命に説明する人や、庭の花を代価なしに渡して持たせてくれた人を紹介している。日本人の無償の親切に大変感動したそうである。「善意に対する代価を受けとらぬのは、当時の庶民の倫理であったらしい」とアンベールは評価している。また近代日本の観察者であるモースは、日本の職人たちを単なる叩き大工でなく、芸術的意欲のある自由で気概がある人たちであると賛美している。またアンベールは日本人の労働について、「労働それ自体が、もっと純粋で激しい情熱をかき立てる楽しみとなっていた。そこで職人は自分のつくるものに情熱を傾けた」と感嘆している。

 しかしながら、他の観察者は同時に労働者を「怠惰」とか「不精」とも評価している。江戸時代の人々は、働きたいとき働いて、休みたいときは休んでいたといっている。それは仕方がない評価であろう、幕末・明治は近代への移行期である。近代化前の日本人の行動について、近代化をすでに成し遂げ軍隊的な規律をもって働く外国人が、このように前近代の労働観との違いに驚くのも無理はない。この働き方をもって、日本人は「怠惰」ということにはあたらない。

 出島のオランダ商館フィッセルの1833年に出版した著作には、「自分たちの義務を遂行する日本人たちは、完全に自由であり独立的である」と言っている。明治時代に外国人が戸惑ったのは、日本の召使が主人である自分のいうことを聞かずに、召使自身が主人に対して最良と考える仕事をしてしまうことであったという。

 私たちの曽祖父たちは、このように自由で独立で気概をもち天命に生きたのであろう。もちろん、この幕末と明治の日本人の仕事に対する振る舞いは、ことさら神道の教えを意識したものではないであろう。しかし、こうもいえるかもしれない。神道の神々は日本人にとってあまりにも当たり前すぎて「空気」のような存在であった。ユダヤ教やキリスト教などは、信仰の対象としての神様がはっきりしている。しかし、日本の宗教は信仰の対象がはっきりしない「空気のような神様」なのである。「空気のような神様」すなわち「空気」に自然に導かれて、日本人は仕事を「ワーク」ではなくて、「天命」にしていたのではないだろうか。

5.その「空気」が変わった気がする

 よく日本人は空気が読めるとか読めないとか言って、何か場に存在している「空気」を感じてこれに従おうとする。神道の神々は「空気のような神様」と言ったが、場の「空気」というのも日本人とっては神様であると宗教学者であるひろさちやは言っている。昨今、「天命」であるはずの仕事に対する「空気」がどうも変わってきているような気がする。ニート・フリーターやワーキングプアが社会問題化し、個人も企業も、仕事に対する考え方が悪い方向に行っていると感じる。フリーターは201万人(2005年総務省「労働力調査」)であり、非正規労働者は1633万人(2005年総務省「労働力調査」)で、10年前の6割増となっているとされる。

 松下幸之助塾主の考えとまったく逆に、日本は動いている。塾主は日本の伝統精神を熟知し、私たちに切に訴えていたと思う。個人に対しては「使命を正しく認識すること」と説いている。人は自らの天分を知って、己を鍛えて活躍し社会に貢献することがよいと言っている。企業に対しては、「人間は磨けば輝くダイヤモンドの原石」であると説き、人材育成に力を注いだ。人間は素晴らしい素質(天分)をもっていて、それが生きるように扱うのがよろしいのである。松下幸之助は聖徳太子とまったく同じことを言っているのである。

 最近、個人も企業もこのような「天分を生かす」ための努力を怠ってきている。このままだと社会全体が地盤沈下する。この「空気」を変えなければならない。日本の伝統精神である「天分に生きる」ことを全うしようとする人を増やすことで変えていくしかない。日本人は「空気」が神様であるので、「空気」が変われば日本人の精神が蘇えって行動が変わるかもしれない。これは教育の責任である。

 私たちの世代は神話を聞かされてこなかったし、祖父母の暮らしから学ぶこともなかった。父母の世代はスサノオやヤマトタケルの神話を学校で習わなくても、普通に家で祖父母や親から聞いていたという。また、昔の人は少なくとも三世代前までの人がどのように働いてきたかを直接眼で見、耳で聞いていた。そのことで、「天分を生かす」という日本人の労働観が伝承してきたのである。

 なぜ私たちの世代にこれらのことが伝わらなかったのであろうか。または「天分に生きる」という労働観が弱くなったのであろうか。それは明治の国家神道の成立と先の戦争の敗戦に原因があると考える。明治政府は、近代化に際して強大なキリスト教に対抗するために、一神教的な要素を強化した天皇崇拝の国家神道を人工的につくった。これにより、それまで空気のような存在であった神道が急に強制力をもった宗教に変貌した。本来の神道は多神教で排他的なところが最も少なく、何か一つの対象を特別に崇拝しなければならないといった強制力のない非常にゆるい宗教である。そういう意味でごく自然に特に意識されず当り前のように人々の生活に溶け込んでいた。しかし、国家神道は一神教であるが故に、独善的で排他的な強制力のある宗教になってしまった。そしてその独善的で盲目な天皇崇拝から導き出された愛国主義によって、“聖戦”と称された先の戦争に多くの人々が駆り出された。そして結果は大敗であった。神国・日本は負けないと人々は信じていたのにボロボロに負け、現人神であった天皇は人間であると突然に宣言してしまった。国家神道は崩壊した。今までの価値観が根底からくずれた。それとともに、日本の神話を伝える意欲が無意識であるがなくなってしまったのだ。また、欧米の生活様式が入り、大家族から核家族になり、世代間で伝統を伝え継ぐ機能が精神的にも物理的にもなくなった。

 私たちはどうにかして、日本のよき伝統精神を伝えていかなければならない。そのためには、日本の神話を語り継ぐことであると考える。

6.おわりに

 日本の神話を語り継ぐために、私は皆に伊勢神宮参拝を薦めている。ここには日本の伝統精神を伝えるものが形とてみごとに残っている。私が松下政経塾の研修で最も感銘を受けた研修の一つには伊勢神宮研修であった。そこには1300年前に天武天皇の命によって始められた式年遷宮という祭事あることを知った。この祭事は20年に一度神様の場所と移しかえるのであるが、この時に向けて橋や社まで建て替えるのである。そうして1300年もの間に宮大工の技術が伝えられてきたのである。神話はギリシャやローマに限らず世界中にさまざまあるが、このように神事や祭祀、そして風習や技術にまで神話の影響が残っているのは日本だけのようである。そこに見られる日本の技術に対する思いや仕事に対する姿勢は未来に伝えていかなければならない。精神の分断を乗り越えて、強く「天分に生きる」ことの大切さを子供たちに伝えなければならない。そのような「空気」をつくりたい。

参考文献

日本書紀全現代語訳 宇治谷孟 講談社学術文庫
やまと経~日本人の民族宗教 ひろさちや 新潮選書
政治と秋刀魚 ジェラルド・カーティス 日経BP社
逝きし世の面影 渡辺京二 平凡社
日本の心を伝える伊勢の神宮 山中隆雄 モラロジー研究所
松下幸之助の見方・考え方 PHP研究所編 PHP研究所
仏教・神道・儒教集中講座 井沢元彦 徳間書店

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黄川田仁志の論考

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Hitoshi Kikawada

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第27期

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