Thesis
私は現在、公立小中学校教育のあり方について学び、研修を通じて実践している。日本の歴史的人物の一人である西郷隆盛の人生や思想を探る事により、「人間像」を見出し、それを私の「教育観」「人間観」の礎となるものにしたい。
私は現在、公立小中学校教育のあり方について学び、研修を通じて実践している。教育において、或いは人格形成において様々な要素のバランスが大事である事は言うまでもない。
過去の日本においては学校に限らず家庭や地域をも含めた社会全体が教育力を発揮する事で、教養とともに深い人間性が養われた。だが今日、そういった人間観というものが軽視されている。家庭や地域の教育力の低下を含め様々な要因がからむのであろうが、いずれにせよ、残念ながらそういう現状である。
今回、歴史観を考察するが、日本の歴史的人物の中に、「人間像」を見出し、それを私の「教育観」「人間観」の礎となるものにしたい。
今回、西郷隆盛に焦点をあて、彼の人生や思想を探る事により、ひとつの人物像を、その理想像として見つめてみたい。
まず、西郷を選んだ理由を挙げておく。
最初に時代を考慮した。日本を大きく変革した時期というものは、明治維新と第二次大戦である事に異論はないであろう。そのうちで「近代国家」「統一国家」を創った大きな変動期が明治維新である。変動期にこそ偉人が多く現れるのが歴史の常である。
そしてそんな明治維新期の中でも西郷その人を選んだ理由を三点挙げる。
一点目に、私事で恐縮であるが、5~6年前になるが、私が学生を卒業して未だ数年の頃、社会的にも大きく成功しているあるコンサルタントの方に、何故か「君は西郷隆盛を深く学びなさい」と言われた事がある。その一言だけで「本来は何万円もコンサル料をもらわなきゃいかんが、今回はタダにしていてやる」とまで言われ、とても強く印象に残っている(つまりその時にはすぐに勉強しなかったのであるが)。
二点目に、西郷が維新において非常に大きな役割を担った点である。もちろん非常に多くの志士達の活躍と、莫大な屍の上に維新が成り立った事は十分に理解のあるところである。しかしながら、西郷ひとり欠いた場合に、果たして維新は成り立っていたであろうか?坂本竜馬らにしても同様であろうが、西郷は維新を達成するまでその任を全うした点については竜馬を凌いでいる。
そして三点目に、私欲を捨て国策に奔走した西郷であるが、しかし最終的には大義名分の無い戦いに身を投じ果てることとなった、その悲運に強い関心を覚えた。
西郷は大儀を重んじ、名分を全ての行動の基準に求めた。そして私利を欲さず、新しい世の中を作るために生涯を捧げた。
そんな西郷の生き様に多くの若者達が惹かれ大将として慕ってきた。風雲の中心に身を置きながらも、島流しも含め自ら中央政府から遠ざかる西郷を、時代がやはり必要とした。高崎ら二人の家臣による命を賭した求めにより赦免された西郷は、薩摩に戻ると席の暖まる間もなく京へと召され、早速のこと久光より軍賦役兼諸藩応接係を任命された。つまり罪人だった西郷があっという間に薩摩の実質的な指導者となるのである。 私は西郷に指導者的資質のみを求めるのではない。人に愛されるという、むしろこの点である。もちろん西郷には指導者としての強い資質があろう事を認める。そしてその事自体も非常に魅力であるし、この点を探る事も非常に有意義である。それと相違うものではないが、まずその根底に人を惹きつける魅力というものがあるべきであろうし、また指導者のみでなく、万人にこの「人を惹き付ける人間性」という資質は求められるところであろう。
私はこの観点で西郷という人物とその思想を探ってみたい。
ここで幾つかの著作においての、歴史家による西郷評を確認しておきたい。
海音寺潮五郎氏は「西郷と大久保」で「最も大様で、最も大らかな性質でありながら、最も感情の強い人柄である。その好悪感情は、心術の清潔・不清潔、正・邪にある。不潔な心事、邪悪な心術を、ぜったいに寛仮する事が出来ない」と評している。
猪飼隆明氏は、著書「西郷隆盛」の中で、西南戦争最期の場面を引いて、「『晋どん、もうここでよかろ』という西郷の最後の言葉に、名分なき長期戦への絶望は読み取れても、苦労を強いた民衆への謝罪の心を見出すことはできない、ここに士族反乱の看過出来ない本質がある」と評している。
また、同氏は弟を戦火に送った者による評価として、「当初、官軍のみによるものだと思っていた放火や略奪が薩軍も行っている事を知ったとき、反乱(薩摩)軍に対する共感は一挙に崩れ去った」と紹介し、「反乱は『正義の戦争』でなくなった」と厳しく評価している。
民衆の彼に対する信望は厚かっただけに、西南戦争での「大儀なし」という批判はやはり風当たりが強い傾向にある。
内村鑑三は「武士の最大のもの、また最後のものが世を去った」と評した。
続けて、遺されている本人の発言を見てみたい。
西郷の人生観をあらわす言葉として「敬天愛人」という言葉が最も適切だとは、既にご承知の事であろう。「天はあらゆる人を同一に愛する。ゆえに我々も自分を愛するように人を愛さなければならない」と、彼は綴っている。
また反対に彼は自己を愛する事を戒める。「人の成功は自分に克つにあり、失敗は自分を愛するにある。八分通り成功していながら、残り二分のところで失敗する人が多いのはなぜか。それは成功が見えるとともに自己愛が生じ、つつしみが消え、楽を望み、仕事を厭うから失敗するのである。」と語っている。深く反省させられるが、果たして100%自己を滅して事に当たる事が、今の自分にできるであろうか。
それこそ命を懸けて物事に処するという姿勢を、西郷から学ばなければならない。
西郷は「我が命を捧げる」覚悟で、常にことにあたっていた。征韓論争しかり、西南戦争しかりである。征韓論で彼は自らが全権大使として、その命の危険をはらむ任務を提案している。更に潔い事に、軍を率いていくのではなく、礼を厚くし威儀を正して行くべしとしている。相手を信じ、裸になって相手の懐に飛び込んで話をつける、という事が彼の信条としてあった。
そして彼は首尾一貫、正義と大義名分を重視した人物であった。どんな時でもそれらをもってその行動基準としてきた。西郷にとっては自分の命はもちろん、国家よりも場合によっては「正義」の方を重んじた。
「とにかく国家の名誉が損なわれるならば、たとえ国家の存続が危うくなろうとも、政府は正義と大儀の道に従うのが明らかな本務である。戦争と言う言葉におびえ、安易な平和を買う事のみに汲々するのは、商法支配所と呼ばれるべきであり、もはや政府と呼ぶべきでない」
さて、西郷隆盛を表した数人による数冊の著作を追ってきたが、西郷ほど、後世による評価が一致している人物も少ないのではないか。
「正義」「名分」「敬天愛人」など、その表する代表的な言葉は数個に絞られる。彼がいかに清廉実直に生きたかを、そのまま表している。
伏見の戦いで前線から使者が来て援軍を要求した時、彼は「諸君全員が戦死したなら送ろう」と言った。使者は帰りそして敵をみごと撃退したという。そういうぶれない芯を持った人物であった。
彼は愚直なまでにまっすぐで、そして同時に深い情に満たされた人物であった。
わが国が「国をたてる」為に、こういうシンプルかつまっすぐで、他への深い愛情をもった人物を育むことが、この混迷した社会をも打破できる人物を多く創出し、また一人一人がその人生に立ち向かっていく礎を築く事ができるのではないか。
この西郷の様な「情」を養い「感受性」を磨くことが、他人を愛し社会を想い、そしてこの世を生き抜く日本の背骨を形づくる根本として重要なのである。
現在、日本の教育においては、知識や技術のみが重視されている。現代日本の教育は知能偏重である。ゆとりをもつだけでは何の解決には向かわないのである。もちろんこれら知識技術が大切である事に異論は無いし、現実世界これらがなければ、個人としても社会としても成り立たないであろう。
かつて私たちはよく、感情は本能であるから人間はこれを理性でコントロールしなければいけない、という様なことを言い聞かされた。しかし重要な事はむしろ、本能や感情を解き放つことではないか。そのことで知情意のすべてを養い、全人格的に養っていくこと。これが大切なのである。
「知情意をバランスよく」と言えば、言葉は簡単であるが、それを実践する教育こそ、そしてそれを体現する人物こそ、今この日本において求められているのだと私は思う。故・井深大氏は著書「あと半分の教育」で、進みすぎた科学が地球や人間の心を荒廃させてしまった歴史を振り返り、戦後の日本人が置き去りにしてきた「人づくり」の大切さと、知識や科学優先の教育への問題意識を語っているが、半分どころか、知情意三要素の三分の一しか、現在の教育では「educate」=「能力を引き出す」という役割を果たしていないのではないか。
「能力」を「社会の中で実践する力」「物事を実現する力」と定義すると、「知識」というものは学習によって習得できるが、その知識をも含めた全人格的「能力」というものは、「なんとしてでも実現するのだ」という何にも負けない強い「意志」をもってはじめて生まれるものである。つまり換言すれば意志をもつことこそが能力をはぐくむ根源なのである。
では、その意志はどこから生まれるか?それは心を振るわせる様な「感動」以外にはないのではないか。私は中学3年生の12月に、早大ラグビー部の特集をTVで見て、その姿に心から感動した。「俺がやりたいのはこれだ!」と、自分の夢をはじめて胸に抱いた瞬間だった。そしてそのたった一つのでき事で早大進学を決意し、早実高受験を突破することができた。手前味噌で恐縮だが私にとってこの時の一時間足らずの出来事が自らに行動を起こさせた。つまりは人生におけるたった一瞬の感動こそが自分の人生を大きく左右したと断言できる。
ラグビーの元日本代表選手で主将をもつとめた林敏之氏は「感即動」という言葉を、人をつくるものとして重視している。「感動」の語源だそうだ。「感じることは即ち動くことである」という。「感じ方を変えれば即、行動が変わる」ということでもある。重要なことは行動を起こすほどに心を動かす体験をすることなのである。それが行動の源であり、志の根源であり、更には能力の源泉なのである。感じる事が行動を変え、人を変えるのである。
人生を左右させる体験。飛躍させる決意。その踏み切り板となる「感動する心」を育む。「感動する場」をつくる。これこそが「あと半分の教育」ないしは「あと三分の二の教育」であると私は考える。そんな場をつくり、子どもたちの心に種を蒔き水をやる。西郷隆盛をひとつの理想的人間像としてみてきたが、知識と技術に偏る事の無い、知情意の教育、さらに詰めて言えば「感動の教育」。そんな教育を実現する事が、今の日本を生きる我々にとって、そして将来の日本を背負う子どもたちにとって必要なことであると、私は信じる。
その感動とはどこで得られるのか?それは人によってはスポーツであり芸術であり、場合によっては大自然の偉大な力であり、人との密なる交流である。 つまり様々な要素を提供してやり、子どもたちが(大人も含むが)あちこちで思い思いの体験を通じて共に感受性を高め、何かしら自分なりの魂を振るわせる様な深い感動を得られる場所をひとつでも多くつくってやること。
いたって単純なことであるが、できることからはじめる、そして正解は一つではない、ということを考えると、こういう日々の単純な積み重ねが、人を育て町をそだて、そして国を育てるのである。
こんな日常と少しの非日常が交差する様な、人間の集まる場所、魂の集まる場所をつくっていきたい。教師と出会い、大人と出会い、社会と出会い、仲間と出会い、そして自分と出会う。相手を感じ、自分を感じ、社会を感じる。そんな日常における密な交流の中でのみ、情深い人間、感性の高い人間が育まれるのである。
今の世の中、そんな資質がリーダーたる人材にとって、更には普遍的な人間性として求められているのではないだろうか。
繰り返すが、「感動」や「感性」「人情」などという性質はいたって単純で基礎的な要素である。しかしこういった単純なことが当たり前にできてこそ、次の高次の性質へと高まって行き、社会力、実践力も育まれていく。
私はこういった基本的な事を土台としてしっかりと築き、これからの教育を考え実践していきたい。
その理想像のひとりとして西郷隆盛を思い描く。
[参考文献]
(1)巨眼の男 西郷隆盛(1,2,3巻) 津山陽著
(2)西郷と大久保 海音寺潮五郎著
(3)代表的日本人 内村鑑三著
(4)西郷南洲遺訓講和 雑賀鹿野編
(5)江戸開城 海音寺潮五郎著
Thesis
Kiyotaka Takahashi
第24期
たかはし・きよたか
Mission
スポーツを通じたコミュニティの形成と地域連携